二七五 建国集会の会場へ
エレーシーは、この数年間の中で最も張り詰めた思いがした。
これまで以上に朝早くに目覚めた彼女は、防具を一つ一つ、ゆっくりと、唇を噛み締めながら嵌め、外套の紐をいつもよりも固く締めた。
次に机の上に置いていたタトー家の紋章を手に取り、左胸に付けた。
この紋章は、古く数百年前、第四次、第五次天夢戦争に散った同じト=タトー家の紋章を模ったものであり、ミュッル=アミト=ルビビニアの元貴族、タトー家の者から献上されたものである。
そしてもう一つ、机の上には紅く鈍い輝きを放つ紋章が置かれている。
五枚の花弁を持つ花の紋章。
ティナの好きだった花を模る紋章。
エレーシーは暫く眺めた後、静かに手に取り、外套の裏の左胸の物入れにしまいこんだ。
「失礼します」
突然、静かに扉を叩く音がした。
アルミアが彼女を呼びに来ていたのであった。
「皇帝陛下、会場の準備が出来ました。護衛の者もこちらに待機しております」
エレーシーは、机の上にある窓から青空を見上げた後、一旦目を閉じた。
はるか向こうに、自らの名を呼ぶ喧騒を聞いた。
「……分かった。それでは、向かおうか」
エレーシーは外套を翻し、アルミアに背中を押されて部屋を出た。
荷卸し場に向かう道中で参謀長のエルルーア、補佐のフェブラ、アビアンとも合流し、共に荷卸し場へ向かった。
その沿道には、埋め尽くすほどの人だかりとざわめきがあったが、自分が通ったところから静かになっていった。
この日は朝も早くから、ハリシンニャ川沿いにある船着き場には、その荷卸し場には入り切らない程のミュレス民で溢れ、道と広場の境界はもはやないものとされていた。
この荷卸し場の支払所であったところは、再開戦の時期に「隠れ場所を無くす」という名目で、神経質になった天政府軍によって階段と床を残してあとは全て破壊されており、エレーシーが宣言するにはうってつけの舞台のようであった。
荷卸し場とも広場ともつかないその場所では、既に軍の幹部がエレーシーの到着を待っていた。
「エレーシー……皇帝陛下、おはよう」
会場に入ると、軍統括指揮官であり、建国専門委員長の名も戴いたフェルファトアがまず挨拶に来た。
「おはよう。大分皆さんを待たせたのかな……」
エレーシーはどこまでも続くような人集りに圧倒された。
こういう事はこれまでの集会でもあったが、その数倍、はたまた十倍は多いように見えた。
「皆さん、日が昇る前から集合してるようだわ。さあ……」
フェルファトアはエルルーアと一緒に、元支払所の舞台を右手で指し示した。
エレーシーが見上げると、そこには昔、支払官の天政府人がいつも使っていた大きな机が階段の最上段の端に置いてあった。
エレーシーは、全ての段取りを理解した。
「……そうだね。これ以上、待たせてはいけないね」
ここから先は、あのルビ=ルフェントで護衛してくれたフェルファトアもエルルーアも後にはつかない。
エレーシーは左胸に手を当て、十二段の階段の一つ一つを慎重に、これまでにないくらい慎重に上がっていった。一段、また一段上がるに連れ、民衆のざわめきは消えていく。
十二段目の階段を上がり、机の後ろを歩き、広場の方へ振り返った。
川まで人が続いているだけではない。左にも、右にも人だかりは続いていた。
エレーシーは、改めて左胸に手を当てた後、一息つき、正面を見つめ、じっと観衆の様子を見ながら、これまでの戦いを振り返っていた。
やがて、登壇したエレーシーの姿を見てどのような話が始まるのだろうとエレーシーの顔を見つめ返したり、ひそひそと話をし始めたりしながらも、観衆は自然と静かになっていった。
エレーシーは、広場が人で埋め尽くされているにも関わらず、しんとした静寂に包まれているのを感じると、記憶に思いを馳せるのを止め、おもむろに話し始めた。




