二六八 我が住まい
中心街から抜け、宿屋に向けて少し歩いたところに、エレーシーが借りている部屋があった。
「ちょっと待っていて」
「え、こんな夜遅くにどうしたんですか?」
「少し、この上に用事があるんだ」
護衛役の兵士も問いかけるような深夜であったが、エレーシーは特に用事を明かすでもなく、彼らを待たせて、階段を上がっていった。
前回、ここでの戦いの後にも寄っていたが、やはりそれ以来、特に変化は無かった。
だが、深夜の冷たい空気が、そこでの希薄な生活感を一層浮かび上がらせていた。
ここに用事など無い。
しかし、その部屋はこの戦争においても、重要な意味を持った場所である。
いつの間にか荷物に紛れていた教科書を、僅かな時間で読み、天政府の影の思惑を知ったのはこの部屋であった。
そして、ティナ達と狭いベッドで窮屈な思いをしながらも会議をしたこともあった。
そして何より、それ以前、船着き場から帰ってきた時は、常にこの部屋があった。
エレーシーにとっては、どんな豪華な宿屋よりも、この部屋こそが、一番思い入れの強い場所なのである。
彼女にとって、ここに寄らない理由はなかった。
エレーシーがベッドに腰掛け、そこから部屋を見回すと、この部屋での記憶がまた色濃く蘇る。
ここで一番明かしたいという考えが頭を過ぎった。
しかし、そういう訳にもいかなかった。
「この部屋も、民族の長になるには似合わないかな……じきに引き払わないと……」
エレーシーはしばらく物思いに耽ったが、やがて意を決して立ち上がると、明日に備えて振り切るように部屋を出て、下で待っていた兵士と合流した。
「お待たせ。それじゃあ、帰ろうか」
エレーシーは来たときよりもすっきりとした気持ちで通りを歩き、宿へと帰った。
エレーシーが宿に帰ると、幹部達は既に眠りについていたようで、しんと静まり返っていた。
これから半日もしないうちに、調印式が始まる。
お忍びの日々も、今日で終わることだろう。
エレーシーはとにかく明日に備えるべく、すぐさま眠りにつくのであった。




