一九一 北進への決意
町の南部を流れるエスリハネヤ川のほとりに、エレーシーは訪れていた。
特に何かしようという気もなく、ぼやっと歩いているうちにここに辿り着いたのであった。
川は、エレーシーが長年勤めていた仕事場でもあり、長らく自分の生活の中心にあったものだった。
彼女は自然と、自身の荘厳な身なりに構うこともなく、その土手に腰を掛け、流れる水を眺めていた。
エスリハネヤは穏やかな流れである。
水深は浅く、川底まで見えるほどに澄んだ水を見て、彼女は無心になっていた。
ふと空を見ると、そこには晴れ渡った青空が広がっていた。
いつになくいい天気である。
思わずため息が出る程の自然に浸っていた。
すると突然、ポンと左肩を叩かれた。
「ん?」
エレーシーが顔を左後ろに向けると、そこにはエルルーアが立っていた。
「ああ、なんだ。エルルーアか」
「エレーシーさん、私が天政府軍だったら、貴方は死んでいたわよ」
そう言いながら、エレーシーの横に座り、同じように川を眺めた。
口では厳しいことを言いながら、顔には若干の笑みが感じられた。
「まあ、そうかもしれないなあ」
エレーシーは心ここにあらずと言った感じで言葉を返した。
「なんでこんなところに……?」
「……いや、なんでもないよ」
エレーシーはそう言うと、それを見上げた。
「……そう……」
二人の間には、とりとめのない会話が流れていった。
しかし、エルルーアはその姿を見て、若干の不安感を覚えたようだった。
「……何か、悩みでもあるの?」
エルルーアは下から覗き込むようにして問いかけた。
エレーシーは少し驚いたような顔をしたが、少しエルルーアの方に身を捩らせて話し始めた。
「……もちろん、無いわけではないよ」
「そう……どんな事を……?」
「率直に言うと、本当に自分はこのままやっていけばいいのかな……と」
「このまま……?」
エルルーアは目を丸くしながら聞き返した。
「そう。たしかに、ティナの後を継いで、『総司令官』という役職になった訳だけどね、このままで、この数万人もいる軍の統率が取れるのだろうかって思ってね」
「そんな……」
ここに来て、エレーシーが弱気を感じていることに、エルルーアはまた不安に思った。
「この軍の成り立ちを考えれば、あの時、ティナを総司令官にして良かったなって思ったんだよ。ティナは何だかんだ言って、これだけ多くの兵士をまとめるような統率力もあったし、それに兵士から慕われていたし、私自身も、ティナの側にいる中で癒やされるような、そういう優しさもあった訳だよ」
「ふうん、まあ、それは、そうなんでしょうね」
エルルーアは、姉を褒められて満更でもない様子だった。
「それに比べて、私はどうだ、と」
エレーシーはまた目線を落として話し始めた。
「私には、ティナのような統率力も無いし、皆が思わず慕うような魅力もなかなか無いかなと思ってね」
「そんな……」
「それで本当に、何万人もいる今の軍を率いていけるのかな、と……」
エレーシーはぽつりぽつりとつぶやくようにして話した。
「そんなことはないわ」
エルルーアは、エレーシーの手を取ると、優しく両手で握りしめた。
「統率力とか、魅力とかをエレーシーさんは気にしているけど、それはあくまで姉さんのやり方に過ぎないわ。それはあくまで、姉さんは姉さん。エレーシーさんはエレーシーさんで、姉さんのようになれないなら、自分の色を出していくしかないんじゃないかしら」
「そうか……」
「そうよ。無理やり、姉さんの真似をしようだとか、姉さんに追いつこうとか思わずに、自分なりのやり方で皆を導いていけばいいんじゃないかしらね」
「自分自身のやり方……か」
エレーシーはそうつぶやくと、すっくと立ち上がった。
「ちょっと、自分で考えてみることにするよ」
そういうと、川を離、町の中へ戻っていった。
その日の晩、エレーシーは布団に包まりながら自問自答していた。
彼女は、これまで気づかぬうちに、ティナの幻影に惑わされ続けていたのだ。
そういう意味では、全く乗り越えていなかったといえる。
自分の強み。
そのようなことは、これまで考えたこともなかった。
しかし、幾万もの兵を率いて、強大な地上統括府を倒すというそれは大層な目標を達成しようとすれば、避けて通れないことであった。
エレーシーは物心がついてから、今日に至るまでの間の出来事を思い返しながら、自分の強みや良さとはどこにあるのかという事を考え始めた。
そうして思い立ったものがいくつかあった。
一つは、元気さ。
ティナのようにお淑やかさには欠けるところはあったが、シュビスタシアの下町で数年間暮らしてきた中で身についた、とにかく生き抜くという姿勢はティナよりもあるだろうと考えた。
もう一つは、知識。
エレーシーはハリシンニャ川の港で計量官として様々な事を教えられてきた。それが、これからも役立つのではないか。
そしてなにより、情熱である。
「民族の明日」を明るいものにする。そのためなら、自身がどんな犠牲を払おうとも構わない。
統括指揮官として前線に立っていた頃は、そのように考えて、幾重にも立ちはだかる試練に立ち向かってきた。
とにかくミュレス民族のためならば、何だってできる。
そんな情熱を、エレーシーは改めて思い出したのであった。
これらを最大限に活用し、とにかく総司令官として、冷静に、しかし情熱的に兵を率いて、最終的には勝利を得なければならない。
エレーシーは最終的な勝利を、打倒地上統括府、そしてミュレス民族の自立を、改めて強く意識し始めた。
「そうとなれば、ぐずぐずしてはいられない」
エレーシーは天井を見つめながら、ポツリと呟いた。
これまでの最大の懸念事項であった、シュビスタシアもまた我々の手中に収めることができた。
もはや本隊の前進を妨げる懸念事項はなくなったのである。
そうなれば、やることは一つであった。
北進。
ただ、前進するのみである。
兵士の体力十分、いつでも飛び出せる。
そう考えると、朝を迎えるのが待ち遠しくなってきた。
次の日の朝、エレーシーはいつもの定例会議でまず一番に口を開いた。
「我々本隊は、明日朝の鐘をもって、再び北に進める」
その瞬間、幹部たちはどよめいた。
「これまで、色々とありつつも、ティナの人望に頼るところも大きかった。しかし、亡き今、いつまでもティナにすがっているわけにはいかない。兵士の皆にも、私が総司令官になったからには、私のやり方で今後、天政府、地上統括府と戦っていく!」
「おおっ!」
エレーシーの宣言に、幹部たちは声を上げた。
「もちろん、統括指揮官のフェルフや、参謀の皆の意見はどんどん取り入れる。とにかく、全員一丸となって、打倒地上統括府、打倒天政府、そして明るい民族の明日のために、また気持ちを新たに、頑張っていこう!」
「おー!」
エレーシーが拳を上げると、幹部一同もまた拳を上げた。
これで、幹部の意思は一つとなった。
それから解散した後、レプトフェリアの町は一層慌ただしくなった。
幹部達は明日の出発に向けて奔走し始めた。
そして、総司令官、統括指揮官、参謀長も、会議室に残り、これからの計画について綿密に打ち合わせを始めた。
そして翌朝。
ミュレス大国軍本隊の大所帯が、町の大通りに集結した。
「よし、それでは、出発!」
エレーシーの掛け声とともに、その一団はまとまって動き始めた。
目指すは次なる目標、エルネンベリアである。




