第一章 友達は大事にしよう! ~traitorous friend~ -4-
南部街外壁、関所の真逆。
鈴仙・優曇華院・イナバは夜空の下、壁にもたれながら途方にくれていた。
通信兵として南部街に尽くしてきたはずの自分が、何故、南部街の関所で門前払いを受けるなどという仕打ちを受けなければいけないのか。
関所に居た警備兵の眼光は本物であるように見えた。
妖怪を排除する、という運動は珍しいわけではない。
妖怪化するにあたって人間であった頃の常識が再構築されるためだ。
妖怪には人間の常識が通じない、特に不味いのは殺人衝動を発する場合がある事だ。
ただし、鈴仙にはそのような衝動は毛ほども発祥しなかった。
それでも偏見からか、師の元を友人と二人で飛び出し、南部街にやって来た時、周りからの風当たりはよくなかった。
そのことが理由で、鈴仙は通信兵に、鈴仙の友人は役所の人材管理部で働くことになった。
鈴仙の友人、名前は因幡てゐ。
鈴仙と同じく妖怪化が進み、~~種類は違うが~~鈴仙と同様にウサギの人妖と化した少女だ。
特筆すべき能力は無いが、頭の回転が早く、人材管理部に就いた後も、すぐに上層部に食い込み、主に通信兵関連の仕事を任されるようになった。
鈴仙も彼女の事は一目置いていたが、ことある毎に自分に対する嫌がらせのような悪戯しかけてくる彼女にはゲンナリもしていた。
それはブービークッションから始まり、落とし穴、トラバサミならまだ可愛い方で、白湯に媚薬を入れられた時や、師匠愛蔵の筍の佃煮を外国の珍しいかまぼこと称して無断で食べさせられた時は心底肝を冷やしたものだ。
警備兵に追い払われたということは、そのてゐが私を南部街に入れない様、手回しをしたということか?
普通ならばそれしか考えられない。
とすると、もしかすると自分はあの悪童の悪戯にはめられたのかもしれない。
こんな悪戯はやりすぎだろう、そう鈴仙は思っていたが、冷静になってみるとありえない話ではない。
そういう奴だ、と鈴仙は顔を歪める。
関所に戻って文句の一つでも言ってやろうかと考えたが、すでに日は沈み、外部からの対応は遮断されている時間である。
「仕方ない、野宿しよう」
携帯用テントをリュックから取り出しながら鈴仙の頭の中では自然にビル群での一件が思い出される。
一面、月の明かりが微かに照らすのみ。
あの化け物ならばホームグラウンドになるだろう。
それに街外のここは毛玉の分布地域だ。
こんなところで寝たら死の危険がある。
鈴仙は困ったように手のひらで顔面を手で覆うように支える。
全くどうしたものか。
明日会ったらてゐの野郎、裸で逆さづりにして熱湯で水責めしてやる。
頭の中でヒモに垂らしたてゐを水の中に上げ下げしている鈴仙に、ふと妙案がよぎる。
鈴仙は無言で上を仰ぐ。
眼前には10mはあろうかという起伏の少ない石製の壁。
「登るか・・・」
――――――――
宿の一室。
安価性の電気スタンドの弱い灯りが薄ぼんやりと二人の姿を浮かび上がらせる。
一人は巨躯の男、もう一人は華奢な女。
男は女に馬乗りになり、その白く細い首をミシミシと今にもへし折れそうな音を奏でながらベッドに押さえつけている。
「ぅ・・・ぐ・・・」
下になっている女、十六夜咲夜の顔は苦痛に歪む。
顔は鬱血から紅潮し、唇からは内部から押し出されるように舌が飛び出し、血走った眼球を圧迫する毛細血管がビリビリと痺れを発する。
急激に脳へ送られる酸素が減り、思考能力が無くなっていくのを感じる。
対抗するための武器は床に散乱している。
咲夜は今、即座に打開策を講じねばそこで全てが終わることを理解する。
首に伸びる宿屋の主人である男の太い腕を懸命に叩いたり、膝で大きな背中を必死で蹴るが、全くビクともしない。
(お嬢様、申し訳ございません!)
もはや次に思考が途切れてしまう刹那、咲夜は頭の片隅に押しやっていたアイデアを実行する。
咲夜はすばやく胸にかけていた紐を引き千切り、その右手で男の首向けて勢い良く弧を作る。
紅欠晶の首飾り。
最愛たる我が主人から頂いた首飾りを見も知らぬ男の血で汚すなど言語道断。
しかし、それは命を落とし最愛の主人の命令を達成することが出来ない事と天秤にかけた苦肉の策。
ナイフほどの大きさと鋭く尖ったそれは、男の首に深々と突き刺さる。
しかしその傷口からは血が出ず、男自身も全く動じていない気配だ。
(まずい・・・意識が・・・)
咲夜が死を感じた瞬間、男の首が爆ぜる。
それは首と胴体を分離させるほどの威力ではなかったが、固定するものを失ったのか、男の頭部は180度下側に回るように落ちる。
締め付けられていた力が緩まったのを察知した咲夜は急いで拘束から飛び退くように逃れる。
男はそのままベッドに埋もれるように倒れて動かない。
咲夜は急いでこの宿を出るべく戦闘服に着替えながらこの状況を考察する。
(暴漢?いや違う。この男の目・・・)
光の見受けられない男の眼。
そこには正気を感じることが出来ず、そして抉られても血すら出ない体。
(こいつは人ではない。おそらく生きてすらも・・・)
そう考えた理由はもう一つ。
紅欠晶の首飾りが突き刺さったときに男の首が小さく爆ぜた事だ。
それは火薬の爆発ではない。
爆炎も匂いも無いからだ。
咲夜はその理由を知っている。
紅の首飾りはお嬢様の魔槍グングニルの欠片。
魔槍は尋常ではない魔力の帯びた槍だ。
魔力は一つの媒介に異なる性質の魔力が混ざり合った場合に衝撃を放ちつつ打ち消しあう場合がある。
これもこの現象の一つだと咲夜は理解する。
(死体を操っているのか?そんなことが?だとしても何故自分が狙われなければならないのか?)
メイド服に着替え終わった咲夜は警戒しつつも廊下の外を確認する。
宿の中は静寂だ。自分以外に客が居ないのだろう。
外に出て、物陰に隠れつつ辺りを確認する。
ユラユラとまばらに蠢く影が見える。
自分を襲った男と同様の存在だろうか。
咲夜はこの場から離れなければ、原因を突き止めなければと考える反面、手がかりの無い状況や未だに戻らない橙のこともあり、身動きが取れない。
(そろそろ戻ってきてもいい時間なのだけれど)
「咲夜」
後ろから小声がかかる。
タイミングのいいこと~~いいとは一概に言えないかもしれないが~~に猫の姿のままの橙が戻ってきたのだ。
「遅かったですね、橙」
向こうも暢気にしていた訳ではないと知りつつも、自分に起こった危機を思い起こし、うっかり棘のある言い方をしてしまう咲夜。
瞬時に咲夜は反省するが、そんなことには意に介さないような、それどころでもない様な口調で橙は言う。
「咲夜、見つけたよ!でもこの街どうなっちゃってるの?ゾンビみたいのがウロウロしているみたいだけど」
「ゾンビ・・・なるほどそのニュアンスは正しいわ」
「この街に来たときから変な臭いがしてたんだ。おそらく死体とそれをごまかすための臭い。食べ物の露店が多かったから気づかなかったけど」
シュンとうな垂れる橙。
動物型妖怪で嗅覚の優れた橙がいち早く察知しなければいけない事態だった。
咲夜は自分に何があったかを語らないまま、慰めるように橙の頭を軽く叩く。
「とりあえず、この状況を打破しない限りはなにも出来ないですわ。どうしましょう」
「うーん・・・あっ、藍様がこの街について知っている人に話を聞こう、って」
「この街について知っている者、一緒に来た優曇華院というウサギの妖怪?」
「そうだよ」
「確かにそれはいい案です。しかし・・・」
咲夜はこの街に来る際に鈴仙とはぐれてしまったことを悔やんだ。
多少時間は食っても鈴仙が来るのを待つべきだったと。
そうしなかったせいで鈴仙の居場所がわからなくなっているのだから。
考え込む咲夜に橙が藍の言葉をたどたどしくも健気に口調を真似ながら中継する。
「問題は誰が生きている人間かと言うことだ。生きていそうな人間を考えよう。とは言ってもそれを判別するのは何の状況も把握できていなかった我々には酷な話。だから生きている確率が高い人間を考えよう。此処に来た時の事を思い出してみてほしい」
「来た時、関所での検問でしょうか」
「そうだ。あの時の警備兵は私たちが人間であるか聞いていたね。つまり此処に来る者を選別していたということだ」
「選別?それは何故ですか?」
「わからないさ。ただ考えてみてほしい。人間かどうかを判別するという繊細な役割を、死体に任せるだろうか?」
なるほど、と咲夜は唸る。
それを横目に橙は引き続いて説明する。
「関所に居た警備兵は生きている可能性が高い」
「つまりは関所に行ってみることが先決ということですね。しかし、こんな状況の街で検問をしている人間がまともなことがあるのでしょうか?」
「その通りだ。非好意的である可能性は高い。警戒は最大限に引き上げなければいけないだろう。しかしその時は拷問してでも首謀者を割り出すまでだ」
「決まりですね。警備兵に会ってみましょう」
「気をつけてくれ・・・・という事みたいです」
その語尾から藍の意見は一通り終わったと認識した咲夜は、橙を引き連れて関所へと向かう。
ゾンビたちの動きは昔映画で見たように鈍重なものではなく、生きている人間とさほど差は無い。
それは指を器用に使いドアノブを捻ったり、左右を探索するように見回したり。
そこには知能が備わっているようにみえたが、知覚能力は極端に低い。
視界に入らなければ気づかれない程度であろう。
咲夜と橙はゾンビ達の視線に注意を払いつつ関所へと到達する。
関所の街側には駐屯所らしき場所があることを確認すると、咲夜はかかっている鍵を自前である銀のナイフ抉じ開けて中に入る。
中には驚いたような警備兵の男がおり、椅子から転げ落ちたところだった。
「あなたに少し聞きたい事があるのだけれど」
橙が中に入ったのを確認して、ドアを閉めながら咲夜がナイフを男に突き出す。
男は最初状況が飲み込めずに慌てている様子だったが、すぐに落ち着いた様子で話し始める。
「あの道を無事にここまでやってきたのか?」
「質問しているのはこっちよ」
「そうだったな、何でも聞いてくれ」
先ほどからのやりとりで、警備兵は人間であろう事を二人は悟る。
しかしその落ち着き払った、好意的とも取れるような態度がどうも腑に落ちない。
咲夜は罠を警戒し、月の時計に手をかける。
「まずあなたたちの目的は何?先ほど大変な目に合ったのだけれども」
「そうか。それはすまないことをした。しかし、その質問には答えられない」
「それは何故かしら?」
「俺もよく知らないからだ。俺はある人間の指示でここにいる」
「ある人間とは?」
「てゐ。この街の役員だ」
「街をこんな風にしたのもそいつでいいのかしらね」
「いや」
警備兵は口ごもる。
「どうしました?」
「俺も詳しくは知らないんだ」
「舐めてるの?」
ズカズカと警備兵に詰め寄り、ナイフを警備兵の眼球に突き立てる。
このような状況になっているにもかかわらず『我関せず』の警備兵に憤りを覚えたのもある。
しかし、それ以上にこう落ち着き払った態度を続けられると信憑性のある問答が出来ないのではないかという危惧に焦りが出たためだ。
尚も落ち着いた態度を崩さないまま、警備兵は続ける。
「この街がやばい状況になっていることも知ってる。結果としてその片棒を担いでいる事もな。しかし、これは苦肉の策だ。俺も俺に指示をしたてゐも本意は別のところにある」
「・・・?」
「勿論、君たちに危害を加える事が本意でもない」
「そんな事いわれても信じられるわけないでしょう?」
「君の言うとおりだ」
警備兵の男は突き立てられていたナイフを握り、そのまま自らの目に突き刺す。
咲夜は慌ててナイフを引き抜くが、男の目からはもはやその機能を失った事が明白だと容易に判るほどドロドロと血液が流れ出ている。
「信じられないのは仕方が無い。俺の口からは正確な真実は話せないし、君たちは俺の言葉は信じられないだろ」
確かにその通りだ。
しかし、男の行動は己の発言が嘘偽り無いことの証明。
信じざるを得ないのか、それとも情に流されているだけなのか。咲夜は軽く混乱する。
「だから―――」
男が続けようとしたときだ。
ドカンッと後方で大きな音。
ドアに何かぶつかる音だ。
「咲夜!!来てる!」
人妖型に戻った橙はドアを必死で押さえている。
もう一つ衝撃音。
「おい!君たち、これを!」
警備兵がこちらに一枚の紙を突き出す。
この街の地図だ。
見取り図のように正確に書かれたそれには一箇所丸いしるしが書かれている。
「ここにさっき話したてゐという女がいる!こいつに会って話を聞け!俺に聞くよりもずっといい!」
咲夜は気圧された様にその地図を受け取る。
てゐと呼ばれた役員のところへ行くしか手段は無い事はわかる。
しかし、出口に向かいかけた咲夜は振り返る。
「俺の役目はもともと今日で終わりだ。悔いも無い」
「しかし」
「俺はこの街を残したい。そして少しでも多くの人間に生きて欲しい。そのために動いている。それだけは信じて欲しい」
「・・・わかったわ」
この男は死ぬだろう。だから咲夜はそう答えるしかない。
咲夜は勢いよくドアを開ける。
前方にはドアに体当たりしていたであろうゾンビが襲い掛かる。
咲夜はそれに向かいゆっくりと歩き出す。
咲夜はそれと接触することは無かった。
ただ、自然に、まるで前方の化け物が街角で見知らぬ歩行者であるかのようにすれ違う。
ゾンビの首が爆ぜ、その場に倒れて動かなくなる。
死体を操る魔力と銀のナイフに込められた魔力、二つの魔力の混合による衝撃だ。
咲夜は外を見回す。
近くにいるのは3体。遠くから5体ほど。
「橙、走りますよ!」
「わかった!」
再び猫形態に戻る橙を確認して、咲夜はてゐのいる場所を目指して走る。
その際、近距離にいた3体のゾンビを滑らかに、無駄の無い動きで容易に無力化する。
そしてそのまま前方にいる遠距離のゾンビ5体の内2体も同様に滅する。
しかし残り3体の目標は自分たちではなく関所の駐屯所。
ゾンビたちが自分たちに目もくれず向かっていく駐屯所のほうへ咲夜は振り返る。
警備兵の男は駐屯所の外に出ている。
一瞬引き返そうかと迷う咲夜だが、男は無言で顎をしゃくるのを見て前方へと向き直る。
「いいの、咲夜」
「ええ、行くわよ。橙」
――――――――
南部街、通信兵団司令室。
この一際大きな部屋には無数のデスクが規則正しく並んでいる。
しかし使用しているのは後方の端に一人だけ。
正装に身を包み、しっとりとした癖毛の大変小柄な少女。
その頭からは真っ白で大きなフカフカとした耳が垂れている。
彼女は一人でそこに居た。
それはすでに役所勤務の時間を大幅に回っているからではない。
肘をデスクにつけたその両手で顔を覆うようにしながら動かない。
それは項垂れているようにも、ただ時を待っているようにも見える。
彼女、因幡てゐはこの街にやってきて役所に勤めた後、鰻登りに役職を上げていった。
彼女の知能が特段優れているということもあったが、彼女自身からすると、実力とは別の何かが理由だと感じていた。
今の通信兵団司令官という役職に就く直前に明らかになった。
一人の人物が彼女に面会を申し出てきた。
それは彼女程度では到底接点を持てることなど出来ないような人物。
はじめは突然の事に身構えたてゐだったが、その人物が持ちかけた話は彼女の願望を叶える魅力的なものだった。
彼女の願望とは。
因幡てゐと鈴仙・優曇華院・イナバは旧知の仲。
それこそ2年前の崩壊異変以前からの付き合いで、ずっといがみ合いつつも認め合いながら生きてきた。
そんな鈴仙が通信兵団として危険な仕事を始めると聞く。
運動能力も戦闘能力も低い因幡てゐだったが、それでも鈴仙のサポートがしたかった。
だから喉から手が出るほど欲しかった通信兵団司令官の役職をチラつかされると受け入れざるを得なかった。
引き換えに出された条件は『通信兵団とは関連の無い事には一切関与しないこと』。
因幡てゐ自身も鈴仙と関係の無い事には興味は無い。
彼女はその条件をいとも容易く受け入れた。
こんな事態になるとはじめからわかっていれば、もしかすると拒否していただろうか。
いや、そんなに甘くないだろう。
自分に選択肢などは無かった。
それにあの人物にとって私を利用するかどうかなど、ジュースを飲むのにストローを使うかどうか程度にしか見ていない。
因幡てゐはそう考える。
司令室にいる人物が一人、また一人と減るたびに、あのいやらしい笑みがてゐの頭の中に蘇る。
「あっ、やっぱりここにいたんですかぁ?」
司令室に突如響いた明朗な声。
因幡てゐは顔を覆っていた手のひらを下げ、声の主を確認する。
そう、あの時もこんな笑みを浮かべていた。
「どうも、因幡てゐ」
青と白の巫女服を纏った少女。東風谷早苗。
この衰亡した世界の唯一の希望である英雄神、八坂神奈子に仕える2人の巫女の内の片割れ。
「これは東風谷様、今日はどういったご用件ですか?」
「またまた~。わかっている癖に」
早苗はやれやれといったジェスチャーをする。
「あなたはもう用済みということです」
手のひらの上部に浮遊する小さな黒い靄。
早苗は見せびらかすようにその靄を軽く扇ぐ。
因幡てゐは動じない。
それが予想していたことだから。
そして抵抗することが無意味だと知っているから。
「んん~・・・何か感想でも言って欲しかったですけど、仕方ありませんね」
そういうと、黒い靄が早苗の手元を離れ、ゆっくりと浮遊しながら因幡てゐへと近づく。
そしてその靄はまるで障害物など無いかのように衣服を通過し、因幡てゐの中に入る。
「・・・・・・・っ!」
数秒の静寂が流れた後、因幡てゐの内部をかき乱すような痛みが広がる。
それはまるで自分の体の内部から、渦を巻くようにねじ切られていくような痛み。
苦痛を和らげるために無意識に捩れていく体。
因幡てゐはこの現実を否定するかのように内臓からこみ上げる吐瀉物を堪えるがそれも無駄。
嘔吐のように流れ出た血。
いや違う。
それは鮮血ではない。
どす黒く濁ったドロドロの液体。
これが血である筈がないと因幡てゐは自分に言い聞かせる。
やがてそれは口からのみならず、鼻や目、耳、毛穴などから流れ出るのを感じる。
「痛いですかぁ?苦しいですかぁ?その苦痛、覚えていてくださいね」
早苗はてゐの元にゆっくりと近づく。
そして苦しみながら俯いているてゐの顔を両手で優しく持ち上げる。
「これも諏訪子様・・・洩矢諏訪子様の御意思です」
洩矢諏訪子。因幡てゐには聞き覚えの無い名前だ。
しかしそんな事はどうでもいい。
最後の役目を果たせなかったこと、因幡てゐはそれだけを悔いていた。
「ん~・・・」
期待はずれといった不満げな表情が早苗に浮かぶ。
その時だ。
部屋の外から等間隔の乾いた音。
何者かが廊下走る音だ。
「おっと、先約があったみたいですね。それでは私はこの辺で」
踵を返す早苗だが、思い出したかのように振り返る。
「すぐに死んでしまうのは面白くないので手加減しています。まだ時間はあると思いますよ。会話一つするくらいの時間はね」
因幡てゐは怪訝な表情を浮かべる。
こいつの意図が見えない、そういった表情だ。
そんなてゐに早苗は皮肉に微笑む。
「そうそう、通信兵団は壊滅してしまったみたいですねえ。お悔やみ申し上げます」
早苗は手を振ると、霧散するようにかすれて消えた。
因幡てゐは拳を握る。
関所の警備兵の報告から因幡てゐの得た情報は、『遠征から鈴仙のみが帰り、その他は不明』ということ。
それ以上の情報をこの街の人間が持っていることはありえない。
つまりその一言は自らが首謀者である自白。
(東風谷・・・早苗ぇ・・・!!)
死が近づいてくる。
しかしもう少しだけ耐えねばならない。
ガラリと司令室のドアが開く。
そこに居たのはメイド服を着た少女。
もう一仕事。
そう自分に言い聞かせながら因幡てゐは口を開いた。