2話 出立
◇
リュウの目の前の食卓の上に並んでいるのはエールと、木製のボウルに入ったシチュー、しっとりとしつつも確かな噛み応えを残した黒パン。まずはエールを口に流し込み、複雑な香りと、フルーティな味を楽しむ。
次に木製のスプーンを手にし、湯気が上がるシチューを食感が残る程度に溶けたジャガイモとニンジンごと掬って口に運ぶ。口に入れた瞬間、ミルクの甘みと、何時間も具材を煮込んで染み出た旨味が口いっぱいに広がると、絶妙な分量のスパイスがほんのすこしだけだかピリッと口の中を刺激し、何もかもが溶け出してしまいそうになった口の中を引き締めてくれる。
ジャガイモがホロホロと口の中で崩れていき、ニンジンはじゅわあっと溶けていく。
もう一度エールを口に流し込み、今度は黒パンを一口大にちぎって、シチューに浸してスープが零れ落ちないよう口に入れると、シチューが冷めていないため口の中を火傷しそうなほどの熱さだったが、ハフハフと口の中で冷まして、黒パン特有の酸味とシチューの甘みが合わさった、素晴らしく調和のとれた状態を楽しんでから飲み込んだ。
ーー すると、我慢できなくなったように行商人が声を上げた。
「私も、あれ食べたいです」
「パン付きで50ゴールド、飲み物は別料金だよ」
「お金取るんですか!?」
「当たり前だろ!」
マーラに釘をさされ、マルクにどやされた行商人は肩を落としたが、空腹の欲求には耐えられなかったようで、リュウと同じものを注文した。
フレーナと行商人が驚きの感性を披露し、場が冷え切ったところで、なんとか三人がかりで彼ら二人を説得し、彼女の名前がフレーナに落ち着いた時にはシチューは冷め切ってしまっていたため、またマーラが温め直して来てくれたのだった。
ふとフレーナの方に目を向けると、森で出会った時には魔力の概念を理解していたことから察するに、どうやら基本的な常識は覚えているようで、リュウと同じように食べ進めて幸せそうな表情を浮かべていた。
「本当に美味いなあここの料理は⋯⋯」
「すごく美味しい⋯⋯。幸せ⋯⋯」
リュウはパンを片手に、フレーナは両頬に手を当てて呟いていると、行商人は待ちかねた様子で、厨房に叫んだ。
「マルクさん!マーラさん!早く持って来て下さい!お腹空きすぎて死にそうです!」
「早く食いてえならこっち来て手伝いやがれ!!」
またもマルクにどやされたが、気にする様子もなく、軽い身のこなしで厨房にスイスイと入って行く。
あんなに残念な人だったのか。と、リュウはシチューを口に運びながら呆れていると、ふふふ、とフレーナが口に手を当てて笑っていた。
「あ、笑った」
と、ついリュウが指摘してしまうとすぐにその笑顔は引っ込んでしまったが、先ほどまでの戸惑いと不安の混じった表情ではなくなっていた。
「わたし、何もわからなくてすごく不安だったの。でもリュウ達のおかげでちょっと元気になれたよ」
にっこりと笑ってリュウの目を真っ直ぐ見て告げる彼女に胸の高鳴りとーーわずかな罪悪感を覚え、目をそらし、後頭部を掻きながらモゴモゴと口を動かした。
「まあ、俺は通りがかっただけだし、飯も美味いしな」
と、なんの言い訳なのか、そもそも言い訳としては支離滅裂ではないかと思い至り、エールを飲み干した。
「マーラさーん!エールおかわり!」
「自分で取りにきな!」
「俺もかよ!」
文句を言いつつもエールを取りに行く。後ろでクスクスとまた笑っているフレーナに気付き、まあいっか、と笑みを浮かべる。
リュウがエールを取りに行って席に戻るとすぐに厨房から三人が出てきた。マーラは二人分、行商人は自分の分のリュウ達と同じセットを持ち、マルクは鳥の丸焼きが乗った大皿を手にしていた。どうやら厨房で忙しそうにしていたのはこのためだったらしい。
「さあ、今日はフレーナちゃんの歓迎会だ!たんと飲んで食え!」
と、マルクが号令をかけ、一斉に乾杯をした。
◇
宴もたけなわ、食卓に並んだ料理を平らげ、フレーナはオレンジジュースを、他の者はワインを飲んで歓談を楽しんでいた。ーー行商人は早々に酔い潰れ、椅子に座ったまま眠ってしまっているが⋯⋯。
「それで、これからどうするんだ?」
と、マルクがリュウとフレーナを酒で赤くなった目で見た。
「明日の朝発って森を通ってアランに行くよ。 本当に魔物がいなくなったのか気になるしな」
「そうじゃなくてフレーナちゃんだよ」
「え? ここで預かってくれるじゃないのか?」
当然のようにリュウが答えるのでマルクはほら見ろ、とマーラを見て、マーラは肩をすくめていた。
「フレーナちゃんはどう思ってるの?」
マーラが聞くとフレーナは申し訳なさそうにリュウを見ながらか細い声で告げた。
「リュウと一緒に行きたい」
満足そうに頷くマーラとマルクを横目にリュウは首を振った。
「ダメだ。危険すぎる。それに旅なんてこんな楽しいことばかりじゃないんだぞ? 基本は野宿だし、魔物や山賊だって山ほど襲ってくるんだぞ?」
「守って、くれるんじゃなかったの?」
「ーーっ!」
潤んだ瞳で訴えてくるフレーナを見て言葉に詰まる。あの時はそういう意味で言ったんじゃないんだが、と反論しようとしたところ、マーラが口を開いた。
「記憶を失ってる子と一緒に旅をするのは厳しいかもしれないけど、その子にいろんなものを見せてあげた方が思い出すのには大事だと思うの。ーーそれに」
一度言葉を切って、フレーナの胸元にあるペンダントに目を向ける。
「そのペンダント、魔装具でしょう? すごい魔力を感じるわ。きっと魔力の適正が高いのね」
気付かなかった。いや、最初に会った時に気付いていたが、忘れていた。魔力の波動は感じていたものの、あまりに高密度な魔力で違和感すら忘れていたのだ。
「あーてぃ⋯⋯ふぁ?」
「魔装具。古代大戦時代に作られた、魔力の適正がないものが持つとその身を狂わせるほどの魔力を持ち、それぞれ強力で固有の能力が符呪された魔のアイテム」
首を傾げながら聞いてくるフレーナに、リュウが自分にも言い聞かせるように説明すると、マルクがリュウの腰のあたりを覗き込んできた。
「お前さんの剣も魔装具だろ? なんかわからんがビリビリくるぜ。」
「まあな。こいつの能力はある時こいつにヘソ曲げられてから使わせてくれなくなっちまって、今はただの絶対に折れない剣なんだけどな⋯⋯。 ていうか一目見ただけで魔装具か判別するなんて、あんたらほんとに宿屋かよ。」
「ほぉ。やっぱりこいつらには意思があるのか。」
リュウの問いは完全に無視してマルクは興味深そうにネックレスと剣を交互に見た。
「詳しいな」
「昔軍にいた時にちょっとな」
リュウが追及すると、またもはぐらかされてしまった。
「このペンダントについても何も思い出せない?」
「⋯⋯うん。 目が覚めた時から着けてた」
横に目を向けると、マーラの問いにフレーナは申し訳なさそうに答えていた。
「やっぱりお前さんと一緒にいた方がいいな。 これだけの魔力だ⋯⋯。魔装具を狙う悪党どもに嗅ぎつけられたら、俺様でも守りきれる自信がねえ」
マルクの言葉に一理ある。と考えたが、しかし、リュウはどうしても迷いを断ち切れなかった。
この旅はリュウの自己満足のためではなく、贖罪のため。かつて犯した罪の償いに他人を巻き込んで良いのか、そもそも今度は守りきれるのだろうか、という疑念がリュウの心のなかで渦巻いていた。
「お前さんの過去に何があったか知らねえが⋯⋯、 難しいこと考えすぎなんじゃねえか? そんな歳でいつもいつも哀しそうな目しやがって。今お前さんの前に困ってる人がいて、そいつを助けてやる。 一緒に旅をする理由なんかそれで十分だろ? 」
「⋯⋯ 。」
馴染みの店主とは言え、短い付き合いでここまで人を見ることのできるマルクに心の中で深い敬意を表した。彼の言葉でリュウは決意を固めた。
「わかったよ。フレーナは俺が連れていく。悪党どもからも魔物からも守って記憶を取り戻させてやるよ」
「よっ、男前ー!」
「ガハハハ! その娘を傷つけさせんじゃねえぞ!」
マーラとマルクが茶化してくるが、無視してフレーナと向き合う。
「ってわけだ。これから俺が守ってやる。ただし、記憶を取り戻すのはお前自身だからな。頑張ってくれよ?」
「よろしくお願いします。ありがとう、リュウ!」
ぺこりと頭を下げてから嬉しそうに笑うフレーナを見てリュウはまた目をそらし、明後日の方向を見る。
「なんだかプロポーズみたいだねえ。思い出すなあ。あの時のこの人ったら⋯⋯ 」
「やめろぉ!マーラ!いいからもうガキどもは部屋行って寝ろ!二部屋取ってやってあるから!」
リュウとフレーナは声をあげて笑いながら二階の寝室に向かった。リュウが階段を左に曲がってすぐの部屋で、フレーナはその隣。
「明日は朝出発するんだよね? 早起きしないと」
「そうだな。出来れば日が昇ってすぐには出たいから早めにな」
「わかった! おやすみ。リュウ」
「おやすみ。フレーナ」
そう言って各々の部屋に入り、夜が更けていった。
◇
次の日、日が昇り始める頃にはリュウは、荷物をまとめ、出発できるようにしていた。
旅を始めた時から使い続けているバックパックを背負い、下の酒場に向かった。
「おはよう。リュウ。よく眠れたかしら?」
下に降りると、まだ朝早いというのに、マーラとマルクが見送りに来てくれていた。
「ああ、よく眠れたよ。昨日はありがとな」
「おう。そいつぁよかった。そういやあのポンコツ行商人が報酬だってよ」
マルクが布の袋を投げてよこす。ずっしりと重くなったそれは中にゴールド金貨が詰まっていた。さらにマルクが言うには飲食代と宿泊代も、昨夜リュウとフレーナが部屋に戻ったあと、すっかり酔いが覚めた行商人が代わりに支払い、用事がある、と夜のカルネの街に消えて行ったらしい。
「うぉっ! こんなにくれたのか。 あいつ意外とやり手なのか⋯⋯?」
「さあな。ただ、あんだけすっとぼけてても結構金持ってるみてえだし、案外大物なのかもな」
ガハハと豪快に笑って返すマルクに、さっきはポンコツって言ったくせに、とリュウは冷たい視線を送っていたが気を取り直して、気になっていたことを口にした。
「なあ、フレーナ、遅くないか⋯⋯?」
「そうねえ。私ちょっとみてくるわ」
「頼むよ」
マーラが二階に上がって行くのを見届け、リュウとマルクは椅子に腰掛けると、マルクが話しかけてきた。
「それにしてもいよいよ、戦争が始まっちまうのかねえ」
「そうだな⋯⋯。共和国側はなんとか戦争を回避しようとしてるらしいが、帝国は戦争を始めたくて仕方ないらしいからな」
「帝国も三年くらい前から急に変わっちまったよなあ。お前さんは旅の途中で帝国には行ったことはあんのか?」
「⋯⋯いや、その時は旅はしてなかったが、帝国で暮らしていた時期はあるよ」
「そうか。向こうは向こうで良いところだったんだろ?」
「まあ⋯⋯な⋯⋯。 おっ、来たみたいだな」
歯切れ悪く返事をしたリュウは、人が降りてくる足音を聞いて階段の方を向く。ーーその姿をマルクは髭を撫でながらじっと見ていた。がすぐに階段の方に目を向けた。
最初にマーラが降りて来て、後から、マーラが客の忘れ物だけど取りに来ないから持って行きな、とフレーナに勝手に譲り渡したナップサックを背負ってフレーナが降りてくる。
「ごめんなさい。寝坊、した」
フレーナはまだ完全に目が覚めきってないのか、眠そうに目をこすりながら申し訳なさそうに頭を下げた。
「はははっ。 お前も朝が弱いのかよ」
リュウが苦笑しながら言うと、フレーナが首を傾げて聞いてきた。
「お前も⋯⋯?」
「あ、いや、悪い。昔の⋯⋯ 仲間の話だ。さ、もう日も昇っちまったし、出発しようか!」
「⋯⋯うん!」
不思議そうにリュウを見ていたフレーナだったが、リュウの一言でパッと笑顔になる。どうやら旅に出るのが楽しみだったようだ。
リュウは立ち上がりフレーナと入り口まで歩いて、振り返った。
「じゃあ世話になったな。マルクのおっさん、マーラさん」
「マルクさん、マーラさん、ありがとう」
二人で挨拶をすると、マルクとマーラも笑顔で手を振ってくれた。
「死ぬんじゃねえぞ。またいつでも来いよ!」
「気をつけてね。リュウ。フレーナちゃん」
二人の表情は少し寂しげだったが、新たな旅立ちを応援してくれているようだった。
「おう。また寄るよ。じゃあな」
リュウはそう言い残し酒場を出る。フレーナも挨拶をして丁寧に一礼してから外に出てきた。
「お前、実は結構いいとこのお嬢様だったんじゃねえの? なんか礼儀正しいしな⋯⋯。 いや言葉遣いがフランク過ぎるしそれはないか」
「リュウが言うならそう⋯⋯なのかな?」
首を傾げて思い出そうとするが、何も浮かばなかったようだ。
リュウもこれで記憶が戻るとは微塵も思っていなかったので、フレーナに声をかけ出発を促した。
「さ、行こうぜ。まずは商業都市アランだ」
「うん!」