行き過ぎた相互理解
私は常々思うのだが、人は技術に幻想を抱くらしい。技術の発展が人類の問題を解決してくれる、そんな空想を抱かずにはいられないらしい。
「相互理解が調和をもたらす」。人類の最も見当外れな妄想だ。互いを理解しあえば相手と優しく接しあえる、そんな神話を未だに信じている人間がかなり居る。社会の害悪でしかないのに。
100年ほど前からSNSというものが流行った。自分のプロフィールを公開し気の会う友達を作り、情報を交換し合うのだ。最初は簡素な機能しか持たなかった。せいぜいが日々の出来事を綴る日記帳程度だった。が段々と多機能になりさまざまな情報交換ツールとなった。料理やペットの話から、政治的主張、企業のCM、ニュース等ありとあらゆるものが発信された。さらに発信された情報に対する意見交換、議論の場に発展した。やがてこうした機能を集約し、世界中の誰もが使うSNSを作り上げた企業「Link」が現れた。「Link」は世界一使われる事を活かし、広告で儲けるビジネスモデルを打ち出し、見事世界一の資産を持つ企業にまで成長した。
相互理解が人類を救う。それが「Link」の掲げる理念だ。信じられないことだが、世界中がその考えに賛同し、未だに根強く信奉されている。商談先の人物の詳細は「Link」で調べる。昔の友と連絡を取るために「Link」を見る。政治家を選ぶために「Link」を活用する。そうして相手のことを知り建設的な対話をするのだ。だから「Link」を使わない人間は疎まれる。「Link」を使わない人間の趣味を理解するのには時間がかかる、そもそも連絡が取れない。相互理解に時間がかかる相手は疎まれるのだ。
だが問題がある。相互理解が進めば優しくなれると言うが、それは嘘だ。確かに相手を知れば、愛しさは増す。しかしそれ以上に、相互理解は憎しみを増幅させる。例えば政治的主張。相手が自分と違う政治新年を持っていた場合、必ず憎む。相手の深いところを知れば、大抵受け入れられない。深いところをも受け入れられる親友のような存在は一握りだ。
では表層的な話題の理解をするとどうなるか。例えば趣味の話。趣味が合えば良いがそれも一部の人間と、だけだ。他人の趣味なんて薄っぺらくてつまらない話なだけだ。そんなの聞いても時間の無駄である。かくしてSNSは、仲の良い少数のグループを乱立させ、憎しみを増幅させ、SNSをやらない人間を爪弾くようになった。
この問題の根幹は何か。それは、「技術が人間の問題を解決する」、という間違った認識から生まれた。人の問題は人が変わらない限り解決しないことを忘れたからだ。どれだけ技術が発展しようと問題は生まれるし、問題は一層深刻になる。このことを皆が理解しなければ人類は自らを滅ぼすことになるだろう。SNSを嫌う反社会的な私が抹殺されたように。