連休最終日の僕が図書館で同級生に遭遇するお話
五月五日、ゴールデンウィーク最終日。連休の課題はいくらかあったのだが、既に全て終わらせた僕にとって今日は純然たる休日だった。
予定は目覚めた時から、否、昨日ベッドで目を閉じる前から決まっていた。午前中に図書館へ行き、午後は森に行ってユキとアカネと戯れる。
図書館の開館時間と同時刻に僕は家を出、十分ほど歩いて市の図書館に到着する。
狙っていた通り図書館はがらんとしており、立ち込める静寂と裏腹に僕の胸は躍る。カウンターにいる司書さんに挨拶がてら借りていた本を返却し、まず新着本のコーナーをチェックしたが、特にめぼしい本はなかったのでその足で生物関連の書籍の並ぶ本棚に向かう。
生物関連と言っても学問書ではない。変わった動物など、雑学が得られるような本だ。「生き物」と言った方がイメージに合っているかもしれない。
何度も通っている図書館だが、しかしここにはいつ来ても読んだことのない本がある。
僕は無数の本の中から数冊、特に興味をそそられたものを選び、脇に抱える。
三冊目に手にした本、「知られざる軟体動物の秘密72」という本を開いてぱらぱらとページをめくっていると、本棚を隔てた僕の背後を何者かが通っていった。
足音はゆっくりと進みやがて方向転換し、僕のいる本棚の列に入って来た。
本棚同士の間隔は十分にあるので端に寄れば十分すれ違える。僕は一歩前に出てそのためのスペースを開けたが、しかしその何者かは手前で立ち止まり
「山城だよな?」
と、僕の名前を口にした。
僕は反射的に本から顔を上げ、その未だ正体の知れない者を視界に捉えた。
僕と同じ年頃の男だった。顔の次に僕の目は蛍光色のスニーカーを移った。続いてダメージジーンズ、USAという文字だけが書かれた灰色のパーカーと上がっていき、また彼の顔に戻る。
二度見ても覚えのない顔だった。
接点があったとすれば学校なのだろうが、こんな奇抜なファッションをしている人間が学校で目立たないわけがない。
「…あ」
いや、どうやら突然の出来事に冷静さを失っていたようだ。
学校では制服を着るのだから普段着の奇抜さは何ら判断基準にならない。むしろ普段着が奇抜であればあるほど、制服とのギャップが生まれて推理に妨げになる。
「……ああ、どうも」
気の利いた人間ならここで相手の名前を呼んで握手をしたりするんだろうが、彼の名前を知らない僕にはこう応えるのがせいぜいだった。
一か八かで頭に浮かんだ名前を口にするのは流石に悪手と言えよう。
「連休最終日なのにこんなところで何してるんだ?」
「ああ、ちょっと本を」
それ以外に何の目的があって図書館に来るというんだ。とは思ったが相手がまだ目上の人間であるという可能性が捨てきれていない以上あまり多くは話せない。
敬語ともため口ともとれる口調で表現できるのはこれが精一杯だ。
「そうか。まあ、図書館はそういう場所だしな」
彼は口を閉じた。図書館の中でわざわざ話すことなんてそうあるものでもない。どうやら凌げたようだ。
と、思ったのもつかの間。彼は二の句を継いできた。
「課題は?」
「…え?」
「課題。連休中にやるようにって、出されてただろ?」
まさか忘れたのか?とでも言わんばかりに彼は肩をすくめて見せるが、これで分かったことが増えた。彼は同じクラスの人間。つまり同い年だ。
「ああ。うん。全部終わらせたよ」
「へぇ。優等生なんだな」
感心したように、あるいは驚いたように彼は目を見開いてみせる。
「宿題をやらないのは不良だけど、やったからって優等生とは言わないよ」
使う口調が決定したので僕は急に饒舌になる。
「じゃあ『真面目』って言ったらよかったか?」
彼は顔の横で両手の中指と人差し指を鉤のように二、三度曲げてそう囁いた。
さっきの表情と言い、今の仕草と言い、この男はどこか芝居掛かっている。現実にカギ括弧のジェスチャーをする人間なんて今初めて見た。
「まあ、それでいいと思うよ」
連休中に毎日するように先生が言っていたにも拘らず、それを無視して連休前半で課題を片付けてしまった僕が、果たして真面目と言えるかという点にはまだ議論の余地があったろうが、しかし僕は適当に相槌を打って会話を切り上げることにした。
忘れかけていたがここは図書館。本来私語は慎まれるべき場所なのだから。
「動物とか好きなのか?」
しかし彼はなんと三の句までも継いできたのだ。
注意しようかと思ったが、しかし声自体はさほど大きくない。半径一メートルほどにいなければ聞こえないくらいの大きさだった。
僕は意を決して雑談をすることにした。大丈夫。雑談力ならちゃんと身についているはず。
「…うん。まあ、興味があるっていう程度だけどね」
「ふーん。山城は動物が好き、か。だったら自己紹介の時それ言えばよかったんじゃないのか?」
「え?自己紹介?」
動物に関する雑学を披露しようとしたところ、身に覚えのない話に虚を衝かれる。
「ああ。始業式の次の日のロングホームルームでしただろ?あの時お前自分の名前の説明しかしてなかったぞ」
数秒記憶を探って思い出す。確かに始業式の次の日の一時間目、ホームルームで自己紹介をした時、特技も無ければクラブもしていない僕は自分の名前の漢字の説明に持ち時間を使ったのだった。
「あの時は、みんなにまず名前を覚えてもらわないと駄目だと思ったから…」
「まずって…二年目なんだから知ってるやつの方が多いだろ」
やれやれと彼は大仰に首を振る。しかし「やれやれ」はこっちのセリフだ。僕の学年は3クラス。一年の時に同じクラスだった人と次の学年で同じクラスになる確率は三分の一。数学的に「知ってるやつの方が多い」なんてことは絶対にありえない。
「それにそんなに珍しい名前でもないしな」
「それは自分でも分かってるよ」
「いや、でもトラップ性は高いか」
「トラップ性…?」
名前の話をしているときに出る言葉なのか。トラップって。
「俺は最初お前のこと『やましろ』じゃなくて『やまき』って読んでた」
「まあ、そう読むこともできるな」
「俺の名前のこともあって、まんまと引っかかった」
「名前のことって?」
「え?いや、だから俺の名前。盤石な城って書いて『いわき』って読むだろ?」
彼、改め磐城は怪訝な顔を僕に向けたが、すかさず僕は取り繕う。
「ああ、なるほど、条件反射的にってことか」
「そうそう。名前に使う城は全部『き』って読むものだと思ってるんだよ。無意識にな」
ふっ。とすかしたように笑う磐城。どうやら僕が彼の名前を今まで知らなかったということはばれずに済んだみたいだ。
「で?今手に持ってるそれは…軟体動物?」
「うん。ちょっと気になって」
「イカとかタコのこと、だよな?」
「そう。あとは貝類もその仲間だな」
「え?貝も軟体動物なのか?あんなに硬い殻を持っていながら」
磐城は中学の理科をあまりまじめに受けていなかったのだろうか。彼の呈した疑問と同じものを、僕は中学の理科の授業の時に抱いた覚えがあるのだが。
「軟体動物の定義は外套膜を持つ無脊椎動物だったからな。確か」
「ああ…なんかそんなことを、いつかの授業で聞いた気がするけど…なにせ物理選択だからな。忘れた」
こめかみを押さえて首を傾げながらそんなことを言う磐城だったが、物理選択は僕も同じだ。
それは言い訳にならないぞと思いつつも、そんな相手の気分を損ねるような嫌味よりももっといいものを僕は見つける。
「軟体動物と言えばナメクジだけど」
ユキに授かった知識。今こそ使うのだ。
「え…ナメクジって軟体動物界でそんなにメジャーなのか…?」
怪訝な、否、引いたような顔をされてしまった。確かに甲殻類と並んで食べられる生き物というイメージのある軟体動物であのナメクジを連想させるのは少し無理があったか。
しかしユキやアカネの飛ばす冗談よりは無理のないものなので強行突破を試みる。
「まあとにかくナメクジやカタツムリ。あいつらは貝から進化したのになんと、肺呼吸をしてるんだ」
「へー。そうなのか。まあ、そりゃそうか。陸にいるもんな」
「え、ああ、そう、だね」
僕がこの話を聞いた時よりもリアクションが小さいことに少し戸惑ってしまったが、しかしこの話のオチはここではない。まだ止まるわけにはいかない。
「つまり、ナメクジを退治したかったら、見つけ次第塩漬けにするなんていう回りくどい方法じゃなくて。庭にビールの入った容器を仕掛けておけば…」
「ああ。それはうちのばあちゃんがやってた。文字通り、酒に溺れるんだろ?」
「……」
言われてしまった。オチを、言われてしまった。
「なるほど。ナメクジは肺で呼吸するから溺れるのか。アルコールだから溺れてるのかと思ったら、液体ではそもそも息ができないのか」
磐城はよほどすっきりしたのか、その場でしきりに頷いている。
「おっと。もうこんな時間か」
茫然とする僕を尻目に、磐城はパーカーの袖をめくって腕時計に目をやる。
「クラスの連中と待ち合わせしててね。そろそろ集合時間だ」
「なんだ。本を借りに来てたわけじゃないのか」
「集合時間より早く着いてしまって、暇を持て余してる時に図書館が目に入ったら、そこへ入りたいと思うのは普通じゃないか?」
そうだろうか。ここ最近人と待ち合わせをしたことなんてないので何とも言えないが、僕ならきっと待ち合わせ場所で雲でも眺めながら時間を潰すことだろう。
少なくとも衝動的に図書館に駆け込んだりはしない。
「折角だし一緒に来ないか?」
始めは冗談を言われてるのだと思った。しかし磐城は笑っていない。つまり社交辞令ということだ。ならば僕も社交辞令で返す。
「ありがたいお誘いだけど、遠慮させてもらうよ。またの機会に」
「いや、それは無理だ」
「え?」
予想外の返事に僕は素っ頓狂な声を上げる。
「俺達祭りに行くんだ。連休中の祭りは今日までだから、またとなると来年だ」
「祭り?」
「さすがに受験生が祭りではしゃぐわけにはいかないだろ?」
「祭りって…ああ、そうか。この時期だったな」
まだ早い時間だからそこまで賑わっていなかったが、思えば図書館に来るまでの道中にある神社の参道がいつもより散らかってたような気がする。あれは祭りの出店だったのか。
「本当に来ないのか?今日来るのはクラスの連中だから大丈夫だぞ」
「でも、遠慮しておくよ…実はこの後予定があるんだ」
なぜかは分からない。しかしこの時僕の頭は無意識に断るための言葉を選び、喋らせていた。
「そうか。じゃあ、俺は行くよ」
「うん。ありがとう。誘ってくれて」
去り行く磐城の後ろ姿を見て僕は悟った。また失敗したと。
話はできた。顔も名前も覚えられたのに。ユキとアカネに鍛えてもらった雑談力だって使えたのに。最後の一歩でまた踏みとどまってしまった。
否、もしかするとゴールまではまだあと何歩もあるのかもしれない。それを毎回「あと一歩」と思っているだけで、本当は一生かかっても詰められない隔たりがあったのかもしれない。
手に持っていた本が開きっぱなしだったことに気付き、僕は本を閉じて脇に抱えていた二冊と合わせて両手に持つ。
「今日はもう、帰るか…」
帰ってお昼を食べて、あいつらのところに行こう。
多分まだ早かったんだ。僕の雑談力はまだ、十分に鍛えられていなかった。
だから、あいつらのところへ行こう。
そんなわけで連休最終日の僕が図書館で同級生に遭遇するお話は終わる。