紅の道
「よろしくお願いしますっ! ご主人様!」
ハンガー内に響いたロリ声が熱帯特有の蒸し暑さで朦朧としていた男の意識を強制的に覚醒させる。
急に聴覚がはっきりと戻ってくる。朦朧としていた時では聞こえなかった音が耳に届いてくる。
すると、真っ先に機関銃の連射のような轟音が聞こえてきた。
スコールだ。
数十年前では起きる方が珍しく、雨が降らないでダムが干上がったこともあるらしいが、現在ではほぼ毎日のように降り注ぐ。大抵は数分で止むが、スコールが降っている途中は外出すらできない。普通の雨とは違って粒が異常に大きいために傘ですら破壊してしまう。地球温暖化の影響で海水温度が上昇。沖縄でも頻繁にハリケーンが発生したり、ココヤシの栽培まで広まった。夏にはエアコンですら故障するほどの暑さに襲われる。
そんなわけで今日も雨粒が"滑走路"を打ちつけている。滑走路といってもここは民間の空港ではない。沖縄と滑走路の組み合わせで分かる人もいるだろう。
ここは「航空自衛隊普天間駐屯地」。
十八年前にローズ大統領が発表した"ローズ・ドクトリン"によって米軍戦力をアジア圏から撤退させ、グアムとハワイに集中させた。一昔前は「世界の警察」だとか「唯一の超大国」とか名乗っていたアメリカも今では見る影もない。ニューヨークは工場排煙と酸性雨にまみれ、サンフランシスコにはマフィアやアメリカン・ヤクザ、チンピラが跳梁跋扈して、ラスベガスに至っては完全にゴーストタウン化して砂漠に埋もれていった。GDPもとっくにロシアと中国に追い越され、インドや日本と並ぶ程度に低下した。
それを見かねたローズ政権は数百年ぶりに首都をワシントンDCからロサンゼルスに遷都したがどうにもならず、アメリカ経済は下落の一途をたどっていった。
それによって日米安保条約は解消され、後には沖縄の広大な軍用地が残った。自衛隊は中国の台頭もあってか主力を南方に移し、米軍が残していった軍用地をそのまま自衛隊の駐屯地に転用した。
元から普天間基地は大きかったのに加えて、突貫工事で滑走路を四本付け足したことで普天間駐屯地は日本国内で最大の軍事基地になった。
その男のいる"ハンガー"とはいわゆる戦闘機の格納庫だ。当たり前のように――――――――いや、駐屯地自体が民間人立ち入り禁止だ。
それならなぜ、ハンガーの中に民間人の幼女がいるのか。
答えは簡単。声の主は民間人でも幼女でもない。戦闘機のコックピットに座っている男が見ていたのは"立体HUD"と呼ばれるスクリーンだった。様々な情報がホログラムで投影されるはずのスクリーンに幼女が映っていた。
しかし、現実の幼女ではない。アニメキャラにいそうな、黒髪ロングで日本刀を持って、デフォルメされた幼女だった。
「私の事は"ナデシコ"とでもお呼びくださいっ!」
合成音声のはずなのに、機械らしさは全くなく、プロの声優がアテレコしているようにすら聞こえる。
男はしばらく、にやけた顔で呆然としていたが、ようやく正気を取り戻した。
「ああ、俺は白石睦月。よろしくな。ナデシコ」
「はいっ!よろしくなのです!」
ナデシコは画面の中で笑顔でペコリ、と礼をした。
彼女はもちろん人間でなければゲームキャラでもない。防衛省が独自開発した"次世代操縦システム"だった。
本来は戦闘機にAIをインストールして、視線操作、音声操作を可能にするという画期的な新システムだった。本来の予定ならAIは義務的な会話しか交わさない、ただの情報を伝えて指令を受けるだけのシステムだったが、開発元の防衛技術研究本部の一部のオタク陣が暴走。見事にAIを萌え化した。しかも、配備予定の70機全てに別々の性格を設定した。幼女タイプの"ナデシコ"を始めとして、お嬢様タイプの"サクラ"、ツンデレタイプの"アザミ"、ヤンデレタイプの"ユリ"、素直クールタイプの"アヤメ"、クーデレタイプの"キキョウ"、ドSタイプの"ツバキ"、電波系タイプの"ラン"などなど……。
「あのぅ……ご主人様……?」
ナデシコも芸が細かい。
画面の奥に行き、ギョッとした顔をして、ひきつった笑顔でおどおどと睦月に話しかけた。"これ"にあまり驚かない睦月を見ると、どうやら前にも同じようなAIが搭載されている戦闘機に乗ったことがあるらしい。
外はようやくスコールが止んで、雲の隙間から太陽が顔を覗かせていた。七色の虹の橋が架かり、平凡な空に幻想的な景色を作り出していた。
「どうした?」
睦月が怪訝そうに尋ねる。
フライトシミュレーターで一通り操縦方法は頭に叩き込んでも、AIのロリっ娘にはいまだに慣れない。
フライトシミュレーターのNCSのAIは"サザンカ"という無口系クール少女だった。睦月本人がロリコン予備軍だということもあるが、戦闘機の中で幼女が話し掛けて来るなど、アニメの世界でも珍しい。
「この後の試験飛行が中止になって、早速お仕事らしいのですぅ」
――――お仕事? と頭にハテナマークを浮かべている睦月の耳に、新たな音が突き刺さった。
ジリリリリリリリリリ!!!と、ハンガー内にベルが鳴り響く。
「スクランブル! スクランブル!」
スピーカーから聞き慣れた叫び声がする。睦月のようなパイロットなら年に数十回は遭遇している恒例イベント。領空侵犯の対処だ。しかもここは対中国の最前線。領空侵犯など一日に数十回は起きている。
「対処当番の奴らはどうしたんだよ!」
思わずナデシコを怒鳴り付ける。涙目になったナデシコに罪悪感が沸いたが、それでも苛立ちは消えない。
―――――くそっ! 俺のロリっ娘AIとのイチャイチャタイムを邪魔し
やがって!
ロリコンである。
「みんなはほとんど、百里の基地祭に行ってるか、小松のG空域で海自
や陸自と合同演習をやってて人手不足なのですよぅ。しかも、残ったパ
イロットの大半はこの前の覗き事件で謹慎になってますし」
「レッドグロス演習か……」
レッドグロス演習。
数年前から二年ごとに行っている陸海空の合同演習だ。日本全国の基地から兵力が集中し、リムパックなどの国際合同演習を除けば、国内最大の軍事演習になっている。侵攻する側の東軍と守る側の西軍に分かれて、一週間の間に基地を制圧するという演習だ。それを東軍西軍が交代してもう一週間。合計で二週間あまりかかる。
普天間にいる戦闘機の三分の一がレッドグロス演習に参加し、四分の一が百里の基地祭に行き、残りのほとんどが昨日起きた女湯覗き事件で自室謹慎。そんなわけで現在、稼働出来るのは数機程度しかない。
「さあ、張り切って行くのでーす!」
「テンション高いなぁ……」
睦月はしぶしぶ、タッチパネル式のスクリーンを操作していく。すると、ゆっくりと機体が動き出し、滑走路に向かう。ハンガーを出ると、日光が白いコンクリートに反射して目を眩ませた。思わず腕で反射した日光を遮るが、コックピットに日光が直接降り注いでいるため、無意味だった。
しばらくすると、眩しさにも目が慣れてくる。見えてきた景色は、まさに絶景だった。
何処までも限りなく伸びる滑走路。その滑走路が織り成す地平線の向こうには海がある。北海道にいたころに見てきた荒れ狂う海とは正反対の、蒼く、静かな海。その上には水色の、雲ひとつ無い空。それは果てしなく、空の向こうまで澄み渡っているようにすら見える。
睦月の機体は加速していく。スロットルを押してエンジン出力を最大にして、操縦桿を手前に引く。それらの動作が光子信号に変換され、光ファイバーを通じて各部に光速で伝達される。
全くタイムラグを感じさせずに、エンジンから出る青白い光が強くなり、機首が上がる。エンジンの噴出する高温のガスがコンクリートを打ち付け、その反作用で飛び上がる。
瞬く間に睦月の機体―――――――SF―5H「アドバンス・ゼロ」は3000m上空に上昇し、水平飛行についた。
元々、SF―5は空母の艦載機として開発された小型戦闘機だ。機体重量の割にはエンジン出力が大きく、マッハ3、5という高速飛行を可能にしている―――――――それも、アフターバーナーによる加速を使わずに。機体はタイフーンの"それ"に似た寸法の五角形のカナード翼が特徴的で、主翼は丸みを帯びたダブルデルタ翼という、異質な戦闘機だった。「ステルス? そんなの知らんわーい!」とでも言いそうな形状だが、カーボンの力と、最新のステルス塗料によって、それなりのステルス性は持っている。SF―5CはVTOLが可能であり、推力変更ノズルを用いたF―35と同じ形式になっている。A型は通常運用型、B型は空母搭載型、D型は輸出型、H型は"次世代操縦システム"AI搭載型になっている。
「えーと、尖閣諸島沖のB52R74の空域で中国機が領空に近づいて
いるようなのです。あと、到着予測時刻より5分遅く行けって言われま
したっ!」
このAIの導入によって、AI搭載型は管制官とはやりとりをする必要がなくなった。管制官がAIに情報や命令を送り、AIがそれをパイロットに伝える。
むさ苦しい男どもと話すよりは、二次元美少女と話している方が精神健康にもいいだろう。オタクなら。
到着予測時刻より5分遅く行け、と言うのは防空能力を過小評価させるためらしい。領空侵犯をするのは挑発目的の他に、領域に入ってからどれくらいでスクランブルの戦闘機が上がるのかなどの情報を収集する諜報活動の面が大きい。それを逆手にとって、到着するのを遅らせることで防空能力を過小評価させることもできる。
「へいへい」
睦月がやる気無さそうに返事する。ロリコンである睦月が最も楽しみにしていたロリっ娘AIとのイチャイチャタイムを奪われたのだから当然(?)だ。
いつの間にか島が見えなくなり、眼下には蒼い海が広がっていた。暮れ始めている日の赤が海という名のスクリーンに映り、波によって揺らいでいた。
「空域到達まであと347、7秒。予定通りですよっ! さっすがぁ~」
水平線の彼方に小さな点が見えてきた。目がいいと自負する睦月でも目を凝らさないと見えないほどの、風呂に浮く埃のような点。
尖閣諸島だ。
あっという間に上に差し掛かるが、それでもビスケット程度の大きさにしか見えない。それなのに、こんなに小さな島を巡って両国とも空母機動艦隊を繰り出してまで奪い合う。外交というのは訳がわからない。
さらに、上空にも小さな小さな点が見えてきた。
「ナデシコ、敵機の種類は?」
「ハイパーフランカーが一機と新鋭のJ―50が一機ですっ!」
「マジかよ……」
いつもなら二機がかりで対応するが、なんやかんやあって今回は睦月が単独で対応しなければならない。
相手はSu―53"ハイパーフランカー"。ロシア戦闘機史上最高傑作と呼ばれる第六世代戦闘機だ。Su―47"ベルクト"のような前進翼と大きなカナード翼がついており、最高速度は低いものの、電気信号で機体表面の模様を操作してレーダー波の反射方向を操ることで世界最高峰のステルス能力を実現している。ドッグファイト能力を至っては前進翼とカナード翼と三次元推力偏向ノズルであり得ないほどの機動を実現しており、最先端の赤外線短距離空対空ミサイルを機動でかわすことすらできる。
J―50"フォーチュンストーン"も、中国の誇る高性能新鋭戦闘機だ。超大型の戦闘機で、今では珍しいクリップドデルタ翼の両翼の端に流線型をした大きなウェポンベイがついている。主翼強度が心配になるが、大したことはないらしい。とにかく、ミサイルの搭載数を追求したらこうなった。軍事系雑誌の中にはJ―50"フォーチュンストーン"を戦闘爆撃機に分類している所もあり、対空戦闘ではイマイチだが、対地・対艦攻撃に絶大な威力を誇る。
と、この二機を一機で相手にしなければならないのだ。
「ナデシコ、写真とっとけ」
「あいさー!」
普通、領空侵犯に対応するときは、侵犯してきた機体の写真を撮る。証拠として提出し、後で抗議するためだ。機体下部についている光学レンズで写真を撮った後はSF―5H"アドバンスゼロ"を加速させ、領空侵犯機の機体がはっきりと見えるまでに近付く。
改めて見てみてもやはり大きい。そのJ―50"フォーチュンストーン"は少なく見積もっても"アドバンスゼロ"の3倍はある。いくら"アドバンスゼロ"が小型軽量戦闘機でも、計算するに余裕で30mは越えている。爆撃機と言っても過言ではないだろう。
睦月はタッチパネルを数回タッチして、横のスイッチを押した。すると、国際緊急周波数を通じて警告が流される。
《貴機は日本の領空に接近中である。直ちに針路を変更せよ》
中国語なので聞き取れないが、意味を日本語に直すとそうなるだろう。
しかし、二機とも何の反応もない。ただ、挑発するように睦月の機体の周りを飛び回っているだけだった。
そしてついに、二機は日本の領空に侵入した。
強制着陸に移ろうとしたその時。
ビーッ! ビーッ! ビーッ! ビーッ!
コックピット内にアラームが鳴り響いた。
そこら中の計器類が、表示が赤く点滅する。その"赤"は、嫌でも血を連想させる。
これには、さすがの睦月も恐怖をおぼえた。フライトシミュレーターから演習まで、こんなことは二桁では収まらない程に経験してきた。はずだった。
それでもなお、体の震えが止まらない。頭の中が真っ白になって思考が飛ぶ。息が荒くなり、心臓は拍動が聞こえるほどに強く打つ。一瞬、目の前がブラックアウトしたように真っ暗になった。すぐに視界は戻ったが、身体中に寒気が走る。暖房が効いた部屋から冷凍室に放り込まれたような、そんな寒気が。
思わず、睦月の右手が緊急脱出ボタンにかかるが、押すのをこらえる。
「ろ、ロックオンされましたご主人様ぁ~っ!」
――――――――そんなことはわかっている。やはり演習と実戦では大分違うのだろう。演習は撃墜判定されても何の傷もない。隊長に小突かれるくらいだ。
しかし、実戦は落とされるということがそのまま死に直結する。射出座席も完全ではない。一般的に言われている生存率は80%。風に流されてビルに激突したり、着地の瞬間に背骨が折れたりなど、脱出座席も100%万能ではない。だから、恐ろしい。
震える手でスロットルを操作する。何度もボタンを押し間違えそうになるが、なんとか正しい操作はできたようだ。機体の下部から筒状の物体が二発射出された。"それ"の片方は空中で拡散し、小さな太陽"フレア"のように発熱しながら空中を漂っている。もう片方は筒が内側から爆発し、銀色の花吹雪が空を舞った。桜の花弁のような形をした"それ"はチャフと言う名を持っている。
それと同時に睦月の機体は一瞬で超音速域まで加速し、複雑な曲線を描いて回避機動を行った。数十Gはかかり、即死するところで身体に密着したパイロットスーツの生命維持機能が発動。脳から送られる神経電気信号や、血中酸素量などを調整して持ちこたえさせる。その苦痛に耐えきったところで、"あること"に気が付いた。
「ミサイルが……来ない?」
その時、それまでは沈黙していた無線装置から国際緊急周波数を通じて声が聞こえてきた。端的に言うと、その声は笑い声だった。中国語だったので何を言われているかは分からないが、とにかく、バカにされていることだけは読み取れた。
「えーと、翻訳しますと、『この弱虫日本鬼子が、どうせ撃てないんだ
ろう? おとなしくママのところに帰りな!』っていってますぅ!」
思わず、睦月の手がミサイルの発射トリガーにかかるが、辛うじてそれを押さえる。
「野郎! ぶっ殺してやる!!!」
「あわわわ…… 抑えてくださいご主人様ぁ! 戦争になっちゃいますよぉ
」
睦月はナデシコの言葉を無視して、操縦桿についているトリガーを二回引く。
すると、両主翼の付け根についている楕円形の物体に異変が起きた。
パチン、パチン、パチン。と、パイロンに"楕円形の物体"を固定する金具が外れていった。
もちろん、"楕円形の物体"は重力と慣性に導かれ、海に吸い込まれていった。
その楕円形の物体は"増槽"だった。本来の戦闘機の飛行距離を補うための追加燃料タンク。普通、空戦時は空気抵抗になるとして切り離す。このことから、増槽を切り離すのは戦闘機乗りにとって特別な意味を持つ。
それは……
――――――戦闘開始。
目標から敵機になった瞬間だった。睦月はエンジン出力を上げ、超音速で敵機達の後ろに回り込む。
二機はさっきとは打って変わって慌てたように、インメルマンターンで方向転換した。
睦月はそれを同じようにロールしながら敵機達を追いかける。
さらにエンジン出力を上げて、敵機達との距離を詰める。
刹那、敵機達から何かが後方に大量射出された。それらが弾けて、火球になって広がっていく。
さらに、もう半分も弾けて、短冊状の銀に輝く小片が飛び出す。その小片は風に煽られているが、優雅に空中を漂っている。
睦月の機体のレーダーには敵機達の反応が数百にも分散して映り、敵機達の所在がわからなくなっていた。
敵機達はそれをいいことにエンジンを最大限に吹かした。恐らくは最高制限速度であろうマッハ2、8を出して、来た方向に逃げていった。
どんどん小さくなる二つの点を見送りながら、睦月は一息ついた。
「帰るか」
「うんっ!」
睦月の機体も方向転換して、来た方向―――――普天間基地へと機首を向けた。
その睦月の顔はどことなく嬉しそうだ。どうせ、『これでやっと武勇伝ができた』とか考えているのだろう。タッチパネルを操作して、お気に入りのロックを大音量で流す。三味線がギターの代わりをしているところから見ると俗に言う「和ロック」とかいうジャンルらしい。
「武勇伝だけじゃなくて、始末書も増えるか……」
「手伝いますよっ! 正直、こっちもスッキリしましたし」
「ああ、ありがとな。ナデシコ」
コックピットの内部を、暮れかけている夕日が照らす。周りの景色もまるで異世界に入り込んでしまったかのようき、ほんのりと淡い紅に染まっていた。
その夕日の紅色は、燃えるような赤であり、どこか悲しい紫でもあった。
その夕日は、睦月の航路をを一本道のように、赤く、紅く照らし出していた。