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「王! 」
「ミシュテリアの話は、私も聞いた事がある。ウェンディーネの使い魔であり、この広大なルトの森に恵みをもたらすと言う。どんな魚なのか見てみたい。お前、泉まで案内してくれ」
それを聞くと老兵は、のん気そうにたれていた眼を精一杯 、広げて見せた。
「しかし、ミシュテリアは今まで誰も見た者がないのですよ。姿を現すかどうかは……」
その不安げな老兵の態度に、カルテロはカッとなって言った。
「この方をどなただと思っている。神に選ばれた英雄の子孫である、シドラス・アヴェルガ様だぞ。姿を現すか現すかでは無い。お前達に見えないものでも、この方には見えるのだ」
「はぁ……。それは、誠に申し訳ありません。なにしろ私は、無知な農民兵ですので。戦が無い時には、たいがい畑を耕しております。今日は王の警護のために駆り出されしだいで。今の時期、私の畑は収穫が終わって暇なんです」
シドラス王は、おどおどとした老兵の言う事を遮ると言った。
「もうよい。とりあえず、泉まで連れていってくれ」
そうして、シドラス王に、カルテロと老兵は森の奥深くに潜む泉まで行ったのだった。
ルトの森。
天へと高くのびる樹々達に覆われて、真昼だというのに薄暗い。静けさに籠る、濃密な緑の匂い。葉が風に揺られざわめく音が、囁き声の様に聞こえてくる。
「さぁ、着きましたよ」
老兵が指差す先に泉が見えた。カルテロは思わず、感嘆の息を洩らした。
泉は一点の汚れも無く透き通っていた。純粋の美。この泉は今の今まで、この美しさを保ち続けてきたと言うのか。
しかし、確かに神秘的な泉ではあったが、カルテロには当然の事ながら、白き魚ミシュテリアの姿は見えなかった。王には何か見えているのだろうかと、カルテロはさりげなく王の横顔を伺い見た。
しかし、王の顔は無表情で、そこから読みとれるものは何も無かった。
王は何も言わず、泉のほとりにしゃがみ込み、その手を泉に浸した。
その時だった。王の差し込んだ手の周りの水だけが、ごぼごぼと沸騰したかのように泡だった。そして、水の底で爆発したかの様に水飛沫が上がった。
老兵は驚愕のあまり腰を抜かしている。信じられない思いはカルテロも同じだった。
カルテロは何か不穏な空気を感じた。獰猛な、何かが居る。
――ミシュテリア。
カルテロは、咄嗟に剣を鞘から引き抜いた。だが、それが何になっただろう。相手は水の化身なのだ。
うっ。そう低く呻いて、王は水から手を引き抜いた。見ると、その手の皮膚は溶かされていた。皮膚のところどころに爛れた穴が空き、赤い血が指をすべり泉へとしたたり落ちた。
「シドラス王! 大丈夫ですか」
王の顔は蒼白だった。この場から、王を連れださなければ。カルテロは危険を感じた。
「戻りましょう。戻って医師に手を見せなければ」
「声が聞こえる」
王は、そう呟いた。それが恐怖に怯えた声だった事に、カルテロは恐怖した。
「精霊の声が……、聞こえる」
王は静かに、そう言った。だが精霊の気配が消えた森には、ただ静けさだけが残り、カルテロには何も聞く事は出来なかった。
その後、カルテロは、皆の元へと急いで王を連れて帰った。そして、王の傷跡を見た父に、たっぷりと絞られたのだった。
あの時、王が精霊の何と言う言葉を聞いたのか。恐れに声が震えていたのは何故だったのか。カルテロは気になりながらも恐ろしくて、王に何も聞けなかった。
そして、シドラス王が死んだ今では、もう知る由は無い。
エステル広場は、アーヴィングの街で最も賑やかな場所だ。毎日がお祭り騒ぎの喧騒にまみれたその場所は、「 世界への門」を通じて輸入された食料、衣服、装飾品などの露店が並び、売り手の掛け声や買い物客の楽しそうな声で溢れている。
ここへ来て金さえ払えば、人間の果て無き欲望はすべて叶えられるだろう。