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ピチャン……。音がする。雫が水面に零れ落ちる、小さな振動。ピチャン……。一定のリズムを刻み、音は再び繰り返される。
気が付けば、ナルシアの半身は、黒い液体に浸されていた。ピチャン……。ぬめりのある嫌な感触が頬を伝い、ナルシアは自分の顔にさわった。濡れている。顔だけじゃない、手も、腕も、胸も、首も、髪も。ピチャン…。音は、うつ向いた頭髪の先から、滴り落ちる水滴の音だという事に気付いた。
ここは、何処だろう。暗い場所だ。だが、朧気に、自分が地下室のような所に閉じ込められているのだけは判った。
その密閉された狭い部屋に、ひどい匂いが立ち込めている。腐敗し、錆び付いた鉄のような、鼻につく激臭。ナルシアは両手で水をすくい上げ、鼻の先に持ってきた。何処かで嗅いだ事があるような気がした。
生臭い液体は、どろどろと指の隙間から、零れ落ちてゆく。何処で嗅いだと言うのだろう。こんな匂い、知らないはずだ。だって、僕は……。
「忘れちゃったの?」
静けさに、突然、浮かび上がる、細くて高い、甘やかな声。驚いてナルシアは顔を上げた。
そこには少年が居た。小さな身体は、黒い液体に肩まで浸されている。黒眼がちな大きな眼が、此方をじっと見ていた。
「ルカ……」
少年は、名を呼ばれると、眼を細めてうっすらと笑った。邪気の含まれた、唇のひきつり。まるで子供が浮かべるような笑みじゃなかった。
どうして、ルカがこんな所に? ルカは死んだはずじゃ…。死んだ? 死んだ……死んだ……、死……死……、死、死、死、死。
頭が、ずきずきと痛む。受け入れたくないものを拒絶するかのように。
「忘れちゃ駄目じゃないか、ナルシア。これは、あんたがつくりあげたものなのに。」
「僕が、つくりあげた……?」
どういう意味なのだろう。ナルシアは、ぼんやりとルカを見つめた。
「わからないの?」
ルカは、小馬鹿にしたように眼を見開いてみせた。
「じゃあ、俺が教えてあげるよ。これは……。」
――君が殺した人間の血じゃないか。
ナルシアは、手のひらを見つめた。どろっとした滑りのある液体が、染みついている。
「殺した……。僕が……」
「そうだよ。いっぱい……、いっぱい人を殺したじゃないか。その手で。感触を、あんたは憶えているはずだろう?」
人間の、肉体。鋭い刃に絡みつく、筋の抵抗。剣を柔らかく受け入れる、肉の塊。あふれる血。迸る叫び声。もろく、あっけない崩壊。脳裏に、死の記憶が甦る。殺した、殺した、殺した。嫌だ。こんなもの見たくない。
「見なければ、純粋なままでいられると、まだ思ってるの? でも、その面の皮ひとつ剥けば、あんたも俺を殺した男と同じだよ。あんたは、自分でそれに気が付いているはずだ。だから、あの時、あんたは剣を振りかざしたんだ。」
違う、違う、違う。僕は、君のために。
「俺のため? 欺瞞だね。あんたは、いつだって誰かのためにと言う。けど、本当は、あんたは誰の事だって見ちゃいない」
国民の事も、エルアの事も、俺の事も。ルカは、怯えるナルシア向かって、うすく笑った。
「いつだって、あんたは自分の事だけを見てきたじゃないか。自分の綺麗で美しい、その゛顔″を愛していただけだ」
ルカは手を伸ばし、ナルシアの顔に触れた。
「けど、あんたはあの男に、汚く醜い゛自分″を見たんだろう? 醜悪な゛欲望″を。ずっと逃げ続けていたものを。怯えてきたものを。けど……、あの男は、あんたと違って、自分のために人を殺した苦しし、平然としていた。だからこそ、余計に許せなかったんだ」




