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それにしても、森の中へ入ったのは何年ぶりだろう。そう、父がいなくなったあの日から、エルアは逃げるように一歩として森の奥へ足を踏み入れたことはなかった。
西の森。必死に止めるエルアを振り切って、父は悪魔の森へと入っていってしまった。必ず帰ってくると、言い残して。
父を奪った森。帰らぬ父を待つエルアに残ったのは、憎しみでも恐れでもなく、罪悪感だった。
アシルの街とを繋ぐ北の森は、西の森とは違い、交通に使われているため多少は整備されている。だが人通りはなく、辺りに漂う寂しさはエルアの足を速めさせた。
早く、帰ろう。ナルシアはきっと笑顔で出迎えてくれるだろう。
エルアは、ナルシアの苦痛に満ちた横顔を思い出した。彼を助けてあげたい。そのためなら、きっと私は――。
その時、背後から、微かに音が聞こえた。エルアはドキリとして振り返った。誰もいない。気のせいだったのだろうか。だが、エルアの胸にじんわりと不安が広がった。もしかしたら、指輪を売ったお金に眼をつけられ、誰かに街からつけられたのかもしれない。
沸き上がる恐怖を押し殺し、エルアは駆け出した。一足、一足、踏み出すたびに胸がずきずきと痛む。だが、このお金だけは、ナルシアに届けなくては。
高い樹々の合間から、見覚えのあるバンガローが見えてくる。それが眼に入ると、エルアは思わず安心して力が抜けた。もうすぐだ。この茂みを越えれば家に着く。
ほっとして足を止めたエルアの背後から、何者かの手が襲いかかってきた。
昔、父に聞いた事がある。
「この世には゛霊域″というものがある。そこは清浄であり、神の純粋なる力が最も残されているという」
父が、そうナルシアへと語りかけたのは、彼が精霊の声が聞こえないと知れた嵐の過ぎた日の事だった。アヴェルガ家の使命を果たせないナルシアを、父は一言たりとして責めたりはしなかった。だが、戸惑うナルシアを励まし、慰めてくれるわけでもなかった。無言で語る父の眼は、何かを耐えるかのように張りつめていた。
「かつて、精霊達は霊域を棲みかとし、人間達は美しいその場所を恐れ近よらなかった。だが、その対極に神の力すら封じる事のできる地が、エンリトの何処かにあると云われている。かつて、我が祖先アヴェルガは、その大地に精霊達を封じたらしい」
父は、ナルシアの小さな手のひらに、鈍く光る白い石の指輪を落とした。
「これは、その封印の地から採れた石で造られた指輪だ。アヴェルガは、この指輪を自分の愛しき女性に送ったそうだ」
握りしめれば、石はひんやりと冷たい。その冷たさは体温を奪い、心の底まで凍てつかせるようで、ナルシアは正直ぞっとした。こんなものを愛しい人へ送るとは、とても考えられない。青ざめた顔で自分を見上げるナルシアに、父はゆっくりと眼を伏せた。
「過去の事だ。真偽はわからぬがな。だが、アーク・レイの聖堂図書館に残された、光の騎士団の一人、ラトニウスの書記に描かれた話であるから、おそらく真実であろうがな」
ナルシア。父は力強く、名を呼んだ。
「光の剣とは、恐ろしい力だ。あれは、人間の持つものではなかったのかもしれない。お前は……」
父の声は震えていた。
「お前は、剣の振るい方を誤るな――」
確かに、父の言っていた事は間違ってなかったのかもしれない。人々に神の恩恵と加護をもたらした光は、凶暴なまでに牙を剥いた。一体、どこで歪んでしまったというのだろう。
ナルシアは素肌を晒した、右の手を見つめた。




