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「一度、入っては二度と帰ってこれない迷いの森……、そして戻ってこれなかった人間は悪魔に喰われたのだと。この森の近くに住む者は、その言い伝えを信じ、……怯えて暮らしているの」
悪魔に食われる。それは、おぞましい響きだった。その言葉に、美しい森が、人間の安らかな死とは無縁の地獄の入り口に見えてくる。ナルシアはうすら寒いものを感じた。
ナルシアは、エルアの肩が震えているのに気付いた。
「君は何故、こんな恐ろしい場所に一人で……?」
彼女には見受けしてくれる親戚はいないのだろうか。彼女を守ってあげられる人間はいないのだろうか。エルアの華奢な身体が、急に頼りなく儚いものに思え、ナルシアはたまらない気持ちになった。
「エルア……」
彼女の肩が大きく震え、泣いているかのような呻き声が聞こえたかと思うと、エルアは可笑しそうに笑い出した。静かな森にこだまする彼女の笑い声にナルシアは一瞬、呆気に取られたが、からかわれていたことに気付き頬を赤く染めた。
「冗談だったのか……」
エルアは振り返ると、涙の浮かんだ眼をこすった。
「ごめんなさい。そんなに本気にするとは思わなかったから。昔は信じていた人も多いみたいだけど……、そう、遠い昔のおとぎ話よ」
エルアは笑いの虫がおさまると、穏やかに微笑んだ。
「私は大丈夫よ。少し歩いた所には、ヤタという小さな村があって、村の人達は本当に私に良くしてくれるの。倒れていた、あなたを此処へ運んでくれたものヤンという村の友達なのよ」
「あ、あぁ……、そうなんだ。じゃあ、いつか、お礼を言いに行かなきゃな」
「あ、そうだ。ニ、三日後には、此処に来るはずよ。ヤンは月に一度、ミドロルの街で生活に必要な物を買って届けてくれるの。その時、紹介するわ」
ほっとしたような、がっかりしたような拍子抜けした気持ちで、ナルシアは頷いた。すると、エルアは、柔らかな笑顔をやめ真顔になって呟いた。
「でも……、ナルシアが、いてくれて良かった。ずっと、一人で寂しかったから」
僕は必要とされている……。それは、今のナルシアにとって、泣き出したいくらいの救いだった。
このままずっと、彼女の傍にいられたら……。ナルシアはそう願わずにはいられなかった。
その日は、五月雨が降りしきっていた。白く細い糸のような雨が、大地をしっとりと濡らしていた。重い鈍色の雲が天上に垂れ込み、昼だというのに薄暗い。その景色に呼応されるかのように、ナルシアの心は晴れなかった。
雫を受けた窓は冷え、触れると指先を濡らした。窓越しに一定のリズムを刻む雨音は、ゆっくりと思考の世界へとナルシアを誘ってゆく。
カルテロは元気にしているだろうか……。ハンセンに政権を握られ、裏切りに憤怒する国民達の中で、幼い頃からの自分の教育係だったカルテロまで不遇な処置を取られていなければいいが。
ハンセンは、いつから自分を陥れる画策をしていたのだろうか。いつも、柔和な顔しか見せなかった彼に、深く刻まれた圧倒的な優越感。だが、エンリトを追い出されたというのに、ナルシアには不思議と憎しみが沸き起こらなかった。それよりも、長年の付き合いでありながら、ハンセンの野心に気付けなかった己の甘さに笑いが出る。
゛王家の一員たるもの、略奪されたのなら見事、奪還してみせよ″自信家で、いつも堂々としていた祖父が生きていたのなら、そう叱責しただろうし、己自身、そうしただろう。だが、僕は……。
エンリトの地を守るというアヴェルガ家の使命。そんなものは捨てて、ずっとこのまま此処で、穏やかに暮らしていくことは罪なのだろうか。
その時、ナルシアの眼下に人影が映った。その影は二階の窓の下の道を、雨を避けるよう小走りに駆けてくる。きっとエルアの言っていたヤンという人物だろう。ナルシアは深く息を吸い込むと、挨拶をしに行こうと部屋から出た。
階段を下りると話し声が聞こえてくる。ずいぶんとエルアと親しそうな、少年の声だった。
「いやぁ、まいったよ。街に行く日にかぎって、雨が降るんだもんな」
「ごめんなさい、寒かったでしょう。はい、タオル。ちゃんと拭かないと風邪ひくわよ」
少年の身体からは滴が滝のように流れ落ち、玄関に水たまりをつくっていた。少年はエルアからタオルを受け取り、顔から首筋にかけて拭きあげていたが、居間に佇むナルシアの姿を見つけると少し驚いたように手を止めた。
「あれ、君……」
その言葉に、少年に向かい合っていたエルアが振り向いた。




