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何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。全てを覆い隠す闇の中に、ナルシアはいた。
漆黒の無は存在をあやふやなものにさせ、ナルシアは力の抜けた身体をあてもなく放り投げていた。
隔離された孤独。闇は恐怖すら呑みこんで安楽へと誘おうとしていた。
゛ナルシア″
ふいに、自分の名前を呼ばれた気がした。誰の声なのかは、わからない。だが、ひどく懐かしい。暖かく力強いその声を掴むように空に手を伸ばすと、ナルシアの眼の前に光が溢れだした。
それは目覚めだった。薄い瞼を開きはじめに認識したのは、天井の、巨木で出来た磔だった。視線をずらすと深く蒼い空を映した窓が眼に入った。心地よい風が、ふわりとカーテンになびく。
ナルシアは、清潔なベッドに横たわっていた。自分の温もりの伝わった毛布をゆっくりとはぐと、冷たい床へと足を下ろした。その途端、瞳から涙が溢れ出て、とめどいなく頬を流れ落ちた。ナルシアは何故、自分が泣いているのか、わからなかった。悲しい訳でも苦しい訳でもない。だが、涙は止まらなかった。
トントンと、歩きまわる小さな音が聞こえたかと思うと、部屋のドアが開いた。ナルシアは一瞬、身を固くしたが、そこから現れたのは髪の長い小柄な少女だった。その子は、静かにドアを閉めるとベッドに眼を向けた。すると、少女の柔らかな輪郭にギクリとした驚きが走った。その表情に、ナルシアは顔に手をやり涙を拭った。
「ごめんなさい……。水を替えようと思って」
彼女は、小さな洗面器を両手に抱えていた。それに、白い布がかかっているのを見て、ナルシアは彼女が自分を看ていてくれたことに気付いた。
「あの、ここは?」
ナルシアがしっかりした口調だった事に安心したのか、少女は、ほっとした様に口元に笑みを浮かべた。
「ここは私の家よ。あなたは、近くの森で倒れていたの」
森で倒れていた……。そうか、私は……。ナルシアは空から落ちた時の事を思い出した。あの時、スタイズを渡されたナルシアは、落ちていく中でそれを装着しようとした。しかし、不安定な身体と落下するスピードに邪魔されて、うまくいかなかった。焦りも加わって指先が不器用に滑り、スタイズは風に飛ばされてしまった。
ナルシアは死を覚悟し――、そして意識を失った。それからの事は覚えていないが……、よくぞ無事だったことだ。広大な森の葉や枝がクッションとなり、それで助かったのかもしれない。
黙りこくってしまったナルシアに、少女は困ったように首をかしげた。
「でも、良かった。あなたを見つけて、もう三日にもなるけど、全然、眼を覚まさなかったから」
少女は、ナルシアが回復した事に心から喜んでいるようだった。
「ありがとう。君が助けてくれたんだろう」
少女は何も言わず微笑むと、水の滴る布を固く絞り、ナルシアへ差し出した。それを受け取ろうと腕を伸ばした瞬間、左肩に激痛が走った。兵士に撃ちぬかれた傷跡だ。よく見れば、服の下に包帯が巻かれているようだった。苦痛に歪むナルシアの表情に少女は不安気に顔を曇らせた。
「まだ、ゆっくりしてて。何か口に入れるものを作ってくるから」
そう言って、部屋を出ようとする少女をナルシアは呼び止めた。
「あの……、君は?」
「私は、エルア」
少女は優し気に微笑むと言った。
エルアが出て行った後、ナルシアはベッドから降り窓際へと立った。窓を開くと、そこには森が広がっていた。ナルシアは二階に寝かされていたらしく、窓際から手を伸ばせば触れそうなくらい樹の枝が近い。緑の匂いが風に乗って、ナルシアへと届く。どうやら、この家は森の中に建てられているようだった。




