○ と ×
ピンポーン。
チャイムが鳴った。
はい、と答えてドアを開けると、そこにはポニーテールの女性が立っていた。僕より頭一つ低い。
「初めまして、202号室の黒須と申します。丸尾さんですよね」
「はあ、どうも」
ほっそりとした女性だ。黒いフレアスカートに白いブラウスが似合っている。年齢は20代半ばだろうか。可愛い女性だな、というのが第一印象だったことは否定しない。
「あの、唐突なお願いなんですけど」
「はい」
「私と結婚してくれませんか?」
……ほんとに唐突だった。
どうも神様は、今までの僕の人生に浮いた話が一つもなかった分を、この際だから一気に返済しようとでも考えたらしい。だからっていきなり結婚って。頼むから加減を知ってほしいな、神様。
僕は、ポカンとしたのだろう。後になって、ああ、あれがポカンとするということか、そう思った。
「私と結婚してください。婿養子になって欲しいんです」
しかも婿養子ときた。初対面の男に対して、交際どころか結婚、しかも養子に入ってくれと。二段も三段も話が飛んでいる。すっかり置いてきぼりだ。
僕は、どうにか「あんぐり」状態だった口の制御を取り戻した。
「えーと、人違いじゃないの?」
「102の丸尾さん、であっていますよね?」
ニッコリと笑うその笑顔は僕を虜にするには十分なのですが。
「そうだけど……初対面、だよね」
「ええ、でも誰だって最初は初対面ですよ」
それはそうなんだが。
「……全然話が見えないんだけど」
「すいません、急ぎすぎました。話だけでも聞いて下さい」
そう、急ぎすぎなんだよ、神様。
*
「婿養子になって欲しい理由は、貴方の苗字が変わることが必要だからなんです。私の実家を継いで欲しいというような話ではないです」
「……僕の苗字が丸尾だと、何か問題でもあるの?」
「あるんです」
あるのか。
「……どんな問題が?」
そこで黒須さんは言葉を切って、ちょっとだけためらってから口を開いた。
「……○×ゲームに負けるんです」
「……はい?」
意味が全くわからない。
「意味が全くわからない」
「説明しますよ。簡単です。このアパートは3階建てで各階に3部屋ずつありますよね? 1階には101から103、2階には201から203、3階には301から303」
「うん、そうだね」
このアパート「福寿荘」はそういう構造だ。3部屋×3階で9部屋。ちなみに僕の部屋は102。狭い部屋で、一人暮らし用だ。風呂・トイレは共同ではないが。
「ご存知でしょうけど、このアパートの9部屋は全て埋まっています。つまり9人の人間が住んでいます」
「あ、そうなんだ」
知らなかった。生活時間帯がバラバラなのか、あまり他の住人を見かけないのだ。交流もない。唯一、隣の103に住んでいる十文字くんという浪人生と面識がある程度だ。
「その9人の苗字が重要なんです」
「……苗字? 僕は隣の十文字くんくらいしか苗字を知らないけど」
「私は知っています。……まず、3Fから。301が玉井さん、302が辻堂さん、303が円藤さんです」
「はあ」
「続いて2F。201が四方山さん、202が私、黒須です。そして203が高輪さんです」
「なるほど」
「1Fは101が環さん、102が貴方、丸尾さんで、103が十文字さんです」
「ずいぶん詳しいなあ」
「……たかだか九人しかいないアパートなのに、一人しか名前を知らないほうが変です」
まあ、そんな気もするが。
「ところで、気付きましたか?」
「え、いや、何が?」
「苗字ですよ。この苗字、ある共通点があるんです。……なんだかわかりますか?」
「全くわからない」
僕は即答した。
「……もう、ちょっとは考えてみてくださいよ。えーと、じゃあ何か、書くものありますか?」
僕は手帳とペンを取り出した。
「3×3のマスを書いて、住人の名前を入れてみてください」
言われたとおり、各階各部屋の住人の名前をそれぞれ書き出してみる。どういう漢字か聞きながら。
「……なんか、丸とか円とか玉とか、丸関係の字が多い気がするな」
そうつぶやくと、彼女はニッコリと笑った。お、やばい可愛い。惚れそうだ。
「半分正解です! 301の玉井さんが「玉」、303の円藤さんが「円」、102のあなたが「丸」です。……それから、203の高輪さんには「輪」が、101はそのまま「環」ですよ」
「へー。本当だ。丸に関連する人が5人もいるのか」
結構な偶然だ。面白い。
「それだけじゃないんですよ」
「……というと?」
「気がつきませんか? 私の苗字が「黒須」です」
「くろす、がどうかした? 丸いものとは関係ない気がするけど」
「逆です。○じゃなくて×なんですよ。つまりクロスです」
手を大きく胸の前で交差させる黒須さん。僕は、ハッとして他の名前を見てみた。……まさか。
「バツも……何人かいるのか」
103の十文字くんと302の辻堂さんだ。「十」はまんまその形だし、「辻」も十字路だ。形としては×。
「……とすると、この四方山さんだけが例外ってことか」
「いえ、四方、つまり四つの方角ですから、形としては「十」になります。方位を示す記号も十字でしょう?」
「じゃあ、この人も×なのか」
まあ、そう言えなくもない。しかし……だとすると。
「全員が全員、○か×に関係する苗字だということか」
僕は少し、うすら寒いものを感じた。
「そうです、5人が○、4人が×です。そして…それを各部屋に当てはめると」
黒須さんは、3×3のマスの住人の名前の上に、○と×を書き込んでいった。右上のマスから、301の玉井さん(○)、302の辻堂さん(×)、というように。
○×○
××○
○○×
「これは……」
「○×ゲームになってるんですよ」
「互いに○と×を書き入れていって、3つ並んだら勝ちっていう、あのゲーム?」
ちょうど、アパート全体で3×3になっている。
「そうですそうです」
「……この○×ゲーム、引き分けだね」
○も×も3つ並ばずに終わってしまっている。大抵の場合、○×ゲームはこんな風に引き分けで決着がつくことが多いが。
「そういうことです! 私の言いたいこと、分かって貰えましたか?」
「面白いなあ。大家さんが、そういう苗字の人だけを店子に選んだのかな……?」
「まさか。今はお客が少なくて、部屋を埋めるだけでも大変だそうですよ? 都合よく条件の揃った人ばかり来るわけがないんだし、そんなことしないですよ」
「そりゃそうだろうな……」
こんな駅からも遠いアパートなのに、九部屋全てに人が入ってるっていうだけでも驚きだ。
「じゃあ、住人の方が示し合わせて入居してきたとか? ……まあ、少なくとも僕はそんな話聞いてないけど。自分でたまたまここを選んだだけだ」
「私だって、誰に言われたわけでもなくここを選びましたよ。ほんとはもっと駅に近いとこが良かったんですけど……」
「僕だってそうさ。コンビニも遠いしな」
「スーパーも遠いんですよね」
「ああ、僕はあんまり行かないけど」
「自炊してないんですか?」
「もっぱらコンビニ弁当かな」
「体壊しますよ」
「うーん、でも面倒でつい」
……なんの話をしているんだ。
「……じゃなくて。話を戻そう」
「ええ、結婚してください」
「いや違う違う、そこまで戻さないでいいから。もっと後、後」
「スーパーも遠いんですよね」
「今度は進みすぎ。それより前。もうちょっと戻して」
「何の映画を見に行くかって話でしたっけ」
「…………いやそんな話はしてない」
混乱してきたので、自分で話を思い出す。
「とにかく、○×ゲームになってるってのは面白いけど、単なる偶然だろ?」
「まあ、私もそう思ってたんですけど」
「……けど?」
そこで、彼女は黙った。何か言おうとして、やめたように見えた。
「ともかく、私と結婚して、同じ苗字になって欲しいんです」
「なんで僕の苗字を変えなきゃいけないんだ」
「だーかーらー、貴方が×になれば、×の勝ちになるじゃないですか」
「…………」
ああ、そういうことか、と今更だが気がついた。僕は102だから、1番下の段の真ん中が×になって、縦に×が3つ揃う。確かにそうだ。
「たしかにそうだけど……それが何?」
「それが何? って、勝ちなんですよ?」
「誰が」
「×ですよ、×。私たち×が勝つんです」
「僕は○なんだけど」
「婿養子に来てくれれば×になりますってば」
話にならない。
「……勝ったらどうなるの?」
「え?」
「だから、君たち×が勝ったら、何が起こるの?」
彼女がじっとこちらを見つめてきた。うっ。僕はドギマギする。
「……勝ち組になれます」
…………んー。なるほどね。なるほどなるほど。
「わかった」
何も考えてないということが、わかった。
「すると君は……それだけの理由で僕と結婚して苗字を変えて欲しい、ということ?」
「ええ、そうなんです。ねえ、いいでしょ? ね? ね?」
「ダメに決まってんじゃん」
話を聞いてみれば、冗談みたいな理由だった。ガッカリだ。いきなり結婚する気なんてこっちにもないが、それにしても、僕の苗字にしか興味がないとは……。なあ神様、こいつはあんまりじゃないだろうか。
「僕は勝ち組になりたいわけじゃないから、君とは結婚しない。それでいいよね」
「ダメ」
強い調子で言われた。
「他を当たってくれ。ほれ、×が3つ並ぶようにしたいんなら、203の、えーと高輪さんだっけ。この人にお願いすりゃいいじゃないか」
「高輪さん、もう結婚してて、中学生のお子さんがいるんだよね」
……いつの間にか敬語が取れている。まあお互い様だが。
「そんな筈あるか。ここは家族で住めるようなアパートじゃないぞ」
「単身赴任中なんです」
ああそうですか。
「……じゃあ丁度いい、不倫しなさい」
「それじゃあ苗字が変わらないよ」
お前は苗字のことしか頭にないんかい。
「離婚して貰ってから結婚したらどうだ」
「そんなの大変すぎ」
なめんな。結婚はそもそも大変なんだよ。
「じゃあ301の玉井さんはどう。この人は?」
僕は適当に手帳を見ながら言っただけだが、玉井さんの名前を出した途端、黒須さんの顔が歪んだ。
「玉井さんは……うーん、あんまり顔が好みじゃないし……」
苗字しか興味ないくせに。
「贅沢いいなさんな。え、僕の顔は好みだってのか?」
「丸尾さんは……まあ、慣れれば見れないこともないよ」
そりゃどうも。
「玉井さんは結婚してるの?」
「……知らない……」
「年は?」
「35歳くらいかなぁ……」
「いいじゃないか。かなり上かもしれないが、男としてはまあ平均的な結婚年齢だ」
黒須さんは見た感じ、20歳半ば、くらいか。まあ、愛に年の差なんて関係ない。……この場合、その肝心の愛が無いような気もするが。
「まあとにかく、僕は愛してもいない女性と結婚する気はないんだ。そのあたり玉井さんがどうかは知らないが、僕よりは可能性があるさ」
黒須さんは僕をにらんできた。
「今は愛してないかもだけど、この先どうなるかわかんないじゃん」
僕の胸が痛む。それはその通りなのだ。でも正直、苗字にしか興味のない女の子なんてごめんだ。
「それは玉井さんだってそうだろ」
そう言った僕は、次の瞬間起こったことが何かわからなかった。黒須さんがしゃがみこんでしまったからだ。黒須さんが泣いているんだと気がついて、僕は慌てた。
「おい、なんだよ突然泣き出したりして」
「……うぐっ……だって……ヨモヨモが……」
とにかく、僕は黒須さんを部屋に入れた。玄関先で長々と話してしまったが、流石に泣かれてしまうと体裁が悪い。弱った。しかも僕が泣かしたわけでもないし…。神様、もう少し僕についていけるスピードで進めてほしいです、人生を。
*
黒須さんは、わりとすぐに落ち着いた。僕が持ってきたウーロン茶を飲んでいる。
僕はベッドに腰掛けて、彼女が話し始めるのを待った。
「いきなりわけのわからないことを言ってごめんなさい」
意外にも、彼女の言葉はまっとうな謝罪だった。
「いや、まあ、別に謝るほどのことでもないよ。話としては面白かったし……。このアパートにそんな面白い符合があるなんてさ」
「ううん、話はあれで終わりじゃないの。その話をするね」
今の彼女には、最初に会った時の妙に陽気な雰囲気が消えていた。
「ヨモヨモが、玉井さんと結婚してたの」
「……は? ヨモヨモ? 誰?」
「ヨモヨモは私の隣、201。四方山さん。さっき出てきたでしょ? 友達だったんだけど……いつの間にか、玉井さんとつきあってて。おととい、ヨモヨモの部屋に遊びに行ったら知らない男の人がいたからビックリしたんだけど、それが玉井さんだった」
「……友達が彼氏といるとこにいきなり出くわしたのか。それは……気まずいなあ」
「部屋の奥から、「タックン、だ~れ?」だって。あの子があんな声出すの初めて見た」
黒須さんはふてくされたようにつぶやいた。
「となると玉井さんは先約済だったわけか。あてが外れたね。まあいいじゃないか、友達なんだろ、祝福してやれよ」
きっとにらまれた。
「あのね、玉井さんなんてどうでもいいの。問題はそこじゃないのよ」
やけに険しい顔をしている。
「何の話だ」
「まだわかんないの? 結婚して、ヨモヨモが玉井の苗字になったってことよ」
ああ……わかった。201が「玉井」になってしまうわけだ。
○×○
○×○
○○×
「なるほど……○が3つ揃ってたのか」
「そうなのよ……。私たち×は負けちゃったのよ」
たちって、僕は○なんだけど、と言おうとしてやめた。黒須さんが、面白がっているというより、本気で落ち込んでいるようなのが気になった。そんなに落ち込むことか? 実害もないのに。
「じゃあ、なんだ、僕が婿養子になったところで、×が勝つわけじゃないじゃないか」
強いて言えば、引き分けか。いや待てよ、ルール上は「先に3つ並んだほうが勝ち」だった筈だ。×を3つ揃えたところで、引き分けになるのか。
しかし黒須さんは聞いていないようだった。ぶつぶつとつぶやいている。
「……ヨモヨモ、何でも私に言ってくれてたと思ってたのに。彼氏ができたら絶対紹介してねって言ってたのに」
僕はわかった。なんだそういうことか。要するに、友達に先を越されて結婚されたことが悔しいのだ。
「知らない間につきあってて、知らない間に入籍してた。……式には招待してくれないの? って言ったら、式は挙げないからって。嘘よ、絶対嘘。」
知らされてなかったのはショックだっただろう。
「まあそれは……しかたないだろう。身近な人だけでささやかにやるつもりなんだろ」
「じゃあ私は身近な人じゃなかったわけね」
彼女はそう言って立ち上がり、台所へ向かった。
「おい、どこいくんだ。あ、人の冷蔵庫勝手にあけるなよ」
「いいじゃん、ケチ。飲みたいのよ」
そういってチューハイの缶を二つ取り出すと、一つを僕に放ってよこし、もう一つを開けて口をつける。
「なあ、ショックだったのはわかるけど、今日会ったばかりの男の部屋でいきなり酒を飲みだすのもどうかと思うぞ」
その時、ピンポーンとまたチャイムが鳴った。今度は何だ。僕は彼女を部屋に残し玄関へ行く。
「郵便だった」
「誰から?」
「えーと、△△商事……僕がこないだ面接を受けたとこだな」
「一流企業じゃん。ていうか、あなた就職活動中だったの」
「ああ、就職浪人ってやつで……」
封筒を開けて中の紙を見た僕は、沈黙した。
「……どうしたの?」
「…………採用だって……」
「えーっ! うっそー! おめでとー!」
「ああ、自分でもびっくりだ。全然自信はなかったんだ。でも内々定と書いてあるってことは……採用なんだよな……」
僕はニヤニヤを隠し切れなかったが、ふと、彼女の顔面が蒼白になっていることに気づいた。
「おい、どうした?」
「……そういうこと……。やっぱり……貴方も○だから……」
「何を言ってる?」
「○が揃ったから。○の勝ちが決まったから…丸尾くんも○だから、勝ち組になっちゃったのね」
僕は呆れた。
「おい、いい加減にしろよ……勝ち組だの負け組だの。僕は運ももちろんあったんだろうが、それなりの努力もしたからこそチャンスを掴んだんだ。○だの×だのは関係ないよ。そんなの君のこじつけだろ」
「は? 何? えらっそうに」
僕はひるんだ。黒須さんの態度が豹変した気がした。
「なんだよ、どうしたんだ急に。これは僕に起こったことで、君に何か害があったわけじゃないだろ?」
「あったよ!」
黒須さんが怒鳴ったので僕は手に持っていた内定通知を取り落とした。
「私が負け組だってのはね、証拠があんのよ」
黒須さんは、チューハイの缶を握り締めた。ペコッと音を立てる。…もう飲み干したらしい。ペース速くないか?
「先週、3年バイトしてた喫茶店がね、つぶれたのよ」
「そうか……。それは……まあ気の毒だが……」
僕はすっかり気圧されていた。彼女はまた台所に行き、2つ缶チューハイを取ってきた。
「……でもそれはしょうがないだろ。君のせいじゃない」
「それからね、バッグはひったくりにあうし。高かったのよ? まあ中身は大して入ってなかったけど」
「ひったくりかよ……それは災難だったな。まあ、でも君がケガをしなくて良かったじゃないか」
「きわめつけはね。フられたのよ」
話を聞かずに続ける彼女。どんどん酒をあおっている。
「3ヶ月つきあっただけだけどね、なんか話あわなかったし、こっちから別れ話しようと思ってたのにさ、笑っちゃうよね。他に好きな人ができたから別れたい、だって」
「そりゃあ、わたりに舟ってやつだ。それこそ何も気にすることないじゃないか。別れたかったんだろ? ちょうど良かったじゃないか」
「良くないわよ!」
また缶を握り締める。ペコッ。だからペースが早い……。
「あんな男、なんとも思ってなかったのよ? でもフるのとフられるのじゃ大違いなの」
「結果は同じだよ」
「私のプライドの問題なのよ」
もう一本の缶も開けている。止めなければ、と思うが手が出せない。
「……こんなの、私のせいじゃない。負け組になったのはヨモヨモのせい。ヨモヨモが入籍したのが2週間前。辻褄があうわ」
「偶然が重なっただけじゃないか。友達の幸せにケチをつけるようなことを言うなよ」
「ふん、十文字君も可哀相ね。今、浪人中だっけ? もう第一志望は無理ね。負け組だもん」
彼女は隣室の浪人生に当たり始めた。
「あのさ、八つ当たりはみっともないって。彼は頑張ってるんだから」
「はっ。何? 人のことばっかり、かばったりして。勝ち組の余裕ですかぁ? やな感じ」
「やな感じはどっちだよ……」
ピンポーン。その時、ふたたびチャイムが鳴った。
*
「あの、私、301の玉井と申します」
やってきたのは、小柄でぽっちゃりした女性だった。
「あ、はいどうも」
あれ? 玉井って人は男じゃなかったっけ。……と、僕は気がついた。ああ、この人が「ヨモヨモ」だ。玉井さんと結婚して……玉井姓になった人だ。
「あの、ここに黒須さん、お邪魔してませんか?」
「……してます」
まさに、邪魔をしている。
「ああ、あの子、ご迷惑かけてませんか……」
「かけてると言えば……かけてますね」
「ああ、やっぱり」
四方山さんは頬に手をあてた。おっとりした女性だ。
「あなた、四方山さん、ですよね、玉井さんと結婚された?」
「……あ、ご存知なんですか。あの子に聞いたんですか?」
「ええ。ああ、一応言っておきますが、僕たちつきあってるわけでも何でもないんで。今日初めて会いました」
そんなことは言っても言わなくてもいい気もしたが。僕が、彼女がやってきた顛末を話すと、四方山さんは、驚いた顔をする代わりにため息をついた。
「……あの子、丸尾さんにそんな話まで……。○×ゲームだなんて、不気味ですけれどただの偶然の一致だと思います」
「僕もそう思いますけどね。四方山さんが結婚して玉井さんになられたので、○が3つ揃ってしまって、自分は負け組になったとか言ってましたよ」
「ばかな話を……大体、そんなの、成り立たない話なんです」
「……え、成り立たないとは?」
「ええ、実は……」
*
僕は四方山さんに、彼女のことは何とかすると言った。四方山さんはペコペコしながら去って行った。別に四方山さんが謝るようなことは何もないのだが。部屋に戻ると、黒須さんは横になっていた。寝ているわけではないようだが。床に空の缶チューハイがいくつか転がっている。それにしても……なんでこの人は今日会った男の部屋でくつろげるんだ。酒のせいだけなのか?
僕は言った。
「なあ、今、四方山さんが来たぞ」
彼女は寝転んだまま答えた。
「何て?」
「お前のことを心配していた。いい友達じゃないか」
「本心では見下してるよ」
「四方山さんはそんなことないだろう」
ふてくされて何も言わない。
「だが僕は見下してる」
そう言うと、彼女は睨んできた。
「君はそうやってずっと、○×ゲームのせいにして、ふてくされてるだけか?」
「何だってのよ!? 偉そうに説教? あんたなんて、たまたま苗字が丸尾だからラッキーだっただけじゃない」
「採用の話なら、あれは運だってあるが、運だけじゃないだろ」
「あんたの苗字がバツ尾だったら落ちてるわ」
「バツ尾って……」
「他にも身に覚えがある筈よ。ここ最近、ラッキーなことばっかりでしょ」
……そうだっただろうか?
「……ああ、そういえばそうかもしれない」
なるほどね、これが苗字のおかげなら……素直に感謝したっていいかもしれない。
「ふん、ようやく認めましたか」
「一つ、思い当たることがある」
「何よ。言ってごらんなさい」
僕は自分の缶チューハイを一気にあおって、言った。
「君に今日会えたこと。これは、ここ最近で一番ラッキーなことだったな」
「……」
彼女は憎たらしいことに、顔を赤らめもしなかった。一瞬ポカンとしてから、怪訝そうな顔をする。
「……何それ? くどいてんの? やめなよ。そういうの、慣れてないんでしょ?」
確かに、慣れてない。言うんじゃなかったと後悔している。顔が火が出るような熱さだ。
「なあ、なんで僕だったんだ? 玉井さんと高輪さんが候補にならなかったのはわかったけど」
まだ2人、残っている筈だ。
「……環さんと円藤さんは、女」
……なるほど。僕はがっかりした。僕を選んだ理由が、苗字と性別、未婚であること、これ以外には何もなかったのがわかったからだ。
「……じゃあ聞くが、婿養子ってのはなんでだ? 君が○になったっていいんじゃないのか」
これが一番不思議なことだった。○が3つ揃ったなら、黒須さんも○になったっていいじゃないか。彼女のいう「勝ち組」になる為ならそれが自然な気がする。大体、既に3つ揃ってしまった○に対抗して×を3つそろえたって、引き分けじゃないか。
「だってさあ……それじゃあ負けた気がするじゃん」
「……また勝ち負けか」
「そうよ。私は×のまま勝ちたいの。どうしてなんて訊かないでね? 私の人生、あんまりうまくいってないけど、それでも今までの自分を否定して、○に迎合しておもねって、仲間に入れてくださいなんてそんなのは嫌」
「苗字が変わることが嫌なのか?」
「黒須なんて苗字に未練はないよ。でもこのアパートで苗字を変えることはダメ」
「にしたってどうするんだ。もう○は揃ってる。今から×を揃えたって勝ちにはならない。アパートを出て行くしかないぜ」
それを聞いた黒須さんは言った。
「辻堂さんみたいに?」
「え?」
辻堂さんという名前は……さっき出てきた気がするが。
「辻堂さんは302の人よ。もうあと三ヶ月で出てくそうよ。実家に帰るんだって。知らなかったでしょう」
知らなかった。というか、辻堂さんという名前を聞いたのも今日が初めてだ。
「十文字くんだって、大学に合格したら出てくでしょ。早ければあと6ヶ月よ。つまりね……もう私しか残らないの。……わかってるよ? もうどうやっても、×は勝てないのよ、このゲーム。辻堂さんと十文字君が出て行ったら私だけになって、周りは○で囲まれて、それで終わりよ」
「○×ゲームのことなんか忘れろ。これは人生だ」
「そうよ人生を象徴してる。このアパートは社会の縮図。私はこのアパートの真ん中で、○に囲まれながらたった一人で×でい続ける」
「そんな苗字の偶然が、いつまでも続くわけないだろ」
「続くよ。でも私が真ん中にいる限り、○が3つ揃うのは4本までが限界。私がここで頑張っていれば、○のやつらに全部埋め尽くされるのは防げる。邪魔してやる。○なんかにこの部屋を明け渡してなるもんですか。私ひとりで居続ける。私を追い出したいなら、私を殺してみろってのよ。そのくらいの不幸じゃなきゃ、私を」
いい加減にしろよ
「何すんのよ、ちょっ。やめっ。離しなさいよ。痴漢。変態」
「自分で勝手に不幸になってるだけじゃねえか! 下らない○×ゲームの見立てなんかで、勝手に一人ぼっちになってどうする!? 君の苗字なんかどうでもいい、誰が君を一人にした?」
「やめてよ、なぐさめなんか要らないのよ!」
「なぐさめる気なんかない。だってそんな必要はない。君がみじめだなんてことは全然無い!!」
「どうしてよ!」
「僕に愛されてるからさ!」
長い沈黙があった。実際には数分、しかし感覚的には何時間も、ふたりは黙り込んだままだった。
黒須さんが、僕の下で痙攣するように肩を震わせ始めた。……泣いている?
「……なんでよ、アハハハハハ」
笑っていた。いや、笑いながら泣いていた。僕は黒須さんを離した。黒須さんは、しばらく笑い転げていた。僕は自分の告白がどこへ向かったのかよくわからなかったので、もう何も考えないことにして、次の缶チューハイを取りに台所へ行った。
戻ってくると、黒須さんはハンカチで顔を隠していた。僕が椅子に腰掛けると、彼女は小さな声で言った。
「……ありがと」
「ああ」
彼女はハンカチを外して顔を見せた。微笑。顔が赤いのは……酒のせいか。
*
僕は彼女が落ち着いたなら、さっき四方山さんから聞いたことを言っておかなければならないと思った。
「なあ、黒須さん、さっきヨモヨ……四方山さんが言ってたんだが」
「なに?」
「玉井さん、四方山さんの部屋に住んでるそうだ」
「…………え?」
「結婚する前からだそうだ」
「それって……」
僕は、うなずいた。
「もう、301は空き部屋なんだ。○は勝ってなんかいないんだよ」
×○
○×○
○○×
黒須さんは、ふーぅとため息をついた。
「…………私、バカみたいじゃん」
「そうだろう?」
僕は微笑んだ。