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♯世界のバグでごめんなさい  作者: 平木明日香
第一章 魂の流れ着く場所
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第二話 空を持たない世界



その夜から、レイは眠りの浅い個体になった。


もともとコモンの睡眠は深く、規則的で、外部刺激に対して揺らぎの少ないよう調整されている。肉体の回復効率、神経伝達の均衡、情動波形の平坦化、そのすべてが最適化されているため、目覚めは常に静かで、眠りは常に均質だった。夢を見ることも稀であり、見たとしても断片的で、起床後にはほとんど痕跡を残さない。製造所の管理機構にとって、それが理想だった。まだ魂を持たぬ器は、余剰な幻想に乱されるべきではない。空想は設計誤差を生み、誤差は個体差へと繋がり、個体差は管理の綻びとなる。ゆえにここでは、夜すらも清潔であることを求められていた。


それでもレイの内側では、この数日のあいだに何かが確かに変わり始めていた。


眠りへ落ちる直前、瞼の裏に、見たことのない色が漂うのである。

ここにある光は、常に白に近い。ほんのりと青みを帯びた均質な照明、霊子粒子の淡い銀光、導脈鋼の継ぎ目を走る薄緑の脈動、それらはどれも静かで、冷たく、機能として整っている。ところが瞼の裏に浮かぶ色は違っていた。深く沈む群青。そこへ滲むように広がる茜。光そのものよりも広がりのほうが先に感じられる、輪郭を持たない巨大な色彩。レイはそれを知らなかった。知らないはずなのに、胸のどこかが、その名を知っているように疼いた。


朝の律動が訪れる前、レイはひとり寝台を抜け出した。

規定時刻より僅かに早い行動は、通常なら警告の対象になる。だが管理棟の居住区では、睡眠深度の個体差として処理される範囲が広く設定されているらしく、その程度のずれに監視の眼は向かない。少なくとも、そう見えた。灰白色の床に足を下ろすと、温度はいつも通り一定で、素足の裏にほとんど感触を残さなかった。冷たくもなく、温かくもない。何かに触れているというより、接触そのものが穏やかに中和されているような床だった。


通路へ出ると、製造所はまだ夜の名残を抱いていた。

上方の虚空には霊子粒子が散っている。昼の周期に近づくにつれてそれらは緩やかに集束し、まるで見えない天体の重力に引かれるように流れを変えるのだが、今はまだ、深い水底の燐光にも似た静けさの中にあった。通路の壁はどこまでも滑らかで、つなぎ目を失った石膏のようにも、磨き抜かれた骨のようにも見える。装飾はない。意匠もない。にもかかわらず、その無機質な連なりには、神殿に似た厳粛さがあった。あらゆる飾りを剥ぎ取った果てにしか現れない純粋な構造の美が、ここには満ちている。


レイは、普段の生活区画から少し離れた回廊へ足を向けた。

製造所の内部は、居住棟、学習棟、訓練棟、観測棟、培養区画、整備区画、記録塔、生成炉層といった複数の機能圏から成り、それらは同心円状の環と放射状の幹線通路によって繋がっている。コモンたちに許可される移動範囲は限られているものの、実際にはその境界が明確に示されることは少ない。行くべき場所と、なぜか足が向かなくなる場所があるだけだ。見えない線によって拒まれているのではなく、空間そのものが「ここから先は違う」と無言で告げてくる。製造所の不思議さは、そういうところにあった。命令を声に出して伝える必要がない。建物の構造、光の濃淡、音の響き、微細な気圧差、その総体が、住む者の意志を先回りして導いてしまう。


幹線通路を抜けた先に、半円形の展望回廊がある。

展望と呼ばれてはいるものの、外は見えない。見えるのは巨大な内側だけだ。円環構造の一部がごっそりと切り取られたような空間の向こうに、製造所の中央縦坑が広がっている。そこはこの地下世界における唯一の“地平”だった。上も下も容易には見通せない。覗き込めば、自分が高所に立っているのか深淵の縁にいるのかさえ曖昧になる。暗黒ではない。むしろ、繊細な光に満ちている。幾万もの霊導管が螺旋を描いて縦坑の内壁を走り、それぞれが異なる色温度の淡光を帯びていた。青白い流れは冷却と循環を、緑がかった流れは培養系を、かすかな金色は記録転写系を示しているらしい。さらにそのはるか下方では、核心炉から立ちのぼる霊素の蒸気が、雲にも似た層をいくつも作っている。それは煙ではない。液体でもない。記録される前の生命の息づかいが物質化したなら、きっとこういう姿になるのだろうとレイは思った。


縦坑を見下ろしていると、不意に誰かの気配が背中に触れた。

振り返ると、少女がいた。足音はほとんどしない。いつもそうだった。彼女は歩くというより、気配だけが先に近づいてきて、それからようやく姿がそこに現れる。


「……いた」


小さな声だった。

それが安堵の意味を持つと知ったのは、最近のことである。感情が薄いと思っていた少女にも、よく見れば温度はある。表情の動きが少ないだけで、眼差しの焦点、声の揺れ、呼吸の間隔には、たしかに機微が宿っている。


「起きたの、早いね」


レイがそう言うと、少女は頷き、展望回廊の縁へ並んだ。ふたりで見下ろす縦坑は、昨日までとは少し違って見えた。いや、景色自体は変わらない。ただ、誰かと並んで見ることで、その巨大さの質が変わるのだ。ひとりで見たときは、果ての見えない機構の威容でしかなかったものが、ふたりで見れば、どこか底知れぬ井戸のように思える。世界の中心にあるのではなく、世界より前から口を開けていた穴のように。


「ここ、きれい」


少女が言った。


レイは少し驚いて、彼女の横顔を見た。

きれい、という言葉を彼女が自分から使ったのは初めてだった。


「うん」


短く返しながら、レイはもう一度縦坑を見下ろした。

確かに、美しい。均整の取れた曲線、規則正しく走る導脈の光、深部から漂い上がる微かな発光霧、絶え間なく上下する搬送環、静止しているようで止まらない機構群。すべてが精緻で、無駄がなく、巨大で、それゆえに人の手の及ばない神話的な領域に見える。神殿が神を祀るための建築だとしたら、ここは神そのものが自分のために組み上げた器官のようだった。


「でも」


少女が続けた。


レイはその一語に、なぜか強く耳を澄ませた。

彼女は言葉を探すように少し黙り、やがて縦坑ではなく上方の虚空を見た。そこには空に似たものがある。霊子粒子が漂い、明暗が周期を刻み、広がりだけなら果てを思わせる。だが、見上げ続けているとわかるのだ。これは空ではない。空を模した天井の不在にすぎない。真に遠いもの特有の冷たい無関心が、そこには欠けている。


「……せまい」


少女はそう言った。


レイの胸の奥で、昨夜からくすぶっていたものが、静かに火の輪郭を持った。

広いけれど、閉じている。きれいだけれど、せまい。そう感じていたのは自分だけではなかったのだ。


ふたりはしばらく黙って、空のない上方を見ていた。

虚空には星がない。その代わり、周期的に生まれては消える霊子の微光が、どこか遠い生きものの群れのように揺れている。製造所の管理機構は、コモンたちに安定した昼夜感覚を与えるため、この上方空間の明度と粒子密度を調整しているのだという話を、学習区画の記録映像で見たことがある。つまりあれは景色ではなく機能であり、美しさすら設計されている。だが設計されたものが美しくないとは限らない。ここにあるものの多くは、正確であるがゆえに美しかった。問題は、その美しさが完結していることだった。風に乱されず、雲に遮られず、季節に侵されず、偶然にも左右されない。変化はあるが、すべて予定された変化にとどまる。その均質さが、レイにはときどき息苦しく思えた。


やがて製造所の朝が本格的に始まった。

上方の霊子粒子が収束し、虚空は淡い真珠色へと移る。縦坑の導脈がわずかに強い光を帯び、環状回廊の各所で搬送環が動き出す。遠方の培養区画からは、液体の満ちるような低い響きが届く。どこかの層で扉が開き、どこかの層で記録塔が転写処理を開始し、どこかの層で新しい器が水中から引き上げられる。そのすべてがこの空間の朝であり、鳥の声や風の匂いの代わりに、機構そのものが目覚めの合図を奏でるのだった。


日課は、昨日と同じ順序で始まる。

洗浄区画へ移動し、霊水に近い薄い液流で皮膚表面の調整を行い、個体識別の確認を受け、学習棟へ向かう。洗浄区画はいつも薄青く、足首まで満ちる透明な液体が静かに循環していた。水のように見えて、水とは少し違う。温度はぬるく、粘度はわずかに高い。歩くと足もとに光の輪が生まれ、すぐに溶けて消える。少女はそれを綺麗だと思っているらしく、毎回ほんの少しだけ視線を落として歩く。レイはそんな彼女の癖を知っていた。


学習棟では、壁一面に文字列が浮かぶ。

古い共通語、新王国期の法文、祈祷文、数式、霊素循環図、植物の生育段階、骨格構造、街道標識、地上世界の概念図。ここでは、コモンは“人間になるために必要な知識”を少しずつ与えられる。食事の作法、対話の語尾、喜怒哀楽の表現、礼節、武具の名称、地図の読み方、病の見分け方、祈りの形。あらゆる知識が、まるで未来のある一点へ向けて積み上げられていく。その一点が何であるのか、コモンには明かされない。それでも誰も疑問に思わないように作られている。知る必要のないものは、最初から問いとして立ち上がらない。少なくとも多くの個体にとっては。


レイだけは、ときどき考えてしまう。

なぜ、自分たちは空を学ばないのか、と。


地上世界の概念図には、山脈、河川、都市、街道、港湾、神殿、森が描かれている。太陽と月の説明もある。季節の変化も、降雨の仕組みも、星座の呼び名も記録に含まれている。ところがそれらは、まるで読み物の中の遠い伝承のようで、実感と結びつかない。学ぶことはできる。理解もできる。だが製造所の中には、それを身体で知るための何一つがない。風が吹いたとき、頬の筋肉はどんなふうに応じるのか。陽光の熱をまぶたがどう感じるのか。広い空を見上げているとき、人の胸の奥にどんな空洞が開くのか。そのことを、ここは教えてくれない。


昼の周期、給餌区画では白く柔らかい栄養塊が配られた。

味は薄い。栄養バランスは完璧で、消化吸収効率も極めて高い。食べるという行為そのものが、生存より学習の一部として扱われているのだろうとレイは思う。少女は食べるのが遅い。小さく口を動かし、よく噛み、時々レイのほうを見て、同じ速度で食べようとする。その仕草に可笑しさを覚えたことは一度もない。むしろ、製造所の均質な日々の中で、そうした小さな癖だけが本物の輪郭を持っているように思えた。


食後の自由観測時間、レイは少女を連れて、居住棟のさらに外れにある庭園区画へ向かった。

庭園といっても、土はない。空もない。あるのは、複数層に重なった透明な培養槽と、そこに根を張る植物群だった。細い枝葉を持つ銀白の樹、花弁の内側に淡く光を宿す小花、葉脈が青く透ける蔓草。それらはすべて、霊素環境下で育成される標準植物であり、コモンに視覚的な安定を与えるために配置されている。造られた庭園。設計された癒し。それでも美しいものは美しかった。枝先に溜まる光の粒は露にも似て、葉の影は床へ柔らかな網目を落とし、通路を満たす空気にはごく薄い青い匂いがあった。少女はこの場所が好きで、いつも少しだけ足取りが軽くなる。


「ここ、そとに、にてる?」


彼女が訊いた。


レイは立ち止まり、透明な培養槽の向こうに連なる銀白の枝を見た。

外を見たことがないのに、似ているかどうかを答えようとすること自体が奇妙だった。だが奇妙だと思うことが、すでにこの場所の外側へ向いている証のようにも感じられる。


「……たぶん、ちがう」


「ちがう」


「もっと、広いはず」


「ひかりも?」


「うん。もっと、変わる光」


少女はしばらく考え、透明な槽の表面に指先を当てた。向こう側で花弁がひとつ、ゆっくりと開いた。まるで応えるように。


「かわる、ひかり」


その言葉を、彼女は大事そうに繰り返した。


そのとき、庭園区画の上方で、低い鐘にも似た音が鳴った。

規則的な生活の中には、いくつかの転調がある。点検開始、搬送経路の切り替え、上位管理個体の通行、生成層の開放、そのいずれかを告げる音だ。普段コモンたちは、その音の意味を深く考えない。必要な場所へ向かい、必要な行動を取るだけで、日常は滞りなく流れていく。ところがその日、音はいつもより長く尾を引いた。庭園区画の葉がかすかに震え、培養槽の表面に細かな波が立つ。レイは反射的に上を見た。虚空に変化はない。霊子粒子はいつも通りだ。何も起きていないように見える。


それでも、製造所のどこかで、通常とは異なる流れが始まっている。

理由はわからない。だがわかる、という感覚だけが、骨の内側を冷やした。


少女も音に反応していた。

表情は変わらない。だが彼女はほんの少しだけレイに近づき、その袖を摘んだ。


「……へんな、おと」


「うん」


レイは短く答え、庭園のさらに向こう、通常は閉じているはずの回廊を見た。

その先に続く扉のひとつが、わずかに開いていたのである。


白い光が、一筋だけ漏れている。

製造所の中で、扉が開くこと自体は珍しくない。問題は、その先の光が見慣れた色ではなかったことだ。いつもの均質な白ではない。もっと深く、もっと遠くへ続くような、金に近い光。温度を持った、薄い夕映えのような色。


空のない世界で育ったレイは、その色の名前をまだ知らなかった。

それでも一目見た瞬間、胸の奥のどこかが、静かに、決定的に震えた。


この場所にはないものが、あそこにある。


そう思ったのではない。

そう知ってしまったのだ。


製造所は巨大で、精密で、美しく、完全なはずだった。

空を持たず、風を持たず、偶然を持たないかわりに、あらゆる不足を埋めるように設計された地下の王国。魂の器が静かに生まれ、言葉が整えられ、感情が測定され、日々が磨かれていく閉じた世界。その完璧さに、ひとすじの外光が差し込んでいる。


レイは少女の手のぬくもりを袖越しに感じながら、開いたままの扉を見つめていた。

まだ足を踏み出してはいない。

それでも彼にはわかっていた。今日という一日は、これまでと同じ形では終わらない。


空を持たない場所で、

はじめて外の気配が、形を持って現れたのだから。


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