第十八話 人質妃、月女神との会談
月女神は桃琴伝の本当の結末を語り始めた。
捕らえられた明鈴の元へ龍が降り立った時、彼女は虫の息だった。
龍が鋭い爪で傷付けないように前足で彼女を包むと微かな声がした。
「来てくれたんですか……」
「恩を返すのが遅くなった」
「恩? ふふ、あなただけです。律儀に恩を返すだなんて、嬉しいです」
「すぐに治してやる」
「いえ……私よりも、もっと大けがの人はたくさんいます」
「黙ってろ」
「……叶うなら元気な時にまたあなたに会ってたくさんお話したいですね」
明鈴は龍の前足の中で息絶えた。
龍はまだ温かい彼女の身体を大切に前足で包んで空高く飛んだ。
彼女の体温が氷つく前にまだ何もない綺麗な花の咲く土地に葬りたく、上空から場所を探した。
土地を見つけた龍は彼女を丁寧に埋葬した。
その土地を龍は何年も甲斐甲斐しく守り、誰にも踏み入れさせないように水を張って池を作った。
そして、そのあと龍はまっすぐ月にのぼった。
長い間、仲の悪かった月女神に頭を下げに来たのだ。
「なに? 人間にしてほしい?」
「あぁ」
「あれだけ人を嫌っていた龍が、人間になりたい!? わざわざ私に頭を下げてまで……これは驚いた。ついに天と地がひっくり返るのかな」
月女神がどんなに煽っても、悪態をついても龍は反論しなかった。
その様子に月女神が心を打たれた。
なぜならば、長い間一柱で人を守ってきた月女神は自分と共に人の世を守ってくれる存在を待っていたのだ。
「お前が人になりたいというのは分かった。理由を聞かせてもらおうか」
龍は内容は話したがらずぐるぐると威嚇をしたが、月女神は気にも止めない。
「私の気が変わらないうちに話をしたほうがいい」
龍は言葉を途切れさせながら話をしはじめた。
「俺は、人は嫌いだが、人に助けられたことがある」
龍も己の感情に戸惑っているようにも見えた。
「その……人へ恩を返せなかった」
龍はある日、怪我で弱っていたところをとある娘に助けられたと語った。
娘に恩を返せなかったことを後悔している。感謝すら伝えていない。
最期に娘はまた会って話したいと言った。
次に会うときは娘を優しく包めるような身体でありたい。
さらに娘が次に生まれ変わるならその時のために人が人と争わない国を作っておきたい。
もう二度と彼女のようにただ犠牲になる存在を作ってはいけない。
素直に、ただ真っすぐ並べられた言葉に月女神は言葉を失った。
たった一人の娘にあの龍がここまで変えられたのか。
「ちなみに、なんていう娘だったんだ?」
「名は明鈴……桃色の髪で、琴で人々の傷を癒していた。自分も助けられた……対価も見返りもなく、ただ人を助け、癒し……死んだ」
「琴……で傷を癒す、桃色の髪の娘?」
月女神は手に持っていた扇子を落とした。
先程までどこか非現実な夢物語を聞かされている気分だった月女神だが、水をかけられたような感覚になった。
月女神には思い当たる人間が一人だけいた。
それは自分を助け、看病し、慎ましい願いを言い、らしくもなく琴を自ら指導した桃色の髪の心優しい娘のことだった。
月女神が今生、贈り物をした唯一無二の存在だった。
「そうか、あの子は死んだのか。あの琴を弾いていれば死ぬことはないのにこんなにも早くか……」
「なんだ?」
「いや……」
はなから断ろうともおもっていなかったが、月女神に断る理由がなくなった。
「龍、早急に国を作れ。争いのない国だ。そこであの子を待ちなさい。そして、私を祀ることを忘れるな。建国神話はあったほうがよい、後々力になる。あと、池に眠る彼女のそばに桃の木を植えなさい」
「桃の木?」
「魂に桃の香りをつけておいた方がいい。生まれ変わった時に役に立つ」
「?」
「最後にこれだけ」
月女神は言い聞かせるように龍に近づいた。
「私が龍を人に出来るのは次の月蝕までだ」
「月蝕?」
「月蝕は月女神の力が全てなくなる日だ。私は一度人へと堕とされる。月女神の加護のないお前は龍に戻される。人から龍に身体が戻った時、人で生を営んでいた小さい理性では龍の暴力性に太刀打ちできないかもしれない」
「心得た」
月女神は龍を人間の男に変えた。
地道に龍は味方を集め、らしくもなく人へ希望を説いた。
その希望は人と人を繋ぎ、心を繋げた。
心待ちにしている明鈴のように人を助け、癒し、導いた。
長い時間をかけて、龍は国を治める皇帝となったのだった。
玫玫は涙が止まらなかった。
「陛下は……ずっと待ってる……私じゃない人をずっと……」
鼻を啜り、喉がずっと熱い。
「なぜ、泣くんだ?」
「……納得をしてしまって、陛下はやっぱり待ってた。あの亭で……明鈴さんを」
辻褄が自然と合った。
黒の街はずれにある亭によく足を運ぶ理由。
池のある停。
誰かを待つ表情。
「敵わないですね……それは」
あの日、私が走り出さずにいられなかった理由は明確な嫉妬だ。
腑に落ちてしまった。
失敗続きの人生で、失恋までするなんて……いや、とても私らしい人生だ。
月女神は玫玫の涙を体温の低い指で拭い、目線を合わせた。
「さて一度きりだ。私に残る力でそなたに琴を贈る」
「こと……?」
「月蝕によって龍が暴走したら、琴を鳴らせ。一時的に動きを止め、龍を人の姿にすることが出来る。動くことのできない人の姿の龍の心臓をこれで刺せ」
「短剣?」
「月の石で作った剣。一突きで龍の息の根を止められる」
月女神は短剣を玫玫に握らせた。
「龍を仕留められなかった場合。この国、いや周辺の国も含め滅びてしまうだろう。それくらい龍の力は絶大だ」
「そんな大役……わたしには」
「あなた以外に、適任はいない」
玫玫が月女神の言葉にひくりと喉を鳴らした瞬間だった。
バンッ。
とても大きな音がした。ただ事ではない。
何かが破裂するような音、そして体中に響く衝撃だった。
てぃん!
大きな音に気を取られていた玫玫の耳に琴の音が響いた。
いつの間にか月女神の姿はなく、胸に抱えられる大きさの琴が床に置かれていた。
淡い光の玉がふよふよと手に取るように促してくる。
迷っている暇など与えないということだろう。玫玫は琴を胸に抱えるしかなかった。