海の底で待っていて
ばしんっ。
耳元で聞こえた衝撃音。
衝撃でマリアムの小さな身体はよろめいて、優美な柱に手を突いた。
壁のない、布で区切られた開放的な空間は意外と音を通さない。きっとこの音もこの場にいる者たちにしか届かない。
そもそも、こんな小さな音を気にしている余裕など、ない。
「お前の所為で我が国は滅ぶのよ!」
美しい顔を憤怒に歪めて、妖艶な美女が罵声を飛ばした。
若い女だ。赤い布で胸部と臀部を隠しただけの、露出度の高い衣装を身に纏う若い女。
二十代前半の若い女は綺麗に結い上げていた黒髪を乱し、この国特有の褐色肌でもわかるほど興奮で肌を赤く染めていた。水仕事などしたことのない指先は爪先まで整えられ、細い指には装飾品が飾られている。
マリアムの頬がヒリつくのは、叩かれた際にその装飾品でひっかき傷ができた所為だ。
「お前さえ…お前さえいなければ!」
「やめろレイラ! こんなことをしている場合か!」
「放して…! アハメド様はこんな女をお庇いになるというの!?」
再度振り上げられた手の平は、近くにいた男性によって止められた。
美女の腕を簡単に拘束した青年は精悍な顔立ちをしている。紺色の布と羽を重ねただけの開放的な服装は鍛えられた胸筋がよく見えた。
鳥の羽を重ねた衣装はこの国で最も尊い王族が身につける伝統衣装で、紫は王を。紺色は子息を表す。つまり着ている衣装一つで、彼が未来の統治者だと誰もがわかる格好だった。
そしてマリアムの頬を張り飛ばした美女は、高貴な紫に近い赤を纏うことを許された女。王族に連なる血筋の娘。
レイラと呼ばれた美女は、拘束する男、アハメドに向かって縋り付くように掴み掛かった。
「こんなことになったのは全てこの女が現れたからでしょう! それを庇うなんて、婚約者だから情でも湧いたのですか。わたくしを捨ててこの女を選んだのだから、さぞかし思い入れもあることでしょうね!」
「…っ」
アハメドの精悍な顔に傷ついたような陰りが一瞬過るが、彼は何も言わなかった。鋭い爪で肌を裂かれても、暴れる女の手を放さない。
マリアムはそんな二人をじっと見詰めた。
叩かれた直後は目眩を覚えたが、倒れ込むほどではない。マリアムはゆっくり柱から手を放して、暴れるレイラに背を向けた。
自分がいてもいなくても、彼女のヒステリーは止まらない。
そう判断してのことだったが、立ち去るマリアムに目敏く気付いたレイラは鬼の形相で振り返る。
追い縋ってこないのは、アハメドに腕を掴まれたままだからだ。
「逃げるな! 責任を取れ! 国を…この国を陥れた責任を取れぇえええええ!」
女の声は、いつだって耳を劈くようによく通る。
しかし誰もこちらに注目しない。
これだけ騒いでも注目されないのは、周囲が慌ただしく動き回っているからだ。
彼女と同じように混乱し、甲高い叫びを上げている者もいる。
誰もが他者に構っていられる余裕などなく、逃げ惑っている。
(逃げる場所などないのに)
逃げ惑う人々の合間を縫って、マリアムはゆっくり目的地へと歩を進めた。
この王宮は、布で仕切られた開放的な建物。
日中は布を少なくして太陽を遮り風を通し、夜は冷えた風が入り込まないよう布を重ねて区切られる。回廊を抜けて物々しい人々の間をすり抜けて、マリアムはこの建物で一番高い見張り台までやって来た。
そこからは、王宮を囲む戦火がよく見えた。
暗闇の中浮かぶ、複数の火の手。
日中は地平線が見える見張り台には、脅威となる他国の軍がひしめいて見える。
(…それ以外、何も見えない。夜の砂漠は、海みたい)
夜風が、マリアムの漆黒の髪を靡かせる。
ここで暮すようになって艶の出た、癖のない真っ直ぐな黒髪。
光の当たり具合で青く光る濃紺の瞳を瞬かせ、褐色肌を白い衣装で飾ったマリアムは、見張り台から身を乗り出して外壁の縁へと降り立った。
見張り台に人手がないのは、多くの人が逃げ出したから。
立ち向かうには無謀な戦力差。この王宮を囲むのは、鍛えられた兵士が逃げ出すほど圧倒的な軍事力を誇る国の軍だ。
夜風に煽られて、白い衣装が靡く。
取り乱していた美女、レイラと違って極力肌を隠す衣装は、王子の婚約者として…この国の巫女として、神聖さを求めて作られた。
白い布に白い糸で刺繍を施した地味なようで華美な布は、乱暴に夜風に乱されている。
風の音に、お前がいなければと罵倒する声が蘇る。
お前の所為でと罵る声が、悲鳴が、耳に残っている。
(…そうだね。私がいなければ…あなたはアハメド様の婚約者のままだった)
マリアムが現れなければ。アハメドが心変わりしなければ。
レイラは次期国王の婚約者として栄華を約束されていた。
マリアムが現れなければ…この国が戦火に焼かれることもなかった。
夜の砂漠と夜の空を引き裂くようにひしめく火を遠目に確認して、マリアムは何も見えない空を見上げた。
マリアムは砂漠の中でも、比較的穏やかな村に生まれた。
貧乏だったが海が近く、魚を捕って食いつなぐことができた。海水は飲めないので他の村同様水不足だったが、作物が育たず食糧確保が難しい他の村よりもやりようがあった。
しかし幼いマリアムは、海水が飲めないと知らなかった。
海水が塩辛いのは知っていたが、喉が渇いていた。辛くても水が欲しかった。
晴天が続いて干からびた幼いマリアムは、渇きに耐えきれず水を求め、海へ飛び込んだ。
自ら口を開けて海水を飲み込む。
塩辛さで喉が焼けるように痛み、酸素を手放した代わりに海水が胃を満たす。小さな手をばたつかせて、水面へ向かう水泡を見送って…マリアムは、自分の異常性を自覚した。
苦しくなかった。
水の中にいるのに、全く苦しくなかった。
波に揉まれて岩場に打ち上げられたあとも、マリアムはきょとんと不思議そうに座り込んでいた。
そんなマリアムの前に現れたのが、一人の男。
「なんだお前、海の中でも呼吸ができるのか」
海面から顔だけ出した、ギザギザの歯をした人間…ではなく。
「生まれる場所を間違えたな」
人魚だった。
マリアムの前に現れた人魚は、トイヴォと名乗った。
上半身は成人男性の裸体だが、下半身は巨大な魚。
海の底みたいに暗い目。水に濡れて腰まで貼り付く紺碧の髪。肌の色は青みの掛かった鈍色で、指の隙間には水掻きがある。
人として整った顔立ちに見えるが、笑みから覗く歯はギザギザ鋭い。爪だって、引っかけるだけで貝殻が拾えそうなほど長い。
「時々いるんだよ。魂と身体の相性が悪い奴」
岩場に腰掛けて足を海水に浸すマリアムの隣で頬杖をつき、尾鰭で水面を叩きながらトイヴォが笑う。
「お前は人の身体に人魚の魂を持って生まれたんだろうな。身体に合った場所で生きるのが道理だが、お前の住処は砂漠だ。他の人間より乾きやすくて、身体が魂に負けているんだろう。魂からの影響で、人の身なのに水中で呼吸ができる。そのくせ、できるのは呼吸だけだから、水中では生きられない」
「まりあむ、むつかしいことわかんない」
「んー、俺も子供に分かる説明の仕方わかんねーや」
きゃらきゃら声を上げて笑い、トイヴォは長い爪でマリアムの頬をつついた。
「要は海で生きるはずだったのに、間違って砂漠に生まれちまったんだよ。場所が違うから生きづらい。お前はこれから何度も乾いて飢えて水を求めるだろう。可哀想になぁ」
可哀想と憐れまれているはずなのに、トイヴォの視線は愉快そうだった。
いじわるに口元をつり上げて、きょとんとしているマリアムに身を乗り出して近付く。
「可哀想だから、俺が助けてやるよ」
歪んだ口元から覗く牙が、大きな口が、幼いマリアムのまろい額に触れた。
「お前に水の恩恵を授けよう」
それは、人魚なら誰もが持っている、海の神様からの恩恵らしい。
人魚の歌は波を操る。水を操り、時には雨をも呼び寄せる。
マリアムの歌声にそんな効果はなかったが、トイヴォが同族と認めて口付けたことから、海の神の恩恵がマリアムへも効果を発揮する。
つまり、マリアムが歌えば水が反応する。
陸に暮すマリアムには、雨が応えてくれるだろう。
「お前の歌が気に入った。歌い続けろ。届く限りお前を潤してやる」
そう言って、トイヴォは海の底へと帰って行った。
不思議と喉の渇きがなくなっていたマリアムは、トイヴォが触れた額に触れる。ひんやりと柔らかな感触は、両親が落とす口付けと違った。
それに。
「…まりあむ、うたってないよ…?」
一体どこで、マリアムの歌を聴いたのか。
丸い目を不思議そうに瞬かせながら、マリアムは緩やかな波を見詰めた。
それから、マリアムは不思議な力を手に入れた。
トイヴォが言ったとおり、マリアムが歌えば雨が降る。天候を操る力を得ていた。
マリアムの過ごす村は、豊かではない。いつも水不足で困っている。
だからマリアムは、困っている両親を見て歌った。両親に笑って欲しくて、無邪気に雨を呼んだ。
雨降らしの巫女と周囲に呼ばれるようになるまで、時間は掛からなかった。
そう、あっという間だった。
それから、マリアムは坂を転がり落ちるように悲劇に見舞われた。
最初は、小さな願い。
畑に水が欲しい。生活水が欲しい。喉が渇いた。水が欲しい。沢山水が欲しい。
『歌え』
小さなマリアムは求められるがままに歌った。村人達は、何度も感謝を繰り返した。
しかし人はどんどん強欲になっていく。
『歌え』
水を求める頻度が増え、求める量も増えていく。
そのうち、マリアムの歌は管理されるようになった。
『歌え』
村人に奴隷のように扱われ、雨を降らすためだけに歌わされた。
庇ってくれた両親は殺された。
『歌え』
急に豊かになった村は盗賊に狙われて、栄えた村は一夜にして廃れた。
盗賊に捕まったマリアムは雨を降らせる女として、高値で貴族に売られた。
『歌え』
マリアムを買った貴族は好色で、舐めるような目付きに怯えたが、まだ青いと手を出されることはなかった。
貴族は雨を降らせるマリアムを利用して金を集めた。
今度は貴族の指示に従って歌った。
『歌え』
貴族の行いは国にばれて、貴族は『雨降らしの巫女』を悪用したとして捕まった。そんな肩書き知らないのに、いつの間にかマリアムはそう呼ばれていた。奇しくも、村で呼ばれていたのと同じ呼び名だった。
マリアムは国に保護されて、今度は王様の指示に従い歌うことになる。
『歌え』
常に水不足で悩まされているこの国で、マリアムは…『雨降らしの巫女』は貴重な存在だった。
逃がさぬために、マリアムは王子のアハメドと婚約させられた。
アハメドは婚約前から雨降らしの巫女を神聖視し、崇拝している様子だった。婚約者がいるのに雨降らしの巫女に傾倒していた。
婚約してから、アハメドは優しかった。けれどマリアムの心はいつも凪いでいた。
(皆、同じだ。善悪も関係ない。皆には私の降らす雨が必要で、雨を求めて私の歌を求めて、沢山壊して争っている)
マリアムが望まなくても、いつもマリアムが争いの渦中にいた。
誰もが水を求めて、雨を求めて、マリアムを求めた。
アハメドの婚約者の嫉妬など可愛いもので、何を言われても何をされてもマリアムは気にならなかった。あの程度の嫉妬など、争い事に含まれやしないと知っていた。
――案の定、この国は雨を求める他国に攻め入られていた。
(婚約者のいる私に、見目麗しい男性を嗾けてきた国もあったけれど…私が全く靡かないから、実力行使に出たのね)
周囲は婚約者に対して一途だとか。誠実だとか言っているが、そうじゃない。
マリアムの心にはずっと、海の底みたいに暗い瞳が住み着いている。
あの日、額に口付けて笑った。あの人魚が住み着いている。
マリアムは静かに、見張り台から近付いてくる国の終わりを眺めた。
戦火が近付きこの国ももう終わりだ。
レイラはマリアムの所為だと言った。その理不尽な癇癪は、理不尽だけど当たっている。
マリアムの所為だ。
生まれるところを間違えた、マリアムの所為だ。
人と違う、マリアムの所為だ。
(どこまで行けば、争い事はなくなるのかしら)
マリアムは遠い火の手から視線を逸らし、空を見上げた。
(この国が滅んで、捕まっても同じ。国が変わるだけで、何も変わらない。きっと次の国でも同じように、別の国と争うことになるんだわ)
そうやって転々とすれば、訪れるのはなんだろう。
滅びだろうか。
見上げた空では、地上の争いなど関係ないと星が輝いている。
夜の空を彩る星々は、いつもと変わらず地上の命を見下ろしていた。
(きっと空から見た私たちはあんな風に、とても小さな光なのね)
ならば海から見た陸はどうだろう。
空と違って、何も見えない。きっと、お互いに何も見えていない。
海と陸では、空と陸とは見え方が違う。視界が違いすぎて、見えている物が違いすぎる。
だから頼るのは視力じゃない。
お互いを認識するのに必要なのは、視力じゃなくて…。
細い腕を天へ伸ばし、指先を広げる。
マリアムは遠くを見詰め、大きく息を吸い込み…歌った。
歌詞のない、音だけの歌を。
雨を呼ぶ、雨降らしの巫女の歌。
――どれだけ傷ついても、マリアムは歌うことをやめなかった。
歌っている間だけ、水の恩恵を感じられた。
歌を通じて繋がっていた。
この声は、音は、届いていた。
(彼に、ずっと)
そう信じて歌い続けてきた。
本来、人一人の歌声は響かない。風の強い高所にいれば声は風に攫われる。
マリアムの下方で慌ただしい人々に、彼女の歌声が届くはずはない。
けれどマリアムの歌は、声は。
どこまでも、どこまでも響く。
王宮内にも、このオアシスにも、囲む敵軍にも――…。
(その先の、海にも)
遠く、遠くまで響く。
砂漠の先。大いなる海。その底にまで。
――砂漠よ。砂の海よ。
枯れ果てた大地に降る雨よ。
水よ。川よ。オアシスよ。
砂の下、地中に沈む水はどこまでも深く深く。
遠く…全て、海まで繋がっていると信じさせて!
ぽつりと、雫がマリアムの腫れた頬に落ちた。
雫が一つ二つと増えていき、歌に導かれるように、星々が姿を隠していく。
砂漠に、雨が降る。
「雨降らしの巫女が歌っている」
「やはりあの女の異能は本物だ」
「探せ! 雨を降らせるあの女を、なんとしても我が国の物とするのだ!」
聞こえてくる歌と、降り出した雨。
この砂漠で雨を自由自在に降らせる存在。
それを確かに感じ取り、国を囲んだ敵軍は雄叫びを上げて王宮へと進軍を開始した。
「あの女余計なことを…!」
「マリアムはどこへ行った。彼女こそ逃がさねば他国に奪われてしまう!」
「あんな女、渡してしまえば良かったのです! そうすればこの国はこんな目に遭わなかった!」
「彼女がいたからこそ豊かになったんだ! 彼女がいなければ貧しかった頃に逆戻りだと何故わからない!」
歌声を聞き、雨の気配を感じたレイラは憎らしげに声の出所を探す。アハメドはマリアムが逃げていなかったことに焦り、何としても逃がそうとするが逃げる所などありはしない。
この国は雨降らしの巫女を独占し、水不足で悩む他国の事情を知っていながら多額の依頼金を支払えない国に手を差し伸べることはなかった。
自国でのみ歌わせて、自国だけを栄えさせた。その結果他国から恨みを買って、このように侵略されている。
囲まれた時点で、雨降らしの巫女を差し出すべきだと重臣達は進言した。
しかしこの国は恨みを買いすぎて、巫女を差し出すだけでは矛は収まらない状態までなっていた。彼らは巫女だけでなく、豊かに実ったこの土地も欲しいのだ。
恨みを買った、国の自業自得だ。
他国に攻められたとき、アハメドは婚約者を守ると意気込んだが、軍事力に差がありすぎた。
豊かになって調子付いただけの小国に、大国に匹敵する力があるわけもなかった。
勘違いしたのだ。
雨が降って、自分たちだけ豊かになって、自分たちが恵まれているのだと。
恵まれている国こそ強いのだと勘違いしていた。
「あちらの雨不足は我が国の比ではない。そんなところに捕まれば、マリアムは使い潰されてしまう。なんとしても逃がさないと…」
「火種にしかならない女など! いまここで死なせてしまえばいいのよ!」
「なんてことを言うんだ!」
そんな場合ではないと分っているのに、追い詰められた神経を逆撫でされて怒鳴りつける。
未熟な自分に苛立つアハメドは、落ち着こうと外へ視線を向け…。
「え」
異常に、気付いた。
水音でリズムを取りながら、マリアムは歌った。
夜の砂漠で、海を感じながら歌った。
砂漠の砂は重い水だ。冷えた夜の砂はさざ波と同じ。マリアムは目を閉じて波の音を聞く。波の音に合わせて歌い続ける。
頬に雫が落ちる。
マリアムの歌に誘われて、雨が降る。
全ての雨雲が、マリアムの歌に導かれこの国へ――――。
(歌が欲しいのでしょう。雨が欲しいのでしょう。あげるわ。たくさんあげる)
『死ぬまで歌え』
もう、誰がそう言ったのか覚えていない。
村の人だったのは覚えているけれど、もう顔も覚えていない。
だけど、言われた通りにしよう。
(死ぬまで歌うわ)
声が枯れても喉が裂けても。
死ぬまで歌うわ。
雨が水溜まりになり川となり、オアシスとなり…洪水になっても歌い続けた。
砂漠は水不足に悩まされているけれど、一番多い死因は溺死。
その理由は、一度の大雨で洪水が起きるから。砂漠の砂は水を吸わず、一度の大雨で小さな村が沈んでしまう。
今までそうならないように、恵みの雨を降らせていた。作物が育つ、人が潤う恵みの雨を。
でも、もういい。
もう、どうでもいい。
(全部、押し流されてしまえばいい)
歌が欲しいのならばくれてやる。雨が欲しいのなら降らせてやろう。
『歌え』
(――――皆願いは同じでしょう?)
そんなに欲しいのならば、沢山あげる。
「もうやめろ!」
遠くで誰かが叫んでいる。
マリアムの歌を止めようとしている。
(何故止めるの? 歌が、雨が欲しいのでしょう?)
「殺す気なの!?」
水音の中で、金切り声がやけに響く。
生死を問う声がする。
(何故そんなことを言うの。私に死んで欲しかったのでしょう?)
お望み通り死ぬまで歌う覚悟だ。
その結果、あなたがどうなろうと知ったことではない。
誰の声にも反応を示さないマリアムに、誰かが呪いの声を上げた。
「この…化け物め!」
今まで敬われた、雨降らしの巫女と対極にある罵倒。
思わず口元が歪む。
(今更気付いたの?)
遅すぎる正解に、マリアムは雨に濡れながら晴れ晴れと笑った。
(――生みの親すら不幸にした私が、清らかな巫女であるものか)
マリアムは生まれを間違えた、正真正銘海の怪物だ。
雨が洪水となって都を押し流し、敵も味方も関係なく濁流に呑まれても、マリアムは見張り台の縁で歌い続けた。
血反吐を吐きながら歌った。
王宮が呑まれ、建物が押し流され、マリアムのいる見張り台も倒れていく。
しかし完全に倒れることはなく、マリアムの爪先で濁った水が激しく渦を巻いている。
この光景だけ見れば、ここが砂漠なんて信じられないだろう。
もう誰の声も聞こえない。
響くのは水音とかすれた酷い歌声だけ。美しくない、しゃがれた滑稽な歌声だけ。
(こんな歌でも届いていますか)
聞けた物じゃない歌だけど、それでも雨は降るから。
(こんな歌でも、あなたは聞いていてくれますか)
雨が降る空を見上げ、目を閉じる。
脱力して、瓦礫に引っかかっているだけのマリアムの足元。
濁流から伸びた腕が、マリアムの足首を掴んで水の底へと引きずり下ろした。
「やっと全部捨てた」
――――――――――
トイヴォがマリアムと出会ったのは偶然ではない。
近海に住む人魚の中で、マリアムを知らない者はいなかった。
何故なら、幼いマリアムの歌には人魚特有の音が混じっていたから。
幼いマリアムが陸で歌うたび、人魚達は顔を見合わせて哀しげな顔をした。
「可哀想に。海の魂が陸で生まれるなんて」
「せっかく生まれたのに干からびて死ぬなんて」
「次は迷子にならず海に生まれますように」
海の魂は陸で生きられない。
歌声の持ち主は、遠からずして干からびて死ぬだろう。そうして魂は海へと帰る。親に教えられなくても当たり前に知っている、世界の摂理。
可哀想だが、迷子の魂の寿命は短い。
だからマリアムは、近いうちに亡くなる幼子として、海で憐れまれていた。
トイヴォもそんな可哀想な存在を、歌声と共に知った。
もうすぐ死んでしまう存在。
死んで、巡って、次は海に生まれておいでと祈られている。
でも。
「来世じゃダメだ。今世のマリアムが欲しい」
「なに言ってんだトイヴォ。彼女に水の合わない世界で生きろと?」
陸の歌声が一番届く岩場に紛れて、トイヴォは今日もマリアムの声を聞いていた。
日に日に掠れてひび割れていく歌に耳を澄ませて、そろそろ死期が近いと分かっていながら、それじゃ嫌だと尾鰭を揺らす。
「いいか。魂が違うってのはな、言うほど簡単なことじゃない。だいたいの迷子は生まれてすぐ呼吸ができずに死んでしまう。全然違う肉体で、むしろマリアムは長生きしている方だぞ」
付き合いの良い友人は小さい身体でくるくる回る。
「器用に順応したみたいだが、それにも限界がある。あの子はそろそろ、もって一ヶ月だ」
「それで、来世に期待って? そんな運試しはごめんだ」
「そりゃあ、海は広いからな。来世がこの海域とは限らないけど…」
「俺は今生きているあの子が欲しいんだ。邪魔するなら食べる」
「えええ俺を? 一口で? バイオレンス! 待ってくれよマイフレンド! 考え直してくれ!」
歯を鳴らして威嚇すれば、小さな友人は一生懸命身振り手振りでトイヴォの考えを改めさせようと説得をはじめた。
「今世をスッキリさせて来世にチャレンジは当たり前の流れだろ。むしろ今世で生きる場所が違うのに一緒になろうとするのは双方に負担がでかすぎる! お前が陸で暮すのか? その尾鰭で? もしかして彼女が海で暮すのか? 魂は海でも身体が陸でできてるんだ! 呼吸ができたとしても身体は人間。肉は水を含んで腐り落ちる! どっちも自殺行為だぜフーやれやれ」
「身も心も海の者になればいいんだろ」
「…えええまっさか彼女の身体を変形させる気か!?」
くるくる回っていた友人はトイヴォの発言に衝撃に慄き、とても速い動きでトイヴォの鼻先まで詰め寄ってきた。
「なんて可哀想なことを考えるんだ! 種の変形は、授かった身体を捨てる行為! そのためには授かった全てを捨てなくちゃいけないんだぞ! 魂にだって傷が付いちゃうかも! それを相手にさせるなんて鬼畜過ぎるー!」
「だけど迷子の迷子の魂が正しい肉体を得る唯一の方法だろ?」
来世にチャレンジなんて、来世も迷子になったら目も当てられない。
トイヴォは歯を剥き出しにして笑った。
「不確かな未来なんてアテにできない。今確実に、手に入れる。そのためならなんだってしてやるよ」
「わぁ…嫌われるぞ。だってつまり、マリアムが自暴自棄になるまで追い詰めるってことじゃないか」
「ああ。全てを捨てて貰わなくちゃいけないからな…俺以外」
「鬼畜だぁ~幼気な女の子になんてこと…」
なんとでも言うといい。トイヴォは決めていた。
掠れた声で歌う、今を生きるマリアムを手に入れる。
だって、この歌を歌えるのは今のマリアムだけだ。前世も来世も関係ない。今のマリアムだけなのだ。
――本当は、トイヴォとマリアムが出会ったその日が彼女の終わりだった。
海に落ちて、ゆっくり肉体を腐らせて、海の底で死ぬ。解放された魂は海に還る。
そのはずだった。
だけどトイヴォは、一時だろうとマリアムの魂が海に奪われるのは我慢できず、割って入った。
マリアムはトイヴォのもの。
誰も望まぬマリアムの今世を、トイヴォだけが望んでいた。
――だから彼女が干からびないように恩恵を。
――そんな彼女が不幸になるように火種を与えた。
トイヴォは陸を知らないが、乾いた土地で必要な物は分かっている。
それを無垢な少女が、純真な行為で手渡してくる。
はじめは感謝で溢れても、人はすぐに慣れてより多くを欲する。欲張りで高慢で、恩知らずなのが人間だ。
だから、乾いた土地に雨を降らせるマリアムの存在は、悲劇しか生まない。
トイヴォはそう予想して、種を蒔いた。
(沢山歌って、沢山絶望してくれマリアム)
親を失い。故郷を失い。自由を奪われ。尊厳をなくして。信頼できる人間などいないのだと涙してくれ。
生まれる時に授かった全てを失って、海を…トイヴォだけを求めてくれたら最高だ。
「歌え」
掠れた声で。ひび割れた声で。
聞くに堪えない可哀想な声で、恐怖を抱えながら歌い続けろ。
「歌えマリアム」
歌声は、海に届いている。
縋るような歌声は、ずっとトイヴォに届いていた。
でも、まだだ。まだ全部捨てていない。陸に未練を残しては、海の底で生きていけない。
そのときが来るのを、トイヴォはじっと待ち続けた。
彼女が絶望し、悲嘆に暮れて…喉をかきむしるように歌うそのときを。全て壊れてしまえと狂ったように歌うそのときを。
そのときは、ちゃんと迎えに行くと決めていた。
だから。
「やっと全部捨てた」
トイヴォはマリアムの足首を掴んで、海の底へと引きずり下ろした。
「あ~重い。海の中でそんな重さ、沈むばかりじゃん」
トイヴォを止めることもできず、結局目的を完遂した友人を見送った人魚は、恐ろしいとばかりに身を震わせた。
人魚の執着は闇が深い。同じ人魚でもそう思う。
一度執着されれば、お互いもう逃げられない。絡み合って堕ちていくしかない。
「海の底にさ」
マリアムの悲劇は、トイヴォがそうなれと種を蒔いた結果。
しかし種を蒔いただけで、悲劇が育ったのは周囲の人間達の欲深さ。トイヴォは計画通りとしたり顔。
海の底に引きずり込まれたマリアムと、傷だらけにしてでも今世のマリアムが欲しかった人魚。
氷雨そら様、企画ありがとうございました!