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ヨシオカアツシVS宇宙人:天之川の氾濫

作者: 吉岡篤司

昔の思い出を詰め込んで書いて見た作品です。是非、ご一読ください。

「川の中に、石が、ある 拾いにいくぉ!」

 まだ幼い児童たちが川べりで楽しそうに遊んでいた。しかし、瞬時にその場がパニックと化してしまうことを誰が予測できただろうか。

「アッ! この川、深いッッ! ボボボボボボボボッ!ボゥホゥ!ブオオオオバオウッバ! だずげで! 流されっ、ちゃボボボボボ! 助けて!」

 どうやら溺れる子は石をも掴むというやつだろうか。周りが騒然とする中、文豪である(よし)(おか)はそんなことを考えながら素通りしていつものBARへと向かって行った。



 きしむドアを開くとそこは大正ロマンあふれるオーセンティックなBARである。蓄音機がエリックサティ作曲のシャンソン『ジュ・トゥ・ヴー』を店内にしっとりと響かせ、薄暗い店内に独特の雰囲気を醸し出している。

「いらっしゃい。善岡先生」

「あぁ、いつもの頼む」

 しかし、カウンターの向こう側に立つ古風な雰囲気を漂わせた肌の色が白い絶世の美女ミューズ。その特徴は長い亜麻色の髪と何よりその大きな瞳であろう。彼女は背後にある棚に陳列されたボトルをひとしきり眺めた後、困惑した表情を浮かべた。

「最近、輸入が厳しくなってアブサンが入ってこなくなったんです。ペルノーでもいいかしら?」

「いや、ならウイスキーを頼む。オールドパーをロックで」

 善岡は加えているパイプに火を灯す。香ばしい香りが店内に満ち溢れていくと同時に、彼の表情が晴れやかになってくる。

「そういえば、そろそろ七夕だ。織姫と牽牛が一年に一度、禁断の川を渡れる日。我々は彼らの願いが叶ったことを記念し自らの願いを笹に吊るして、その想いは川を埋め尽くして彼らの恋を彩る」

 彼はぼそぼそと言った。そんな様子の彼にミューズが問いかける。

「善岡先生はどのようなお願いを?」

 それを聞いて善岡はふっと笑う。

「俺のファンたちが笑顔で読んでくれていることを望む」

「流石ですね」

「本来なら、文芸を司る神に願うところだがご愛敬だ」

 善岡は手元に差し出されたグラスを口へと運び周りを見渡すと、店の奥にちょこんと笹が置かれたのを見つけた。

「おや、ファンサービスか? ミューズ」

「えぇ、私はお客様を大切にしますから」

 善岡は椅子から立ち上がり、笹へと向かって行く。その葉に括りつけられた数ある短冊には人々の思いの丈が刻まれていた。

―世界が平和でありますように―

―新人賞が今度こそ取れますように―

―あの人と付き合いたい!―

―志望校合格!―

―なんでも願いを叶えられる魔法少女になりたい―

―景気回復!―

―愛してる関係が永遠に続きますように―

―俺に強くなれる力を下さい―

―彼女の心を私に向けて―

 皆、それぞれの願いがあり多種多様である。

「やっぱり七夕伝説の性質上からか恋愛系が多いな」

 一つ一つじっくり眺めて善岡は呟いた。その後、見飽きたのか席に戻っていく。

「ミューズ、何かおつまみでもくれないかな」

「そうですね、南米原産のこのキノコなどどうでしょう?」

 傘のような形をしたその妖しく異質なキノコに善岡は興味を持ったようだ。

「これはただもんじゃないだろう」

「アブサンの代わり。いや、それ以上でしょう」

 善岡はにやりと笑いキノコをつまんで口へと放り込んだ。



 世界が色とりどりな紋様で満ちていく。まるでチベットの曼荼羅に飛び込んだようだ。人々の願いや想いが感覚として一気に自分の中に入って来る。もしや次元上昇か。現実と夢の区別がつかない。この他幸感。酒でも煙草でもギャンブルでも味わえない最高の快楽、唯一勝るものがあるとしたらそれは性行為の絶頂だろう。

 性行為? その単語が現れた瞬間、俺は過去をフラッシュバックした。


 あれは大学の頃だっただろうか。

「えー、我々、鎌ヶ谷学生文芸研究会々長選挙の結果を発表します。礼二くん17票、和歌子ちゃん13票。よって新会長は礼二くんになりました!」

 狭い教室の中で一斉に拍手喝采となった。喜び勇み皆の輪に入り皆と握手する礼二先輩と対照的に、和歌子先輩は無表情でうつむいていた。

「礼二先輩、この度は接戦を制し、おめでとうございます」

 俺が社交辞令を言うと、彼は腹黒い笑みを一瞬浮かべ、

「ありがとう、おかげであの和歌子を倒すことができた。一年生にしてはよくやるな。これからもよろしく頼む」

 言い終えるとすっと礼二さんは元の爽やかな笑みに戻って、皆と拍手しながらお辞儀を繰り返していた。その喧騒の輪から抜け出した俺は、和歌子先輩が教室から出ていくのを見て、あわててその後を追った。


「どこだ? 和歌子先輩」

 周りを見渡したが気配がなかった。その時、

「ここよ」

 背後から声がして振り返るとそこには俺にとって恐怖の象徴でもあった彼女の般若の如き怒りの表情と眼差しが折り返し階段の踊り場から俺を睨み降ろしていた。後方のステンドグラスから増幅された月明かりが彼女を照らしている。

「散々、至れり尽くせりしてあげたのに忘れちゃったみたいね。あんたみたいな後輩と付き合ったこと、いや出会ったことが私の運の尽きで人生の汚点だったわ」

 いつもと同じく、黒い長髪を束ね、鋭い目つきを覆うように眼鏡をかけており、ピンクの矢羽根模様の袴という出で立ちだが、殺意を全身から放っており、近づく虫をも殺める勢いだ。まさに金色夜叉という言葉が似合うだろう。

「あ、あの、俺としては――」

「会での自分の地位を上げる為に、礼二に寝返ったわね。前から思っていた。あんたが使えるだけ使って裏切るだろうって、一人じゃ何もできない人間だから」

 そうだ。この千葉県鎌ヶ谷にある学生主催の小さな文芸サークルは、そのほんのりとした外観からは考えられないくらい派閥での争いが激化していた。それは米国の民主党と共和党、英国の保守党と労働党のように。

主に我々を分けていたのは、現実への見方だった。それにより、美を至高の価値とした麗しい和歌子先輩率いる「耽美派」と、理想主義や人道主義的な立場から自我や個性を伸ばして生きることを主張する上流階級出身の礼二先輩率いる「白樺派」。この耽美派と白樺派の二大勢力が、従来の自然主義的な文芸観念からの脱出を試みていた世相を反映させており我々はその渦中にあった。

 俺は階段の先にいる和歌子さんを見据え自分の想いを吐くことを決心した。

「和歌子先輩。今まであなたに薫陶をいただいたことは本当に感謝してます。ですが、結果としてこのような残念な別れ方になるのは大変心苦しい。何故なら、あなたを今でも愛しているからだ」

 俺は階段を一歩ずつ踏み出した。上でたちずさむ和歌子先輩へと向かう為だ。

彼女とは入会以来、相手の一目ぼれで付き合って約数か月。沢山笑い、喧嘩もした。喧嘩では後輩である俺に勝てるはずがなく、いつも和歌子先輩の論理が通った。それに不満を持っていたことくらい向こうは気付いていただろうが、自分にずっと人形のように言いなりになってくれると思っていたのだろう。

「なら何故――?」

「俺はあなたの人形ではないからだ。こっちがあなたに求めてた愛は対等なものだったのに、あなたはいつも独り善がり。それにあなたは気付いていましたか?」

 しかし、和歌子先輩の表情と目つきは変わらなかった。

「理想の為ならいかなる犠牲もつきもの。そうして美も文芸も作られてきた。敦志、私と二人で一つになって、大人になったあなたになら理解してくれるはずと信じていたのに」

「二人で一つか……」

「最近はそれの為に交際する馬鹿が多いって聞くけど、あなたもそうだったのかしらね。善岡、お前は最大の恩を最大の仇で返したクズだ!」

 和歌子先輩がヒステリックに怒鳴った。しかし、もう俺は動じない。

「お子さまから卒業させていただいたことに恩は感じているさ。でも、和歌子。あなたもそうでしょ?」

 彼女のいる踊場へと登り切った彼女に近づくと、いつもと違う俺の様に思わず後ずさりした。

「あの時、あなたも初めてだったんでしょ。どれだけ演技しても、痛がっていることくらい気付いていましたよ。あと、いくら暗くても赤色ははっきり見えるもんです」

 俺は身を翻し、折り返し階段を昇って行った。登り切ってくるりと振り返ると、和歌子は踊り場を降りて行こうとしている。その姿に俺は案ずるつもりで声をかけた。

「夜空に美しい星が無限にあるように、男も女も同じ数だけいる。その中からたった一つの月を見つけよう。お互い大人なんだから」

 返答はなかった。ただ、俺の何とも言えない表情をステンドグラス越しの月明かりが照らしている。

それ以来、俺は和歌子と口を聞くことはなかった。



「ようやくこっち側に戻ってまいりましたね」

 善岡の眼前にはミューズの妖しい笑み。

「どうです? 夢の世界へのトリップは」

「最悪だ。二度と使うか」

 彼は若き頃の黒歴史をかき消す為に、グラスの残りのオールドパーを一気に飲み干した。


どうやら、善岡がトリップしている間に客が一組来ていたようだ。若い男女のカップルだ。善岡とミューズがいるカウンターからほど近いテーブル席にいたが、その様子はデートとは程遠い貶し合いの大喧嘩であった。

「だ・か・ら! お前とはもうやっていけねえって俺は言ってんだよ」

 男が、ボブカットの髪型で背の低い女子に人差し指を突き付けて言い放った。しかし、女子も負けじと反論する。

「それって浮気していい理由にならないでしょうが! 責任取れ!」

「はぁ? 第一、お前の重すぎる愛に辟易してたんだよ、日常生活に支障きたすレベルで何かにつけ干渉しすぎなんだよ。飯を一緒に食べよう、飲み会にも行くな、行きも帰りも絶対連絡しろ――。そんな俺をあいつが救ってくれたんだ」

「あんたみたいな人と浮気する女って、どうせ色に狂ったバカなんでしょうね」

「いいや、あいつは俺の性格の良さに気付いてくれた。お前なんかと違う」

「浮気する時点で性格が良いなんて論外なんですけど。それより、毎日毎日電話しても繋がらないし、手紙書いてもすぐに帰ってこない時点でアウトでしょ」

「何言ってるんだ? 返事が返ってくることがそれもすぐにとか当たり前に思っているお前が怖いわ。第一、電話もな。こっちは朝から早いのに深夜五時間も話すとか常識的にあり得ないから。そうそう、だいぶ前にお前の日記帳見せてもらったんだけど……」

 それを聞くなり女子は豹変する。

「アアアアアア! 誰が勝手に見ていいって言ったのよォォ!」

「お互いに見せ合いっこしようみたいな話した時、お前だけ拒否したよな。やましいことがあるから見せれなかったんだろ? 案の定、言葉にするのもはばかるくらい俺のこと色々書いてくれてたよな、それにいつもあんなに見栄張ってるくせに「私なんか~」とかマジでなんなんだ。あれでお前が異常者だって確信した。それまではただのめんどくさい奴なだと思ってたけど――」

「ちょっと待って。今のは聞き捨てならないわ。今までただのめんどくさい奴って思ってたわけ? 愛しているっていつもこっちから言わないと返ってこなかったけど、本当はそういう風に思ってたのね」

「愛してるとかそうそう言いまくるのが意味分からんのと、お前の見立ては当たってる。さて、もうこんな時間か。帰る」

 男が立ち上がるも、女子はその手を握った。

「まだ話し終わってないでしょ! ってか会計は?」

「これ以上、話続けてもなんの進展もないから打ち切りだ。

というか、男が奢ってくれることが当たり前とか思っている時点でお話にならん」

 男は乱雑に手を振りほどき、足早に店を後にした。

 静かになった店内で目に涙を浮かべた女子の独り言だけがこだまする。

「私はダメな女なんだわ……。もういっそのこと私を必要としないあんな男は、彼女とやらと一緒に殺してやるしかない! でも……私には何の力もない……」


 カッターを取り出し、自分の右腕に押し当てようとした彼女の様子を見かねて善岡が近づき、腕をひねった。

「これでも食べて元気出せよ」

 彼は、先ほどミューズが出したキノコの残りを彼女の目の前のテーブルに置いた。しかし、女子は善岡に向かい直ると、

「あなたみたいな大作家先生なんかに私のこと何も分からないでしょう!? 私も物書きの端くれなんで、先生の作品はよく読むんですけど意味不明で何が何なのか分からない。そんな人なんかから余計な口出しなんかこっちから願い下げです!」

 それを聞いて善岡ははぁとため息をつく。

「読んでどう感じるかは人それぞれだが、せっかく読んでくれた君にアドバイスしてあげよう。夜空に美しい星が無限にあるように、男も女も同じ数だけいる。その中からたった一つの月を見つけるんだ。君は大人なんだから」

 慰めのつもりだったのだが、あまり効いてないようだ。

「そんな簡単に見つかるんだったらあんな男と付き合ったりしてないでしょ」

「失敗しなくちゃ、成功はしないだろ。下手な鉄砲も数撃てば当たる。ただひたすらに撃ちまくれ」

「先生は無関係だから好き放題言えるのよ。彼との思い出が忘れられないこの気持ちが分かる?」

「分かるよ」

「何が?」

 善岡はこほんと咳ばらいをする。

「一つだけ分かるのは、思い出が辛いのは思い出を美化しているからってこと。いつかは全て無に返る」

 善岡はミューズに「ごちそうさま」とだけ言い、店を後にした。

「この娘の分は俺のにツケておいてくれ」

「承知いたしました。また、催促いたしますね」

そして、それからしばらくして彼女は沈黙の中、キノコを口にした。

「七夕が近い。ここは牽牛と彦星の逢瀬の川……。人々の想いが、願いが、溢れかえっている。私は今、いったい何に溺れているのかしら。お月様教えて……」

 彼女の脳内を夢が支配していく。李白が湖面に浮かぶ月に接吻したかのようにグラスへと沈んでいく彼女。

それを見てミューズは妖しく微笑んだ。



 七月七日がやってきた。いつものように善岡が店を訪れると普段の閑散と打って変わって盛況だった。

「いらっしゃい。善岡先生」

「いつもの」

 彼は口に咥えたパイプに火をつけ、煙を堪能しながら辺りを見渡した。

「アブサンの砂糖水割りです」

「ありがとう。今日は常連じゃなさそうだな」

「えぇ、見慣れない団体のお客様が来られているということでして」

 その一団はこのオーセンティックなBARをカフェーと勘違いしてるが如く、退廃的に騒いでいた。しかし、ミューズも客を無下にできないのだろう。


「ねぇねぇ」

「なぁに?」

「私のこと愛してるって言って~」

「うん、愛してるよ」

「ありがと~。そう言ってくれたら、明日もお仕事頑張れる~」

「仕事、大変だろ。今夜は沢山、話を聞いてあげるよ」

 のろけ話をしてるカップルの甘い会話が善岡にとってはうざったらしくて仕方がない。説教でもしてやろうか。そう思って声の主を見た彼は驚きのあまり腰を抜かしそうになった。

「お前、彼氏できたの?」

 この間のあの女子だった。そして、その傍らにいる男はこの間の人物ではない。全くの別人だった。息を吹きかけたら飛んでいきそうな痩身、センター分けの髪型、耳にはピアスをしている。そんな彼の野心的なにやつきから何を目論んでいるか善岡には察しがついた。

「いや~、この前の先生にいろいろ言われて私も目が覚めたんです。ようやく数ある星の中から月を見つけることができましたー」

 呆れる善岡だったが、二人が幸せそうな様子を見てもう何もかけてやる言葉が思いつかなかったが、ぽろっと口が滑った。

「お前ら、なんかキメてんのか?」

 それに誰一人として答えなかった。はぁと呟き、善岡はミューズに向き直る。

「なんなんだろうね?」

「さぁ? 寂しがり屋さんなんじゃないですか? だから、誰かと一緒にいて孤独を埋めたいんですよ、多分。それに依存しやすい体質みたいだしね。どんなクズ男でも、せめてあの娘の情緒不安定を抑え込んでくれる人なら誰でもいいんじゃないですかね」

 ミューズは妖しい笑みを浮かべた。

「確かにそれもそうだな。あの手のめんどくさい相手が何かやらかす前に止めてくれる男は必要だ。毒にはそれを上回る毒が必要だ」

 善岡は飲みながらぼそりと呟いた。


 喧騒の中、独り酒と煙草を嗜む善岡だが、ふと何かを思い出したように口にする。

「二人で一つになる……か」

 自分はもういい年になるのに長いこと交際相手もいない。学生の時の初恋を未だに引きずっているのだろうか。でも、もうそれを割り切って生きてきたはずだ。しかし、どこか寂しい。酒と煙草だけが友人と言っても過言ではない。ミューズは所詮、行きつけの店のカウンターレディに過ぎない。そんなことを考えている折、

「何か考えていることがあるようね」

 彼は恐怖を思い返して、声の主を見る。

「和歌子先輩……」

「久々だね」

 カウンターを隔てた向こう側、本来ミューズが立っているべき場所には別人が立っていた。見覚えがある、黒い長髪を束ねて、鋭い目つきを覆うように眼鏡をかけており、ピンクの矢羽根模様の袴という出で立ち。何故ここに?

「あなたもそろそろ年を取ったのよ。だから、思い出が美しく感じるのよ。美しいままに保つことはいいこともあれば悪いこともある」

 学生時代の頃のような高圧的な勢いは削がれ、どこか彼を諭すような口調だ。

「和歌子先輩……」

 思わず涙が出て、善岡は振り絞って口を開く。

「その通りです。今までずっと申し訳ないと思っていました」

 それを聞いて和歌子はふっと笑う。

「バカね。もうとっくにこっちは許しているっていうのに」

 項垂れる善岡に彼女は続ける。

「夜空に美しい星が無限にあるように、男も女も同じ数だけいる。その中からたった一つの月を見つけよう。お互い大人なんだから」

 善岡はそうですねと呟きグラスを口に運ぼうとするも、和歌子は自身の手元のグラスを持ち上げる。

「なんか忘れてない?」

「いえ、忘れてはいませんよ」

 二人は微笑みながら、

「「乾杯!」」

 やかましい店内ではグラスとグラスがカチンとぶつかり合う音などかき消されるものである。しかし、善岡はその音を耳に刻み込んだ。

 しっとりと酒の味を味わった末、和歌子はふとその場を後にする。

「今日はありがとうね」

「いえ、こちらこそ」

 再び独りになった善岡は淋しさを紛らわすかのように煙草に火をつけた。もくもくとあがる煙を見て、何も考えないことに決めた。



ふと正気に返った善岡。先ほどまで和歌子がいた眼前にはミューズがいる。どこかニヤリとしている。

「あら、幻覚でもみてたんですかね?」

「もしかして何か変なものを盛ったりしてないよな?」

 それを聞いても「さぁ、どうでしょう」とミューズははぐらかす。

「ところで善岡先生にお尋ねしたいことがあったんですけど……」

「なんだ?」

「毎夜毎夜、飲んだくれるのは何かを忘れたいが為なんじゃないですか?」

 彼女の問いかけに善岡は黙る。そして、暫らくの後に口を開き、

「俺、そんな飲んでないよ」

 予想外といった風にミューズは受け止めたのだろう。善岡は続ける。

「でも、たまに、ふと何かを思い出してしまうことはよくある。良いことも悪いことも。でも、振り返ってみてそれがあるから今があるんだなって。そんなことを考えるには酒もいいもんだ」

 善岡はアブサンの残りを飲み干すと、涙を拭き取りふっと笑う。


 そんな折、バカ騒ぎしてた貸し切り客の一団が何を思ったか善岡に近づく。

「おぉ、偉大なる大作家先生じゃないですかぁ! 新作読みましたよ。凄かったですね~あの怒涛の展開。そういや、あなたの名前、忘れちゃったんですけど、確か飲んだくれで有名な――」

「そう、俺が善岡敦志だ」

 振り返った彼の目の前に、なみなみとワインが注がれたゴブレットが置かれている。

「なんだ?」

「せっかくなんで、これ、イッキしちゃってくださいよぉ」

 表面張力の力でぎりぎりあふれていないその赤い水面には月が浮かんでいる。

「今日は七夕だ。読者からのお願いは特別サービスで聞いてやろう」

 そのまま、彼は考える間もなく、浮かぶ月に唇を重ね合わせる。

「「「イェアァァァァ!」」」

 場が大盛り上がりするのをよそに、善岡はゴブレットからワインを吸い上げていく。

「これで倒れなかったらいいんだけどねぇ……」

 ミューズの呟きには誰も気付かない。

 飲み切った善岡は、呂律の回らないままに大声でBARの客たちに大演説をしていた。

「その昔、大中華に杜甫という偉大なる詩人がいてなぁ! そいつは最後! 川に溺れて死んじまったんだ。何故か分かるか?」

「「「なんで、なんで?」」」」

 聴衆からの反応に気をよくした善岡は右手を開き、頭上に上げる。

「川に浮かんでいる月を取ろうとしたからだ! 今宵、俺は酒に溺れて死にたい気分だ――」

 そのまま善岡はふらつき出し、前のめりに倒れ込んだ。



 俺はこのまま、杜甫のように、あるいは行き道で見かけた幼子のように溺れるのか。

否、全ての人々の願いが一元化される天之川、人々の意志の結集体に今、俺はアクセスしている。

「今、未来を望め! 終わりなき日常を新しく!」

 中心で俺は叫んだ。すると噴水のように願いは溢れ出し、思い思いに進むべき方向へと吹き上がる。

俺は小説という世界で願いを叶えることが出来る神だ。これくらいファンを大切にする大作家としての義務に過ぎん。



「俺は生きてるのか?」

 目を覚ました善岡。客が店を出て、二人だけの店内は非常に散らかっているが静かだ。

「そう、まだ死ぬには早いですよ。これが夢ではない、現実の続き」

 ミューズが床に寝そべっている彼を介抱していた。

「そうか。まだ地獄にも天国にも行くのは早いか」

「えぇ」

作者:吉岡篤司ストロガノフ

雑誌『和三盆~お題「和風」~』

発行日:令和4年7月29日

発行者:甲南大学文化会文学研究会

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