第九話 ウィンク。
震える声を隠さず、三蔵は下を向く。
束の間、法明はそんな三蔵を見つめたあと、そっと目を伏した。
三蔵と夕餉を囲んでからずっと、法明は、話を逸らすでもなく、急かすでもなく、そこにある事実を、三蔵の言葉とともにただ受け止めた。あるがままを見ていられるよう、同じ高さの、あるいは法明という老夫が座るにちょうどいいだろう位置で三蔵と目を合わせられるよう。
あの日。
河で溺れていた三蔵を助けて寺へと戻った直後、観世音菩薩は当然のごとく金山寺に現われた。
『法明よ、よくぞ助けてくれた。褒美を使わす』
現われるだろうとも思っていた。
観世音菩薩。その従者であり、弟子でもある恵岸行者。
彼らを前にして、法明はさして驚いた風もなく、水を吸ってびっしょりと重い法衣のまま、はー、しんどと腰を叩きながら平伏した。続いて法明の弟子たちは、抱えていた少年を半ば地面に放り出す形で慌てて伏した。
そんな弟子たちを観世音菩薩は一瞥する。
『恵岸』
名を呼ばれただけで全て承知と前へ進み出て、恵岸は、少年を軽々と肩に担いだ。
『これは金山寺に置くが、世話は恵岸がする。何人も触れるな』
少年を担いだまま、恵岸行者が一言も発さずに金山寺の中へと姿を消した。
『あれは、玄奘三蔵である』
観世音菩薩の緑の目が下界を見下ろすように、法明たちを見下ろす。
『この世界の妖怪が、人魔が、あれが死ぬことを、あるいは、生きることを望んで止まぬ。心して守り努めよ』
『仰せのままに』
説明が端的すぎて矛盾しているように聞こえるが、神仏とは大方がそういうものである。この世の矛盾とは、繋がらぬように見える表裏がそうさせる。神仏は全てを見通しているがゆえに、裏と表が別たれて見える凡庸な有象無象には矛盾の塊にしか見えぬ時がある。
何もかもを見通す者は、見通せない者を理解しない。見えていない者は、見えている者の言葉を理解しない。
法明は、そうやって起こっている事象を了解していながら、目覚めたばかりの三蔵の混乱を、ただ聞いた。聞くことしかできなかった。
いくら神仏に導かれし希有な存在とはいえ、心細さに惑う幼気な子どもを前にして、労りを掛けてやりたいと思うのは人心として当然ではなかろうか。
これから先ずっと、その相手に何もしてやれることがないのなら、なおさら。
三蔵を助けたときのことを思い出しながら、法明は、部屋を撫でる鈴虫の鳴き声に紛れて聞こえる、玄奘三蔵のすすり泣く声を聞いた。
慰めの言葉も何も法明は持っていない。説明することは出来はすれど、それは遙か天からの繰り言と同じになると分かっていた。今、目の前で泣いている相手が、そんな甲斐のない答えを望んでいるわけではないことを分かっている。
法明は、神仏に導かれ三蔵を助けたが、法明自身はどこにでも転がっているようなただの老いた坊主だ。特別な何かを持って生まれた覚えはなく、また、そうあったためしもない。卑下するでもなく、神仏や王族でない限り、大半の誰しもがそういうものだ。けれど、取るに足らない存在だったとしても、同じような立場の輩がいくらでもいたとしても、それでも法明という人間は法明しかいないことを、彼は知っていた。
観世音菩薩の声が蘇る。
『 』
あのとき、目の前ですり抜けて、落ちていった名前。法明には何も聞き取れなかった。
『あちらのお前は、そういう存在だ』
それでも、そう言われたときの玄奘三蔵と目を合わせてやれたなかったことを、顔を上げてやることができなかった自分を、法明は少なからず恥じ入っていた。
玄奘三蔵という存在は、この世界で唯一無二だ。
だからといい、あのすり抜けて落ち、すくいとれなかった名前が取るに足らないものというわけでは、ない。たとえ、三蔵のあちらでの存在が、いなくなっても世界が回るようなありふれた立場だったとしても、決して顔すら上げないで無視していいものではなかった。
あのとき、法明は、世界の秩序に抗わなかった。
抗えなかった。
玄奘三蔵という存在は、与える者でありながら、奪われゆく者であることを、与えられる側は与えられるに都合のよい形で目隠しをする。平和のため、秩序のため、世界のため、神仏の導きだから、特別な存在だから――きっと都合を与えたら切りがない。人は、奪っている自覚もなく、顔を上げないでいい理由を探し、弱い立場に隠れ、俯くことが得意だ。
「失礼致します。お茶をお運びしました」
廊下から、紫釉の声が襖を叩く。
「……っ!」
三蔵はぐすりと鼻を啜り、寝間着の袖で目を拭う。そんな三蔵を横目に入れつつも、法明は少し考えてから口を開いた。
「入りなさい」
紫釉を招き入れる。
「失礼します」
襖を開け、顔を上げた紫釉が、三蔵という存在が泣いているという事実に気付いて、一瞬、息を呑んだ。
「紫釉、茶をあと二人分追加じゃ。ついでに泰然を呼んできてくれんかのう」
法明がよっこいせと立ち上がりながら、紫釉に向かって白くふさふさの眉に覆われて見えない目を片方だけ瞑ったが、それがウィンクなのだと伝わりようがなかった。
「ほれ、行った行った」
戸惑う紫釉を手で払い、襖を閉める。気まずそうにする三蔵に向かって湯飲みを差し出しながら、法明は優しく微笑んだ。
「わしは泣くと喉が渇いて仕方がなくなるんですが、あなたはどうですかな」
「……頭がちょっとぼうっとします」
うんうんと法明が頷く。
「ちと一服しましょうか」