第八話 好きな味噌汁の具は。
法明は、明確な意思をもって三蔵と呼ばなかったことを、その柔らかな眼差しで伝えてくる。ただそれだけのことで、彼女は深く息を吸えた。
日が落ちて薄暗くなっていく室内に、ようやっと鈴虫の鳴く声が、ぽつ、と届いた。
「……はい、ありがとうございます」
固く揃えて折り曲げていた両足を崩せば、じんじんと痺れている。
「粗末な敷物しかなくて申し訳ないのう。質素倹約を心掛けておったら、この有り様よ。寺の者たちは慣れておるが、慣れていなければちと辛かろうな」
「いえ、ちょっと足が痺れてしまっただけで」
三蔵が笑って答えれば、法明も笑う。
「待たせてしまってすまなんだ。お腹も減りましょう。頂きましょうか」
法明は手を合わせ、箸を取る。
「ほう、今日はむかご飯か」
ぼんやりと炎に照らされている御膳を覗き込んだ法明が、入り口で控えている紫釉の方へと話の水を向ける。紫釉は一拍置いてから口を開いた。
「はい、珠芽とともに炊き込みました。他は、きのこの味噌汁、胡麻豆腐、根菜煮、梨となっております」
「なんと、わしの好きなものばかりじゃのう。しかして、芋は喉に詰まるかもしれん。茶を頼めるか。二人分ぞ」
「承知致しました」
言われて紫釉は一礼をして部屋から出て行く。
「…………」
二人のやりとりで、やっと目の前にある料理が三蔵の頭の中に浸透し出す。知っている料理がほとんどで、食べたことのないものはむかご飯というものくらいだった。
法明は、特に三蔵の様子を気にする風もなく、一口一口を味わうように口に運び、ゆっくりと噛んで飲み込んでいく。三蔵も、味噌汁の椀を取り、そっと口を付けた。
あたたかい。
ほう、と息を吐く。
むかご飯というものに箸を付けてみる。丸く大きめの豆だと思って口に入れたものは、豆ではなく芋に近い。
首を傾げながら食べていると「こちらの料理はお口に合いますかな」と法明から声が掛かる。
「あ、はい、おいしいです。この、ご飯に入ってるものはお芋ですか?」
「むかごと言ってのう。山芋の葉のつけ根に生ずる山芋の子どもみたいなものじゃ」
「へぇ」
「あなたのところにはないものですかな」
「ど、うでしょう。調べてみないと分からないです」
ここには調べられるものがひとつとしてないけれど。
思い出そうとしてみても、彼女が食べてきたものは、家の料理とスナック菓子とファーストフードやファミレス、給食で大体が構成されており、そこに出てきていないなら分からない。ファミレスに出てこないメニューなのは確かだ。家でもでなかった。
珍しげにむかご飯を口に運ぶ三蔵を見ながら、法明も食べる手を止めないまま言葉を放る。
「あなたは、これからいろいろなことを知り、学んでいくことが多いご年齢でしょうな」
食事ひとつ取っても、そうだ。
「そうなんですかね。まぁ、高校には入ったばかりだったし、テストもこれからだったし」
もしかしてここにいる間はテスト勉強しなくていいのかなと即物的なことを考え、また味噌汁に口を付ける。
「きのこの味噌汁っておいしいんですね。家ではあんまり出たことなかったな」
「わしはきのこが一番好きでのう。あなたは何が一番好きですかな」
「私は、味噌汁なら卵とニラのが好きで」
思い出せる。食卓の記憶がきちんとある。
「でも、弟があんまりニラ好きじゃないから、家では大根の味噌汁ばっか出るんですよね。だから」
顔も声もやりとりも思い出せる。
「だから……」
あの朝も文句を言った。他愛ないやり取りだ。
「ニラと卵の味噌汁が食べたいっていつもリクエストするんですけど」
名前を口にしたくても形にならなくて、息だけ吸い込んだ。
「……弟くんが嫌がるからねって」
なんだよ、弟くんって。そんな呼び方は、弟の名前を知らない同級生が、弟の話題をたまに彼女へと振るときにしか聞かない呼び方だ。
姉のことも話に出そうとして、言葉に詰まる。家では姉のことをいつも名前で呼んでいたから。
「兄弟がおられる?」
喉につかえた何かを法明の質問がすくいとる。
「姉と弟が一人ずつ、います」
「ほっほ、それは賑やかそうじゃのう」
「賑やかっていうか、うるさいというか」
「ほう?」
「弟は態度も図体もデカくて可愛くないし、姉はいちいち小うるさいし」
悪し様に言ってはいるが、浮かぶ表情からどこか拗ねている子どもの親愛が窺い知れる。
「お父さんもお母さんも仕事であんま家にいないから好き勝手してるんですよ」
口をとがらせながら、胡麻豆腐に箸を通す。豆腐の柔らかさと胡麻の風味が口の中に広がって美味しい。
「ご両親は何の仕事を?」
「軍とかそういう関係だって聞いた気がするんですけど、あんまり詳しくは分からなくて」
「あなたの世界にも争いごとがある」
法明が少しの驚きを乗せて口にすれば、彼女は自分が住んでいるところと授業やニュースで見聞きする部分とを混ぜ合わせて頭の中で首を傾げる。
「まぁ、けっこう」
実感としては薄い。
「それは、心配じゃろうな」
「そうです、ね」
社会情勢を心配するような学生ではなかったが、争いごとがなくなり平和になるに越したことはない。両親の仕事に関連してくるようだから、たまに心配はしていた。彼女の、世界に対する認識はそれくらいだ。
会話が途切れ、もくもくと箸を進める時が流れた。相変わらず、部屋は薄暗く、燭台の炎だけがゆらめく。むかごとともに炊き込まれたご飯の香りと、味噌や煮物の香りが漂う中で、鈴虫の鳴き声が素通りしていく。
用意された夕餉を食べ、腹が満たされていくと、渦巻いていた混乱がひとつずつ馴染んで頭が整理されていくようだった。
「……わからなくて」
箸を置き、ぽつりとこぼす。
考えれば考えるほど、こんなところにいる理由もなければ、玄奘三蔵などという大層なものになれる理由もないと理解できる。世界が変わろうと、名前を変えられようと、自分自身が変わっていないなら、存在の意義が換算されるわけもない。
世界を越えても、彼女は彼女のまま、すり抜けて落ちていき、時が経てば忘れられ、いたことにされる、そんな存在のままだ。
家に帰って、朝食べた大根の味噌汁を食べたい。
そして、ニラと卵の味噌汁を作ってとせがむことを許して欲しい。無下にされてもいい。もう一度、あの家で作ってと言えるなら。
「どうして、こんなことになっているか、わ、わからなくって」
聞きたいことがたくさんあったはずなのに、こぼれる言葉はそんなどうしようもないものだった。