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西遊異譚  作者: こいどり らく
第一章
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第六話 途方に暮れる。

 目の前で伏して希われる玄奘三蔵という存在となった彼女は、最悪だ、と理解できないものを前にして思う。

 気付けば、この部屋にいる三蔵以外の全ての者が平伏していた。

 最悪だ、ともう一度思う。

 歪んだ世界で生き続ける人間が人でなくなるという意味も分からなければ、神や仏が実体として存在していると言わんばかりの説明も彼女には受け入れがたい。

 観世音菩薩。そう、観世音菩薩というのは仏だというのは分かる。分かるが、仏なんて者は仏像でしか知らず、そして目前にいる観世音菩薩と名乗る輩は、仏像とは程遠い赤い髪に緑色の目を有している。

 どこまでが本当で、どこからが嘘なのか? 彼女には判断できない。

 まさしく彼女は赤子同然で、この世界に落とされたばかりの存在だ。

 西へ行けと言われても、西も東も分からない。

 無意識に、スマホを探す。鞄がなかったのなら、ここにはない。さらに意味もなく、部屋を見渡して、この部屋にはエアコンもなければ、時計もカレンダーもないのだと、今、気付かなくてもいいことに気付いて無性に落ち着かなくなる。

 冷たくなっていく指先を、無意識に握り締めた。

 どうすればいい?

 つっかえながら息を吸って飲み込む。

 いつの間にか、日の光で白く明るかった部屋に、どろりと橙色か流れ込んできていた。

 いち、に、さん、よん。

 徐々に徐々に夕陽の嵩が増していく部屋で、三蔵の前に頭を垂れたまま微動だにしない男が三人と仏が一人。この部屋の、三蔵以外は、それしかいない。

 誰も顔を上げず、誰も彼女を見はしない。

 誰か一人でも顔を上げて見れば、彼女がどうしようもなく途方に暮れているということが分かるのに、彼らはそれをしない。

 自分達が全てを了解している多数であるにも関わらず、そこに三蔵がたった一人で在ることに目を瞑る。

 玄奘三蔵。神仏すら縋る唯一の存在。

 ただ溺れて目覚めただけだというのに、どうすることもできない異質さが、孤立となって彼女という存在を塞いで殺す。

 三蔵は、ひっと引き攣りそうになった息を慌てて手で塞いだ。

 たった十五年、歳を数えただけの自分に何が出来るというのか、と彼女は思う。母や父の許可がなければ遠出すらままならなかった。施しは与えるものではなく、貰うものであったし、何かあったときどうすればいいかを聞く方だった。

 助けて欲しいと伏して願われても、その願いは、今の彼女にはまるで強制に等しく、選べる選択肢はないように思えた。

 彼らにとって彼女がそういう存在であるなら、彼女の救いはどこからもたらされるのか。三蔵となった彼女を助けてくれるのは誰なのか。

 分からなかった。

 いないのかもしれない。

 助けを求められないのなら、今、彼女に出来ることは、ほとんどないに等しかった。誰一人として取れる手がない彼らを前に、からからに乾いた唇をゆっくりと濡らしながら、三蔵は、早鐘を打つ心臓を何とか宥め、口を開いた。

「かっ、」

 声がひっくり返った。泣かないだけでせいいっぱいだと思った。

「考える時間を、ください」

 この状況で、その言葉を絞り出せた彼女は拍手を送られて然るべきだろう。


 





 陽が落ちていく。

 誰もいなくなった部屋の布団の上で、三蔵は膝を抱えて蹲る。

 考える時間をくれと言ったが、考えるための材料が圧倒的に足りていなかった。

 視線を伏せた端で、飲み水が入っていると思われる陶器と小さな湯飲みが枕元に置いてあるのが、やっと視界に入ってきた。ずっと置いてあったものにすら、今、気付けるような有り様で、どんな判断が出きるというのだろう。

 震える手で、湯飲みに水を入れる。

 そそがれていく水を覗き込む。

 透明だった。

 臭いを嗅ぐ。

 特に何の香りもしない。

 ひとくち口を付ける。

「……おいしい」

 どこかほのかに甘く感じた。今まで飲んだどんな水よりも美味しいように感じて、思わず口を押さえる。

「?」

 なぜ、こんなにおいしく感じるのだろうと三蔵は思ったが、何てことはない。彼女の現実感が全く伴っていないだけで、七日間、寝たきりで、飲まず食わずであったのは事実だからだ。そう思えないほど頭は明瞭で、体も動く。七日間伏していたと言われても現実感が伴わないのも当然と言えるくらい、不思議なほど邪魔にならない程度の不調しかない。

 それでも、湯飲みいっぱいに入れた水を飲み切ることは出来ず、喉を潤す程度を舐めて置いた。

 大きくため息を吐く。

 特に乱れてもいない寝間着を気を落ち着かせるために無闇に整え直し、途中で手を止めた。当たり前だが、溺れる前に身に付けていたものは全て取り替えられている。いわゆる肌襦袢というものを身に付けてはいたのだが、彼女が知っている下着ではなかったため、何も身に付けておらず、履いていない心持ちがした。身に付けているものは厚手で、寝間着もしっかりとした生地であり、問題があるわけでもない。それで問題が出る体型でもなかった。

 それでも、花も恥じらう十代の三蔵は、顔面を両手で押さえて布団に沈み込む。

 なんなんだ、ここは。

 小一時間くらい色んな葛藤を抱えていたが、最終的には、会った人たちが自分のことを『彼』と認識していたのを思い出し、立ち直る。

 何はともかく、誰かにこの世界とやらのことを聞かなければ。

 吹っ切るように立ち上がると、襖に寄る。そっと開けて廊下を覗くと、紫釉と呼ばれていたお坊さんが正座をして待機していた。

 その事実に、三蔵はひゅっと息を飲み込んだ。

 部屋から出てきた三蔵に気付くと、紫釉は座したまま床に三つ指をつき、深く頭を下げた。

「何かご用命がありましょうか、玄奘三蔵様」

 剃髪された肌色の形のいい後頭部が見える。

 大人の男の人からこんなにも恭しい対応を受けたことがない三蔵は、愕然としてその場に棒立ちになった。

 法明に会うことができたらと思っていた。法明なら丁寧に答えてくれるという確信があった。目覚めてから、彼女にうんと優しく接してくれたのは彼だけだ。

 この紫釉という人はとりつく島がないような感じがして、三蔵を盛大に気後れさせていた。どうすればいいか分からず、とりあえず、彼女自身も膝をついて、相手と相対する。ずっと突っ立って見ているのは居たたまれなかった。

「あの、法明さんとお話したいんですけど」

 おずと申し出る。

「法明様からも三蔵様のお心が落ち着いたら、呼んで参るよう仰せつかっております故、ご案内致します」

 紫釉が、間髪入れず答え、また一度頭を深く下げ、三蔵の用命を押し頂いた。

「よ、よろしくお願いします」

 三蔵は、釣られて、見よう見真似で彼と同じように頭を下げた。

 紫釉が顔を上げれば、目の前で紫釉と同じように身を低くして頭を下げている玄奘三蔵の姿が目に入ってきたものだから、彼は思わず固まった。

 長い、長い沈黙が落ちる。

 これくらいでいいかなと三蔵が下げていた頭を上げれば、固まったまま動かなくなった紫釉がいた。


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