第五話 玄奘三蔵
「なに、言ってるんですか?」
自分がそんな名前ではないことくらい彼女自身が一番わかっている。
「私は……」
言い掛けて、言葉を詰まらせる。訂正するための名前が分からないからだ。
違う名前を持っていると分かっているのに、言葉にすることができない。
鮮やかな赤髪の主は、途中で黙り込んだ相手を不思議そうに見ていたが、なぜ黙り込んだのか思い当たったという顔をすると口を開いた。
「お前の本来の名前なら、世界の境界を越えたとき、この世界が奪っていった」
至極当然と言わんばかりに言い放たれる。
「は?」
理解が、追い付かない。
そんなことあるわけがない。
法明と話しているときも彼女は思った。
『名前を盗られた』と訴えたとき、法明は『誰に盗られたか』と聞き返した。
そして、名前なんていうものは盗れるものではないと思い至ったからこそ、混乱した。
ならば、名前を奪うなんてことも出来るわけがない。
のに。
「お前の名は、奪われた」
美しい顔を美しい笑みに象り、その存在は花弁を思わせる唇に言葉を乗せる。
「あちらの世界にいるお前は『 』だが、こちらではお前の存在は『 』ではない。立つ世界が変われば存在が変わる。お前はその最たる者だ」
名前らしきものを口にしているだろうと分かった。分かったうえで、彼女は愕然とした。
その言葉を知っていることを解っているのに、一切が聞き取れない。
目を見開き言葉を失う三蔵に向かい、その存在はもう一度、呼んだ。
「 」
すり抜けて、落ちていく。
「あちらのお前は、そういう存在だ」
簡単に失われ、『いた』ことだけが残る。
「けれど、この世界に与えられたお前は違う」
燃えるような赤い髪と慈しみを湛えた緑の瞳とは裏腹に、冷めた声がすとんと落ちる。
「玄奘三蔵。天の道を説き、地の摂理を語り、あらゆる迷いから人を救う。外界から我らを手入れし、救済せし者」
しとやかな花以外に触れることのないような指先が、ついと三蔵の頬を撫ぜた。
「お前は、釈迦如来様の御名の元、この観世音菩薩に導かれし世の理たる救済者」
この世界に住まう者なら誰もが、彼らの名の意味するところを知っている。
「どうか助けてはくれないか」
拒否権を、始めから与えてなどいないくせに神仏は平然と人に問う。
「え、いや、なにそれ。笑っちゃうんですけど」
観世音菩薩に助けを請われ、彼女は、心底、引いた面持ちで渇いた笑いを漏らした。頭がおかしいと笑って済ませるには、溺れた記憶が、渦巻く感情が、欠落した名前が、逃げる道を塞いでいた。
三蔵を眺めながら、緑の目が慈しむように細められる。
「異質さを感じているはずだ」
読めたはずの文字が読めず、けれど、その文字を知っていることは覚えている。理解の出来る言葉で呼ばれているはずなのに、意識を素通りしていく名前。覚えているのに、知っているのに、記憶の端にすら掠らない。
「玄奘三蔵」
何度も呼ばれ、違う、という思いと、その名が自分を呼んでいるという息を吸うような理解が染み入る。彼女がいくら無理解であっても、そういうものだと受け入れてしまわざるを得ない異質さに頭を垂れさせられる。
「お前が、この世界に抗いたければ、取れる行動はたったひとつ」
抗えない。
「西方天竺国へゆけ」
玄奘三蔵という存在は、一歩大地を踏むごとに天の道を説き、二歩大地を踏むごとに地の摂理を語り、三歩大地を踏むごとにあらゆる迷いから人を救う。
「釈迦如来様が世界の歪みに囚われて五百年。ようやっと歪みに囚われない者を喚べたのだ。如来様を解放できれば、『玄奘三蔵』という摂理はお前から切り離され、お前は本来の名を取り戻し、帰りたい場所へ帰ることが出来るようになる」
呆然と話を聞いている彼女の目に宿るのは、混乱と理不尽だ。
「何もしないことを望むなら、それでも構わない。誰もお前を責めはしない」
この世界の誰もが、玄奘三蔵というものを救済者だと了解していながら、その存在が為すべきことを義務とは言わない。
産み落とされた赤子に対して、なぜ生まれたかと問うても意味がないように、目が開いたばかりの幼子に、なぜ何も知らないのかと問うても意味がないように、この世界に引き込まれ、何もかもを奪われる三蔵の意思にただ傅く。
「私は、この世界のことを何も知ることがないお前に、選択肢を並べるだけの存在だ」
法明や紫釉を平伏させたまま、何の疑問も生じさせないような存在がそう言う。
「帰るため幾年月掛けて天竺へゆき如来様を解放するか、何もせずにこの世界で暮らして死ぬか」
「その二つしかないの?」
「ない」
「今すぐ帰してよ」
彼女が、そうしないと簡単に失われ、『いた』ことだけが残るような、そんなちっぽけな存在だと分かっているなら。
帰りたい。忘れられる前に。失われてしまう前に。在ったことにされる前に。
「世界の歪みを正さない限り、それは無理だ」
「喚べたのに?」
「喚ぶことは、歪んでいたからこそ出来たこと。歪んでいなければ出来なかった」
なるべくしてこうなった、と言われているようだった。
不安と焦燥から、苛立たしげに相手を睨み付け、彼女は食い下がる。
「なんで私なの? 私は私自身が玄奘三蔵なんかじゃないって分かってる!」
「生まれた赤子が自分のことを赤子だと認識できないようなものだ」
「私は赤ちゃんじゃない!」
「例え話と分かっていて感情的に否定するのは、この現状を受け入れられないからか?」
踏み込まれて、三蔵は言葉を詰まらせた。
「ならば、それでいい」
「え」
「時間も、為されたことも、戻らない。目を瞑って抗った気でいるのも、違うことを為そうするのもお前の意思だ」
「それでいいの? それでいいのに私を呼んだの?」
「縋り願った摂理が、正すことを拒否するなら、我らは従うしかない」
頭を下げられる側の存在が、三蔵の前で膝をついて頭を垂れた。
「お前の望むがままとはいかないが、この歪んだ世界で生きていけるよう最大限の配慮をしよう。恵岸」
傍らの男に呼び掛け、話を終わらせようとする観世音菩薩を、彼女はたまらなくなって呼び止めた。
「待って、待ってよ」
本当は呼び止めたくなかった。それでも、呼び止めなければ意思は決定してしまう。
「仮に、歪みってやつを直せなかったとしてもこの世界は大丈夫ってこと? なら『玄奘三蔵』を喚んだ意味ってそもそもなに? それなら喚ばなくてよかったでしょ?」
自分に非がないことを一つ一つ確かめ、相手の非を、過ちを、並べて確認していく作業。お前のやったことが間違っているのだと確認する、自分を守るためだけに行う無意味な作業。
「歪みは、人に影響し、ひいては我ら神仏に影響する」
膝をついたまま三蔵を見上げ、観世音菩薩は憂いを帯びて笑む。
「しかし、世界は、人や神仏がいるから在るわけではない。ゆえに、歪みが正されなくても世界はなくなりはしない」
「なくならないなら、問題なくない?」
地球爆発とかそういうレベルの話ではないのかと三蔵は胸を撫で下ろした。私を呼ぶ意味はなかった。そう言ってやろうと口を開き掛けたところで、観世音菩薩の淡々とした説明が割り入る。
「歪んだ世界で生き続ける人間は、そのうち人ではなくなる。人が人として望む営みを失い、我ら神仏を認識できなくなる。認識されなくなった我らは、そこに在れど、いない存在となる」
神仏は信仰によって存在を定義される。
「なれど、世界はそこに在り続ける」
世界はそれでも困らない。困るのは、人として生きていきたいと願った者たち。
ただそれだけだ。
神仏は『ただそれだけ』を、決して見離しはしない。見離せない。
「玄奘三蔵」
だから、縋る。
何百年何千年と下界を見下ろしてきた存在が、三蔵を見上げて、只人のように伏して願う。