余話(4) 玄奘三蔵
長安洪福寺での三蔵の一日は、寺の坊主たちに混ざって雑巾がけをするところから始まる。
「おはようございます」
三蔵が身なりを整えて廊下へと出ると、水桶を持った紫釉と出くわした。桶の中の水は黒ずんでいる。
「おはようございます。掃除、終わっちゃいましたか?」
「いいえ、本堂とそこの廊下はこれからですよ。泰然はそちらにいます。私も水を入れ替えたら向かいますので」
「はーい」
世話になるからにはと紫釉も泰然もこの寺の誰よりも早く起きて別の場所を掃除してから本堂の掃除に入る。三蔵はやらなくてもいいと言われたが、本堂の掃除だけは参加するようにしていた。本当は二人と同じ時間に起きて同じことをやりたかったが、起きられずに諦めて二人に甘えた結果そうなった。
(二人が起きるときに一緒に起こしてって言ってるのに、絶対に本堂の掃除の時間に合わせて起こしにくるんだよね)
三蔵が意図して二人より早く起きられた試しは今までにない。観世音菩薩の眠りの加護は、眠りたいときに眠れるが、起きたいときに起きられるような目覚まし機能はなかった。
本堂の掃除の時間も早いので起こして貰うことの方が圧倒的に多かったが、どうにか自分で起きられることも増えていた。別に雑巾がけが好きなわけではないし、できることならやりたくないと思うが、掃除をしない三蔵を叱りもしなければ呆れもしない二人と顔を合わせたとき、気まずさを味わいたくなくてどうにか続けられている。紫釉も泰然も気にしないことは分かっているからこそ、やれることをさぼりたくなかった。
(あとこういうのでサボると「これだから玄奘三蔵は」って言う脳内夏瀾くんがログインしてくるの、癪すぎるし)
三蔵は凡庸かもしれないが、立場に甘えていないし、あぐらだって掻いていない。
(優しさに甘えてるとこはあるかもしんないけどさ)
それくらい許してくれたっていいじゃないか、こんな世界で。
どうにか脳内夏瀾を頭から追い出して、三蔵は廊下を早足で進んだ。
「三蔵様、おはようございます」
「おはようございます、三蔵様」
「おはようございます」
本堂へ歩いて行くと、洪福寺の坊主たちから次々へ挨拶の洗礼を受ける。
こんな大勢に挨拶をされるという経験がなかった三蔵は、初めは竦み上がり、挨拶だけで日が暮れるのではないかと思ったが、さすがにもう慣れた。
「おはよーございまーす」
一人一人に挨拶を返していたら切りがないので、できるだけ大きな声でまとめて答えながら通り過ぎていく。
(よし)
掃除の時間だ。
慣れた手付きで雑巾を水に濡らして絞る。手がじんわりと赤くなった。息を吹き掛けて温めたいと思うほどの冷たさではなかったが、涼しさが肌寒さに移ろう朝は、夏であれば気持ちいいと感じられる井戸水を、ずっと触れてはいたくない温度に変える。
(がんばろ)
ひとところに留まっていると足先もじわじわと冷えていくが、動き出せば忘れてしまう。
三蔵は、横並びになる坊主たちに混ざって雑巾がけを始めた。




