余話(3) 紫釉と三蔵
「落ち着いたら、お茶をどうぞ」
「……ありがとうございます」
泣きすぎて頭がぼんやりとする。
三蔵が泣き崩れたあと、この世界に来たばかりの時にそうしてくれたように、紫釉は手拭いと手盥を持ってきてくれた。泣いて腫れぼったくなった目に、濡れた手拭いを当てるとひんやりとして気持ちがよかった。
「…………」
徐々に熱が引いていくと、部屋でもないところで泣いてしまったのだと思い至って、気まずげに後ろを振り返った。廊下と部屋を区切る戸はきれいに開かれており、人の気配のないがらんとした間が広がっていた。
「まだ明るいうちですので、多くは出払っております。泰然もまだ戻ってきておりませんし」
三蔵の気まずさを察して、紫釉が言い添えた。様子を覗いていた小坊主もいたが、この手盥と手拭いはその小坊主が持ってきてくれたものだ。紫釉に渡したら、三蔵に気付かれる前に逃げるように去って行った。
「そっか……。なんか、ごめん。泣いちゃって、今さら」
「いえ」
三蔵はちらりと紫釉を見て、わずかに言い淀む素振りを見せたが、先ほどの紫釉の言葉を灯火として心内をほどいた。
「長安でやっとまとも?な生活を味わって、そしたら……そうするしかないって思ってやってきたことが、急に、なんでって思えちゃって」
手で綺麗な櫛を弄びながら、三蔵はこぼした。
「…………」
紫釉に返せる言葉はない。今まで本当によく弱音も吐かず、泣くこともなく歩んできてくれたと思う。
「あなたは、私どもを責めないのですね」
救世の旅を、右も左も分からなかった彼女に強制したようなものなのに。
紫釉に言われて、三蔵はほとんどむくれるように口を尖らせた。
「今なら責められるよ」
三蔵は紫釉を軽く睨み上げる。今まで隠したり、なかったことにすることが多かった不満を紫釉の前に差し出していた。
「我が儘も言えると思う」
安心できる相手だと分かったからこそ見せられる感情がある。見放されないと思えたから言えることがある。
「怖かったんだ。知ってる場所もなくて、戻れる場所もなくて」
三蔵の言葉に、紫釉は静かに耳を傾けた。
「私は、私がいたとこから、いなくなりたいって思ってたわけじゃない。帰れるっていうなら帰りたいし、だから死にたくないし、でも、どこかも分かんない山道は進んでいかなきゃならないし」
金山寺から長安までの旅は、竜の首が降る前までの旅順は、紫釉たちにとっては生きていく中でいくらでもあり得る道程だった。けれど、三蔵にとっては竜の首が降ってこなくても、常に身を脅かされ、不安と心細さがつきまとう恐ろしいものだった。人の気配がなく、代わりにあるものは獣の気配であり、何度も人が通り踏みしめることでやっと道が道となった跡を探して歩んでいく。少しでも日が翳れば足元すら危うくなる。
「ご飯少ないし、ずっと野ざらしで野宿だし、ご飯足りないし、トイレとか外でしなきゃなんないし、お風呂入れないし、全然、普通に辛い。やだった」
空腹以外のこともかなり三蔵の精神を摩耗させたが、それでもやはり、ひもじさは何よりも辛かった。初めの頃、紫釉たちが食事を用意してくれないと食べる物がないという状態であるにも関わらず、気軽にご飯を作ってと言い出せない関係性だった時期が一番辛かった。少しずつ自分から言い出せるようになって、食事を用意するのも手伝えるようになって、野草などの取り方や見分け方を教わるようになって、自分でもどうにかできるようになっていったが、それでも、好きなときに食べられるものでは当然ながらなかった。材料は限られているし、途中に店があるわけでもない。
一人で進んで行けるなどとは、到底思えなかった。
何にも縛られるものがないのに、逃げることができない状態なのだと思い知らされる度に目を逸らした。ここで一人にされたら、例え生き抜くことができたとしても、なし崩しでこの世界で生きることになるだけだと思えた。逃げ出すことは、出来なかった。不安で心細くて、色んな気持ちを飲み込んで紫釉と泰然に着いていくしかなかった。どこにでも行ける自由があるはずなのに、彼らに着いていく選択肢しかないことが、本当はずっと辛かった。
けれど、三蔵は、そのことは紫釉には言うまいと思った。
紫釉や泰然が信頼されるに足るように常に歩み寄ってくれていることを知っている。そこに嘘偽りがなかったことも、身に染みて分かっている。彼らを信用するしかない中で、それでも、紫釉も泰然も、三蔵の意思を誘導して決めつけず、何かをさせようとはしなかった
今も。ずっと。
三蔵は落としていた視線を上げた。口を挟むことなく、真剣な顔で三蔵の話を聞き、ただ傍にいる紫釉を見た。紫釉は、三蔵の視線に気付いて目が合うと、いつも控えめに目を逸らしてしまう。その見慣れた横顔を見つめ続けていると、観念したように紫釉の方から三蔵へと視線を合わせ直してくれる。
「何ですか」
「理想のお兄さんって、こんな感じなのかなって」
言われて、紫釉は驚いたように目を見開いた。
「兄、ですか」
「うん」
少しの間を置いて、紫釉は思わずという風に破顔した。
「……それは、いいですね」
三蔵が呆けるほどに彼は嬉しげに、優しく笑った。
それがいいと、紫釉は思った。
あまりにも他人であるがゆえに、愛欲を伴う恋慕に似た感情へと引き摺られてしまうこともあるが、彼女が紫釉を兄のように思えるのであれば、その形に応えられる自分がいいと掛け値なく紫釉には思えた。
玄奘三蔵の従者という肩書きでずっと傍にいられるのも、きっと息苦しかろう。
「私が貴女の兄であるなら、今まで叱れなかったことも叱れますね」
「えっ!? お、お手柔らかにお願いします」
「善処します」
「それ善処しないやつじゃない?」
「そんなことはないですよ」
紫釉は笑った。
彼女が求める信頼の形で彼女に寄り添える。こんな幸いなことがあろうか。




