余話(1) 玉瑛と夏瀾
玄奘三蔵が旅立ったあと、長安は竜の恩恵により、市場はより一層の賑わいを見せていた。市場が賑わえば、都全体も活気づくというものだ。
そんな市井を眩しげに眺めて過ごす玉瑛の横で、夏瀾がぽつりと呟いた。
「恨み言はないのか」
唐突な言葉に、玉瑛はぱちりと瞬きをした。
「何に対して?」
「お前を死なせてしまったことに対して」
目を合わさずにそう言う夏瀾を、玉瑛はまじまじと見つめた。
「……お前を死に追いやったのは私たちの眷属だった」
「でも、わたくしを死に追いやったのは貴方ではないわ」
その答えに、夏瀾が顔を上げた。目の前には、健やかな顔色の玉瑛がいる。今日は体調がよく、だから外に出て市井を見に来ていた。
「私は、お前を置いていった」
それは、夏瀾自身が後悔だと知覚していない吐露だった。
玉瑛は微笑んだ。
「わたくしは置いて行かれたと思わなかったもの。夏瀾と兄様が難を逃れ、どうにか守ることが出来たのだとほっとしたところまでしか覚えていないの」
河竜王に起こされて目が覚めたときには、もう全てが終わっていた。
「貴方たちが無事で、長安が活気に満ちてよかった。わたくしが生きてても仕方がなかったもの」
その言葉のどこかに、少しでも虚勢があったならどんなにかよかったろう。夏瀾は、自分の吐息が震えていることを自覚した。
「……なぁ、玉瑛は生きることを諦めていたのか?」
悲しみに満ちた不安げな問いに、玉瑛が虚を突かれたように夏瀾を見た。
「お前は、四十九日の別れの時間を貰ってから、まるで悔いがないように振る舞う」
何故だか分からないが、それが夏瀾にはひどく耐え難く思えた。
「そうではないの、夏瀾」
玉瑛が慌てて夏瀾と視線を合わせた。けれど、その後の言葉を続けることが出来なかった。死にたくなかったと言葉にしてしまったら、誰かを傷つけてしまいそうで怖かった。もうどうにもならないものに縋り惜しんで、誰でもいいから責め立ててしまいそうで怖かった。
「夏瀾、わたくしは弱い。貴方の気持ちよりも、自分の体裁を優先してしまうくらいには」
夏瀾には分からなかった。
「ままならぬ体で生きるお前が、弱い者であるものか」
それでも胸に蟠っている怒りを飲み込んで、夏瀾は、玉瑛に受け取って欲しい言葉を探し、選んだ。
「私たちを守ろうとしてくれたその強さを、認めないものがいようか」
己の命を賭してまで守りたいと思ってくれたこと、そしてそれが為されたこと。
「でも」
けれど、それでも、どうしてこんなことになったと叫び出したいのは何故なのか。
「強さは、死でもって示すものではないと今まで教え続けてくれたのは、お前だ」
もう取り戻せないからこそ責めはしまいと、後悔を抱かせまいと苦慮しながら、それでも夏瀾は、玉瑛に死んで欲しくなかったことを伝えたかった。死にたくなかったと言って欲しかった。
「夏瀾」
そっと玉瑛の手が、夏瀾の肩に触れた。
「わたくしが持てる武器は心だけだったんですもの」
自分を大切に思う一心で選ばれた言葉のひとつひとつが、項垂れる姿を見せたら憐れまれることしかないが故に俯けずにいた玉瑛を、束の間、寄り掛からせた。
玉瑛の額が押し付けられる夏瀾の肩に、温かな涙がじわりと染み込んで広がる。
「抗えるものも、自由になるものも、それしかなかった」
それ以外は、自分の意思でどうにもならず、自由にはならなかった。
「兄様なら違ったのかしら」
体が強かったなら、元より狙われ、原因となることもなかったろうか。
「……私は、心がどんなものか分からないが」
夏瀾は、前を向いたまま口を開いた。
「太宗は、お前と正反対のことを言っていたぞ。一番自由にならないのも、抗うことが難しいのも、心だと」
だから、妹の玉瑛は強いのだとも。
「ふふ、兄様らしい」
笑う玉瑛の吐息は温かい。
「心がどんなものか分からないが、私にも分かることはある」
玉瑛、と名を呼ばれ、彼女は涙に濡れた頬をそのままに顔を上げた。
「お前の心は武器などではない」
幼い頃のように袖で涙を拭われながら、玉瑛はまたひとつ涙を流した。切りがない。
「そう例えさせるしかないのなら、お前の心をそのように扱わせるこの世こそがろくでもないのだ」
言い切る夏瀾に、玉瑛は大きく目を見開いた。涙が、ぽろりとまたこぼれた。
「貴方にそう言わせるほどならば」
そうして、花が咲くように玉瑛が笑った。
「だから、三蔵様が導かれたのね」
三蔵の名前で涙を拭って笑う玉瑛に、そんなわけがあるはずがないと吐き捨てそうになった苛立ちを夏瀾は押し潰して、玉瑛の笑顔に応えた。




