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西遊異譚  作者: こいどり らく
第二章
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第四十五話 長安の都(三)



 明くる日、三蔵たちは太宗に許しを得て、長安を発つことにした。盛大なお見送りをと意気込んだ魏徴を宥め、世話になった者たちに挨拶をし、ひっそりと出て行くよう取り計らって貰う。

「今日は、出立の吉日である。長安より出てから先は、供が僧二人だけでは心細かろうと太宗様が、身を守るための従者を一人付けてはどうかと提案なさった。腕の立つ劉全(りゅうぜん)を付ける。よくよく貴方様を守るよう言いつけてある故、使ってやってくれ」

魏徴から、これが新しい装備だと言わんばかりにぽんと渡されたのは、紫釉たちと同い年くらいに見えるよく鍛えられた青年だった。率直な感想を言うならば、確かに頼もしいと思ってしまう。皇帝の命を受け、旅支度は万全に整えた誇らしげな青年は、三蔵たちとともに出立する気満々である。

(こういうところ、こういうところなんだよなぁ)

 三蔵が、皇帝の出鱈目さを実感するときは、こういう時だった。

「三蔵様」

 玉瑛が見送りに来てくれていた。

「わたくしは、三蔵様が貴方でよかったと心から思っております。長安に来て下さってありがとう」

 玉瑛が涙ぐんで、三蔵の手を握った。

「どうかお元気で」

「玉瑛さんも」

 日の光を受けて笑う玉瑛は美しく、三蔵は彼女のこれからが幸せなものであればいいと思った。




◆◆◆




太宗は駕を整えて、三蔵たちを家臣とともに関所の外まで送った。長安まで三蔵たちと旅をしてきた馬は、これからの道には耐えられないだろうと新たに長旅の乗用として白馬を一頭用意し、彼らの旅支度を整えさせてやる。

「玄奘三蔵よ」

 簾をあげさせて、太宗が顔を見せる。   

「そなたの旅路の成功を心から願う」

 太宗は、三蔵に語りかけた。

「ならざるを得なかった者に選択肢はない。どうにか応じるためにこじ開けた道を歩んだ先で、なるべくしてなったと嘆ぜられる」

それは太宗自身が感じてきたことであろうか。

『適当に引き当てられた者同士、苦労をするな』いつの時にか、太宗が三蔵にちらりとこぼしたことがある。

「歳月は久しく、道は遠かろう。もし道に惑ったら、長安に帰っておいで」

 異なる場所から訪れしひと。ここが貴女の郷里となる。

 三蔵は太宗に礼を言い、別れの挨拶をすると長安を旅立った。

 空高く、河竜王が姿を現して民を騒がせたが、夏瀾はついぞ姿を現さなかった。




◆◆◆



 三蔵が出立した日、夏瀾は宮城の一角、玉瑛に与えられた敷地に引きこもっていた。決して暗くはないが、ひっそりと静かで、いつも決まった使用人と医者ばかりが出入りする場所だった。

「見送りに行かなくてよかったの?」

「興味がない」

 玉瑛が戻ってくると、気に入りの香を焚いてやる。身を清め、寝台に力なく横たわった玉瑛が掠れ声で囁いた。

「どうせなら体も強くしてくれればよかったのに」

「生まれ変わらせたわけではありませんから」

「そうね」

 そうだったわね、と玉瑛が笑って夏瀾を見た。

 人の殻を得て十三年と少し経つ夏瀾は、病弱ゆえにあまり外に出ることのなかった玉瑛の話し相手として姉弟のように過ごしてきた。実の兄であるも年が離れ、皇帝として暇がない太宗より、よっぽど兄弟のようだと言われたこともある。同じ年の娘たちと比べると育ちが遅く幼く映る玉瑛だが、どうにか今年で十九の齢を重ねることができた。

「夏瀾は、王様をやめたから河のお魚がなくなる心配はもうしなくてよくなった?」

「おい、お前が生まれてもいない時の話でいつまでもからかうな」

 このやり取りも何度したか分からない。夏瀾は、時に弟であり、兄であり、老成した年寄りであり、ただの子どもでもある竜の抜け殻だった。元河竜王の抜け殻は、太宗の周りの人間たちによくよく付き合ってくれる。

「……最後までよろしくね」

 言葉は、途中で意識を失うように寝息に変わった。夏瀾は、用意された桶に手拭いを浸し、よく絞ってから玉瑛の額に浮いた汗を丁寧に拭いてやる。乱れた前髪を優しく梳いて整えると踵を返した。

「あとは任せた」

 控えていた世話役に一声掛けて、夏瀾は外へと出た。いつもなら早足でさっさと太宗のところへ戻ってしまうところだったが、今はのろのろと足取りが重い。

 七七四十九日。

 三蔵が洪福寺へと身を寄せたあと、河竜王は太宗にそう告げた。業竜の魂がなくなった彼女の身体は、空のままだった。玉瑛は、長安が夢となる前に命を削り、皇帝である兄のために抗った。夢が現になることはないが、現も夢となって消えることがない。故に、現で死んだ玉瑛に立ち消える夢はなく、ひとえに御仏の慈悲によって別れを惜しむ時を束の間与えられた。本来なら住処の大河へ戻った河竜王の傍を離れられない条件があったが、竜の抜け殻の夏瀾を介せば、こと長安の中においては自由な行動を許された。

 たった四十九日の憐れみだ。

けれど、彼女はその日々を生きた。




◆◆◆




 玉瑛の葬儀はしめやかに行われた。

 玄奘三蔵が何も知らないまま、長安を旅立ったあとである。天命によって与えられ、天命によって奪われる。竜王であった頃、夏瀾にとってそれらは河の流れのように至極当然なものであった。人の運命が理不尽だと感じたこともない。だが、玉瑛がいなくなって、初めて人の死に不条理さを感じた。理由を探して、納得の出来る理由がないことに愕然とした。ただ体が弱く、ただ太宗の妹であった。なぜ玉瑛が死ななければならなかった。なぜ太宗の妹が死ななければならなかった。なぜ。

 竜でありながら人の心を貰い受けた夏瀾は、この苦しさを受け止め切れなかった。

 どうして。なぜ。

 原因は?

 自問して閃いた。

(玄奘三蔵だ)

 それは、ひとすじの救いに似ていた。

 いつもいつも玄奘三蔵は何も分かっていなかった。夏瀾はずっと怒っていた。救いのための遣いであるはずの玄奘三蔵が長安に現われなかったことにも、それで玉瑛が眷属に命を奪われるはめになったことにも、ずっと怒っていた。初めから太宗が選ばれていれば、こんなことにはならなかった。太宗より劣るあれが、なぜ。何一つ役に立てていないのに、なぜ。異なる世界というだけで、なぜ選ぶこともできない我らに強いる。

 気付いたときには、夏瀾は太宗に腕を掴まれていた。

「何処に行こうという、夏瀾」

「玄奘三蔵を連れ戻しに」

「お前の足で追い付けるわけがない」

「竜になれば」

「私が許すと思うか?」

「なぜ、許してくれないのですか」

「連れ戻して、どうしようというのだ」

「責任を取らせる」

「何の責任だ」

「玉瑛が死んだ責任だ!」

 夏瀾の叫びは悲鳴に似ていた。

「神仏は何故あのように弱く、力のない者を救いの標として差し出したのか!」

 ずっとそうだ。出会ってから、ずっとそうだった。縋るには足りない。救われたいのに、助けなければならない。太宗に腕を捕まれたまま、夏瀾は、何度目か分からない込み上げる悔しさに息を詰まらせた。

 彼にとって、三蔵を憎むということは、天にいる御仏を憎むことと似ていた。

「長安に現われることもせず、太宗を蔑ろにして、玉瑛を死に追いやり、あのような存在が施しとして寄越される。これではまるで天が我らを見放しているようではないかっ!」

 溺れる者は藁をも掴む。縋っても無意味なものを掴まされたなら、塵芥(ちりあくた)にならぬよう、こちらが頭を捻ってどう使うか考えてやるしかない。そうだろう?

 夏瀾が言うは、すべて逆さまの因果だ。だが、天に口はない。

「夏瀾よ。玄奘三蔵は神仏ではない」

 太宗は、けれど、その慟哭を知っていた。それが救われる側の傲慢であることも知っていた。只人であった太宗が皇帝になったように、只人である玄奘三蔵が救いの主となる。救いを望む側はいつでも理想の救済しか受け取りたくないと嘆くが、救う側はいつだって差し伸べるための手を作るのに精一杯であることを知りはしない。

「私も一度、御仏を疑い信じなかった」

 化生寺に閉じこもるしかなかったとき、己の無力を天への不信へと変えた。

「それでも、玄奘三蔵は我らの元に現われた」

 それは奇跡と言えるのではないか。弱く力がなくとも、天は彼女を奪わなかった。責めるばかりで救いを求める自分たちを突き放すことなく、ここに在った。

「それが全てなのだ、夏瀾」

 信じる者は救われると人は言うが、信じていなくとも神仏は時に人に道を示す。

「でも、玉瑛は助からなかった」

ぽつと浮き彫りになる思いがあふれて夏瀾の瞳から涙となってこぼれて落ちた。

「私がお前たちの傍にいたのに。この長安にいたのに」

 人間気取りと言われた意味が、今ならわかる。真実、己が人間とは違う存在でありながら、人のように振る舞うこと。竜の抜け殻たる事実は覆ることがないのにも関わらず、人の身である限界を知ろうともせず、感覚だけ人の子であるような振る舞いをし続けていた。だから見誤った。

『己の立場に胡坐を掻いて、甘えるだけ甘え、自分からは何もしない手合いですよ、あれは』

 三蔵を評した言葉だったが、それは自分のことでもあったのだ。

「私は、太宗の竜なのに」

 魂を貰った抜け殻は、人の子どものように泣いた。怒りではなく、悲しみで泣いた。戻らない玉瑛の命が、悲しくて悲しくて泣いた。

 夏瀾の涙は水晶になることなく、ひとえに玉瑛を悼み、宿る心を慰めるためだけに頬を濡らした。



<第一部完結> ここまで読んでくださってありがとうございました。来年から二部完結を目指します!

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