第四十四話 長安の都(二)
三日後、約束通りに玉瑛たちは三蔵を迎えに来た。泰然と紫釉も一緒にどうかと誘われたが、さすがに辞退して三蔵たちを見送った。
市場に卸すと言っても、皇帝主催の競りである。特別な見物席が用意され、競りに参加する者たちも、競り落とした部位を証明した経路で流通させることを誓約した商人たちだけが選ばれてここにいる。だが、熱量は凄まじかった。始まる前から異様な緊張が場を満たしていた。場の空気に飲まれそうになる代わりに、生唾を飲んで躱し、客席も参加者たちも始まりを待っていた。
太宗が業竜の首を競りに出すと言った時、業に落ちた竜の首など、誰が欲しがるものかと言い放った家門の者がいるという。その噂話は、耳の早い商人たちの間に広まりきっていた。そして、彼らはすでにその家門を調べ終えている。
お待ちになっていてください節穴の目を持つ貴方様、お邪魔する我らが行商をご贔屓に。あ、それお目が高い。そちらだぁれも目を付けなかっ希有な一品。さすがさすがお目が高い。節穴の目を持つ金持ちなど、商人にとっては鵜飼いの鵜のようなものだ。
清められれば落ちたことになる竜の業など、商人の性に比べれば綺麗だろう。
まかり間違って競りに負けることがあろうと彼らはただでは起きはしない。生涯でお目に掛かれるかないかの竜の首、有り難や。裸一貫になろうとも競り落としてみせる。
「……す、ごかったですね」
「わ、わたくし、途中で恐ろしくなってしまいました」
業竜の競りは盛況を極めた。
本当にその額を?
身代を潰す気か!
初めは固唾を呑んで見守っていた観客側も最後には、支援者が客席からぶち切れるわ、野次は飛び交うわ、混沌を極めた。
三蔵は、玉瑛と手に手を取って震えながらお互いを励まし合い、競りの最中、思わずこの世界に喚ばれた理由を振り返った。
人間が一番怖いとはよく言ったものである。
「勉強に、なりました」
しみじみと呟くしかなかった。
◆◆◆
その後、市場を回らないかと誘われたが、三蔵は一文無しなので、これ以上世話になるのも忍びないと思い、競りを見終わったら洪福寺まで送って貰って別れた。帰り際、またも梁隆から竜の髭飴を貰った。竜の髭飴は普通の菓子に比べて日持ちがするらしく、いつ旅に出るか分からない三蔵にもあげやすいのだろう。たぶんだが、子どもに菓子を持たせるような感覚なのではないだろうか。梁隆は結婚して妻子がいる。ひとり娘の父親で、三蔵と同じ歳の頃だと聞いた。猫かわいがりしているエピソードをすでに何個か聞かされている。
「あとよろしければこれを。私の娘からでございます」
菓子ともう一つ、手の平くらいの大きさの箱を渡された。
「え、でも」
「どうしても三蔵様にと。もし失礼がありましたら、それは全て私の責任であります故、どうかお許し頂きたく」
それでは、と梁隆は三蔵に渡して戻っていった。洪福寺の入り口で、思わぬ土産を持たされて三蔵は、戸惑いつつも姿が見えなくなるまで彼らを見送った。
(なんだろ)
嬉しいは嬉しいのだ。
特に菓子が貰えた日は、三蔵は一等うれしくなった。
(また紫釉さんと泰然さんにあげよう)
ずっと世話になっている二人に、何かをあげることができるのが嬉しかった。
「あ、紫釉さん」
洪福寺に戻ると、ちょうど紫釉が廊下を歩いていた。
「お戻りになっていたのですね、三蔵様」
玉瑛たちと市場も回ってくるだろうと思っていた。予想よりも早い帰りに、通り掛けの紫釉が驚いて足を止めた。
「うん、なんか疲れちゃったし、戻ってきました」
「お茶でもお淹れしましょうか?」
「うーん……、うん! 欲しいかも! 紫釉さんも一緒に付き合ってくれますか?」
「ちょうど用事の区切りが付いたところです。いいですよ」
「やった。じゃあ、あっちの縁側で待ってますね」
「分かりました」
紫釉と反対方向の廊下を進んで、庭に面した縁側に腰下ろした。
途中、すれ違った泰然に声を掛けたが、これから使いに出るところであった。龍の髭飴を一つあげて、労って別れた。食べさせようとしたら、さらりと回避されたので、紫釉にはいいが泰然自身には駄目なのかと判断基準の難しさに三蔵は腕を組んで少し唸った。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
茶を置くと、一人分の間を開けて、紫釉が姿勢を正して座った。
「競り市はどうでしたか?」
「……すごかった」
業竜の競りを思い出すと、三蔵の語彙が溶けた。
「楽しめたようなら何よりです」
「ちょっと怖かった」
へへと笑う三蔵に、紫釉は目を細めた。
「どう怖かったのですか」
「なんかすごい野次飛んだりしたし、あと……」
三蔵は言葉をどうにか探して答えた。
「底が見えなくて」
欲にきりなし、地獄に底なしとはよく言ったものだ。
「怖いと思うくらいが丁度いいのではないですか」
「そうかもしれません」
三蔵は、ずずと温かな茶を啜った。
「あ、そうだ、梁隆さんからまたお菓子貰ったんでした」
「龍の髭飴ですか?」
紫釉がわずかに身構えた。
「そうですそうです。お茶請けにしましょう」
「小皿を持ってきます」
紙の上に出せばいいと思っていたが、紫釉は止める間もなく取りに行ってしまった。まぁ、いいかと、待っている間に、もうひとつ梁隆の娘から貰った箱を膝の上に置いた。梁隆からたまに話を漏れ聞くが、彼の娘と面識があるわけでも、名を知っているわけでもない。
(ほんと、なんだろ。お菓子かな)
箱を開けると、ふわりと甘い匂いが香った。けれど、それは菓子の香りではなく、香の匂いだった。中には、一通の手紙と、花と蝶の刺繍が施された濃藍の入れ物に仕舞われた、蓮の花が彫られた半月型のつげ櫛が入っていた。
「…………」
三蔵は、しばらくの間、櫛を手に持って呆けた。艶々とした木製の櫛は美しく、自分の、手入れなど出来ていない荒れた指でその櫛に恐る恐る触れた。櫛が仕舞われていた入れ物をゆっくりと撫でると荒れた指にわずかに引っ掛かる。それでも、蝶と花が刺してある布の美しさは損なわれなかった。
入っていた手紙を開ける。こちらの世界の文字を、三蔵は書けない。習ったことなどないからだ。けれど、読めた。読み方など習っていないのに。
手紙を持つ手が震えた。
梁隆の娘の名は、林杏というらしい。梁隆から、玄奘三蔵が自分と同じ年頃の娘だと聞いてしまった。全ては娘の自分が軽率であるが故のことだから、責は父親ではなく林杏にあるという趣旨のことが初めに書かれていた。
似たもの親子だなと三蔵は少し笑った。
身一つで全てを抛ち救世の旅をしている方に、何か感謝を示せる物を渡せないかずっと考えていた。自分と同じ年頃の娘と聞き、ならば、旅路の邪魔にならない櫛はどうかと思ったことなどが人柄の分かる文体で簡潔に認められている。
会ったこともない玄奘三蔵を思って贈られたそれを眺め、三蔵はどうしたらいいか分からなくなった。
「すみません、お待たせしました。ちょうどよい小皿を探すのに手間取りました」
小皿を持って紫釉が戻ってきた。だが、まるで置物のように膝の上にある櫛を見つめて微動だにしないでいる三蔵に、紫釉は目を瞬かせた。
「三蔵様? どうか致しましたか」
先ほどまで一人分の間を開けていた距離を詰めて、紫釉は三蔵を覗き込んだ。
「……あ、えっと」
ほた、と涙が頬を伝った。ほたほたと頬を流れる涙は温かかった。
紫釉が目をまん丸にして驚いている。それはそうだろう。いきなり泣かれれば誰だってびっくりする。三蔵も自分にびっくりしている。泣きたいような気持ちなど、自分でも感じることができなかった。
「櫛、もらって」
止めることの出来ない涙を拭いながら、三蔵はどうにか笑った。
「すごく綺麗で」
ひさびさに触れた、と思った。
身嗜みを整えるための、あちらにいたときは常に三蔵の身近にあった小物だ。髪を短くしていたが、コームは持っていた。あの子に貰った。覚えている。
「でも、私、手とか荒れてるなって」
どうでもいいことだ、と三蔵は思った。旅の中でどうでもいいことになっていった。いつも使っていたハンドクリームだって、ニベアで、冬限定パッケージがちょっと可愛いくらいで、特別な物を使っていたわけではない。
どうでもいいことだ。
髪のセットだって鏡の一つすらなくて。そんなことを言っても仕方がない。どうでもよくなるくらいそうやって過ごしている。
この気持ちはなんだろう、と三蔵は丸くなるように抱えた自分の膝に顔を埋めながら思った。
(旅に出たくない)
矛盾した思いは、本心だった。
「……帰りたい」
絞り出されるように、こぼれて落ちた。旅の辛さをただ嫌だと思った。それだけの話だった。それだけの話なのだ。
「……っ」
紫釉の前で言ってはいけないことを言ってしまったと思って、三蔵は震える息を吸い込んで笑おうとした。紫釉の手が三蔵の荒れた小さな手を包み込んだ。三蔵よりも荒れている。
「あなたの心を飲み込まないで下さい」
声が、三蔵の涙を拭うように届く。
「私は、あなたを助けることも、望みを叶えることもできませんが、あなたの言葉を聞くことができます」
恐る恐る顔を上げる三蔵と、紫釉は真正面から目を合わせようとした。
「あなたが、いなくならないように」
三蔵は、視線を逸らして口元を歪めるように笑った。
「私がいなくなったら、救われなくなっちゃうから?」
「いいえ」
紫釉の手の下で、三蔵の手がぴくりと動いた。
「あなたがこの世界を救わなくとも、私はあなたが帰ることができるよう供に旅をしたいと思う」
叶えたいと思う。己の世界の救いになるからではなく、彼女の救いになるからだ。
「あなたの名前を呼ぶことが出来なくても」
そこで初めて、紫釉が今口にする『あなた』が玄奘三蔵を指しているわけではないことを理解して、三蔵は、目を見開いて紫釉を見た。誠実な眼差しを受け止めて、三蔵は紫釉の手を握り締めた。じわりと温かさが手の平に広がる。彼女は、誰からも当然と求められることで誰にも言えない思いを、それでも吐き出すように、紫釉の傍で声を押し殺して泣いた。報われることを救いと呼ぶのなら、きっと今がそうなのだと紫釉は思えた。必要とするときに、傍にいることが出来てよかった。
彼女に、助けの手を届けることが出来たのだ。




