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西遊異譚  作者: こいどり らく
第二章
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第四十三話 洪福寺


 三蔵は、洪福寺で掃除の手伝いや、写経などに混ざりながら一日を過ごし、夕飯を食べ終えたあと、紫釉と泰然の部屋を訪ねた。

 泰然がお茶を持ってきますねと出て行くと、三蔵は紫釉の近くに座った。

「紫釉さん、具合はどうですか?」

「おかげさまでほとんど回復しました。明日には動けます」

 いつも隙がなく硬い表情の紫釉だが、病み上がりの今は大分柔らかな――弱々しいといった方がいいのだろうが――物腰だった。

「玉瑛さん達からもらった薬、煎じて飲みましたか?」

「……もちろんです。あのような身に余る物を頂き恐悦至極に存じますとお伝え下さい」

 紫釉がこれ以上なく、滑らかに答えるので、三蔵は逆に訝しんだ。これでも数ヶ月飽きることなく顔を付き合わせているのだ。紫釉は嘘を吐くことがほとんどないから疑うところまでいけないが、違和感を覚えることくらいできる。

「ほんとに飲みました?」

「もちろんです」

 目をしっかりと合わせて頷かれた。三蔵は、うーんと思うものの、引き下がった。わざわざ嘘を吐く理由がない。紫釉の体調が回復しているのは確かで、それだけでも十分だと三蔵は自分を納得させた。

 ちなみに、貰った薬は、もうほとんど回復している自分ごときにあんな高価な物を使えるわけがないと頑なに固辞した紫釉と、えっ、これ僕らが使っていい代物じゃないよね? と軽く恐慌状態に陥った泰然は、この薬は、ここ一番のときに三蔵様のお役に立てようという意見の一致により、旅の荷物の奥底に大事に保管されている。他愛ないといえば他愛ないかもしれないが、紫釉も泰然も、三蔵が思うより人並みに隠し事をするのである。

「それよりも、私のせいで本来より長く逗留させてしまい、申し訳ありませんでした」

「それ。紫釉さんが元気になってくれればいいですって何度言わせるんですか?」

 もう、と三蔵は笑って眉を下げた。

「……もうしわけありません」

 釣られるように紫釉も眉を下げて笑った。己の不甲斐なさを拭えないながらも、面映ゆい心持ちになって、紫釉は、三蔵から顔を逸らして手元に視線を落とした。

 あのとき、三蔵が河竜王に連れて行かれ、どうすることもできない中で長安の夜が明け、気付けば紫釉と泰然は、初めに竜の首が降ってきた河原にいた。三蔵がいないままであることに二人は青ざめたが、馬も荷物も、自分たちの状態も、竜の首が降ってくる前に戻っていた。

 竜の夢は人の現に非ず。

 けれど、三蔵だけは理の外にいた。

 その事実に、紫釉は愕然とした。長安明徳門の前で三蔵は矢を胸に射られたが、御仏から与えられた袈裟によって守られた。けれど、もし、あの時、御仏の旅装束を手に入れることが出来ていなかったら? ただの袈裟を身に付けていたら? 紫釉たちであれば夢となったはずの出来事は、三蔵には戻ることのない現実となって降り掛かったということだ。それとも、御仏の加護で事なきを得たのだろうか。どちらにしろ過信することはできない。手遅れになってからではどうしようもないのだ。自分たちとは違う理を持つということを知っていたはずなのに、伴いたくない実感を伴って目の前に突き出され、紫釉は恐ろしくなった。

 迎えに行かなくては。

 河竜王に連れて行かれるとき、三蔵は紫釉たちに助けを求めた。求めてくれた。

 紫釉と泰然は決然と長安に向かう最短の道を選んで歩んだ。泰然だけ先に馬で長安へと打診もしたが、泰然は想像以上に紫釉を置き去りにした出来事が堪えており、驚くほど怒られた。夢であっても、傷は負う。言い争いに時間を割くより進もうと、化生寺でもう一頭馬を借りる算段を付け、寄ったところで、長安から迎えが来ていた。三蔵と再会を果たし、安堵した紫釉は、気力で保っていたものが途切れ、業竜の夢で味わった地獄の影響がそのまま高熱となって吹き出し、寝込んでしまった。何も出来ないばかりか、旅立ちの足まで引っ張り、不甲斐なさに何度打ちのめされたか分からない。

 けれど、三蔵はそれでいいと言う。

 三蔵は、長安で紫釉たちを待っていたとき、皇帝から代わりの新しい従者を付ける提案をされたらしいが、それを断ったと聞く。

『代わりになれる者などいないのだそうだ』

 皇帝に直接会えはしないが、夏瀾がそう伝えに来た。愚かな判断だと言いそうだと思ったが、存外、理解を示して紫釉たちを受け入れた。

「泰然です。入りますね」

 障子戸の向こうから聞こえてきた泰然の声に、紫釉ははっとして顔をあげた。三蔵が立ち上がって戸を開け、礼を言いながら盆を持った泰然が入ってくる。

「ありがとうございます」

「いえ、お茶持ってきてくれて、ありがとうございます」

「紫釉、元気になったでしょう?」

「はい、安心しました」

「一応、大事を取って明日もう一日休ませたいところなんですが……」

 ちらと泰然が視線をやると、紫釉ははっきりと首を横に振った。

「必要ない。逆に体が怠けてだるくなる」

「こう言っているので、好きにさせてやって貰ってもいいですか?」

 苦笑する泰然に、三蔵も思わず笑った。

「いいですよ。紫釉さんこういうとき梃子でも譲らないですもんね」

 最近では、相手が三蔵であっても譲らなくなってきた。いい意味で打ち解けているのだろう。

「問題ないから、大丈夫と言っているだけです」

「はいはい、これお茶ね。あと李定(りてい)和尚が煎じてくださった煎じ薬」

 李定とは、洪福寺の和尚のことである。何かと世話を焼き、取り計らってくれた。

「もういらないと言ったはず……」

「これは、ちゃんと、飲んで、ね? 最後だから」

 有無を言わさぬ泰然の笑顔に、紫釉はぐっと口をへの字に曲げたものの、素直に従った。

「紫釉、この薬が嫌いなんですよ。苦くて」

 泰然がこそりと三蔵に耳打ちした。

 なるほど、要らないと言ったが必要ないわけではないから、泰然の言うことを聞いたのか。三蔵は笑いながら納得した。

 薬の不味さに耐えていた紫釉は、二人のやり取りには気付かなかった。

「僕もできればその薬のお世話にはなりたくないなぁ」

 自分も一緒に飲んでいるかのような顰め面をする泰然に、三蔵は噴き出した。

「逆に飲んでみたいですね」

「……一口あげましょうか」

 ここまで深く眉間に皺を刻む紫釉は、着物の着方が分からないから教えてくれと言った時以来だ。

「飲んでいいものなら」

 好奇心で身を乗り出す三蔵に、紫釉は口元を引き攣らせながら椀を持った手を退いた。

「冗談です」

「なんだ」

「……みだりに薬を飲もうとしないで下さい」

「はーい」 

 最後の一口をどうにか飲み干して、紫釉はお茶を口に流し込んだ。

「あ、紫釉さん。いいものあげます」

 三蔵が、布に包まれた紙袋を取り出した。

「さっき泰然さんにもあげたんです」

「なんですか?」

「口開けて下さい」

「え、嫌です」

 間髪入れずに拒否された。警戒しているのだ。

「いいから、開けて下さい。ついでに目も閉じて!」

 紫釉は、泰然を見た。泰然は、にこにこと笑うばかりで止める気はないようだ。

仕方なく、紫釉は恐る恐る目を閉じ、申し訳程度に口を開けた。荒れた唇に、一瞬、繭のような何かが触れて押し込まれれば、口の中にさくさくとした上質な甘さが広がった。

「梁隆さんに貰ったんです。おいしいでしょう?」

 紫釉は素直に頷いた。

「龍の髭飴って言うらしいです」

「!」

「そういう名前なだけで本物ではないんですよ」

 それはそうだろうと思ったが、業竜の競りが開催されると聞いたあとでは疑いたくもなる。

「口の中、苦くなくなりましたか?」

 にーっと笑って顔を覗き込む三蔵から視線を逸らし、紫釉は軽く握った拳を口元に当てて小さく咳払いした。

「……ありがとうございます」

 子ども扱いされたようで少々癪だが、正直、有難かった。

「泰然さんは普通にあげれば素直に食べてくれるの分かってたけど、紫釉さんはこうでもしないと食べてくれなさそうだな~って思って」

 見た目は繭状の砂糖菓子をひとつ摘まんで、三蔵が紫釉の口元に持って行く素振りを見せる。

「……っ!」

 片手の甲で口元を押さえ、紫釉が今度こそ大袈裟に身を退いた。三蔵に食べさせて貰ったのだという事実にやっと頭が回って、じわじわと顔が熱くなる。

「あ、ごめん、嫌だったかな」

 三蔵は、すぐさま、ぱっと距離を取った。

「恥ずかしいんだと思います」

「泰然」

「ご、ごめん。恥ずかしいことだとは思わなくって」

 仲のいい友達同士でよくやるノリでやってしまった。

「聞いたら、泰然さんもいいよって言ってくれたし」

「泰然っ!」

「紫釉だからいいですけど、余所でやっては駄目ですよ」

「~~~~っ!!」

 それはそうだ、と思った紫釉は身を折り曲げて、布団に突っ伏した。

 口の中は今までになく甘いままだった。




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