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西遊異譚  作者: こいどり らく
第二章
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第四十二話 長安の都(一)

 鶏鳴(けいめい)、暁を告げる。

 澄んだ河で行水する鳥の羽ばたきが餓鬼の泣き声を拭い去った。雲の間から差し込む光は眠りを遮る悪い夢を溶かし、長安を照らし出す。夜明けとともに夢から覚めた長安は、当然のことながら上から下まで大騒ぎとなった。現実で為すはずだったことは為されず、地獄の様相を味わわされ、そして何一つ欠けることなく全てが元に戻った。親しい者が生きていることを、自分が死んだわけではないことを、人々は確認し合い、長い夢だったことに安堵して喜び合った。

 日常を取り戻すのに数日を要したが、たった数日とも言えた。

 竜の加護を持つはずの皇帝の膝元で、竜の災いが降り掛かるは、すわ退潮の兆しかと囁かれたが、御仏に遣わされた玄奘三蔵が河竜王とともに皇帝を助け、長安に平穏をもたらしたと触れが出されれば、太宗こそが真の帝であると民に知らしめられた。太宗とともに民に顔見せをと乞われた三蔵は、絶対に嫌だと断固拒否し、紫釉と泰然とともに洪福寺に身を寄せ、休養を取ることを許された。

 長安が活気を取り戻す数日の間、紫釉が高熱で寝込み、泰然は看病に忙しく、三蔵は出来ることが何もなかった。時間を持て余すということに旅の中で慣れていた三蔵だったが、人より獣が多い山と人間しかいない都では勝手が違いすぎた。朝ご飯を食べ終えた後、どうしようかなと、二階窓から往来を眺める。紫釉の熱は、明け方やっと引いたと泰然に教えてもらった。

(顔見に行きたいけど、寝てるだろうしなぁ)

 まだ朝も早い時間帯だというのに、もうほとんどの通りは露店で埋め尽くされていた。店は出ていても客はまばらかと思うだろうが、そんなことはない。長安では夜に出歩くことを禁止されていることもあり、朝早くから人の営みが活発だった。

 国を挙げて夜の出歩きを禁じるなど三蔵には信じられないことであったが、そうしなければ守られない命が多いのだという。皇帝が治める都であろうと全てを統制できるわけではない。こっそり夜に家を抜け出すことも出来なくはないが、葱を背負った鴨みたいなものだった。衛兵に捕まった方がマシだろう事態を覚悟しなくてはならない。()()()を禁ずる場所でそれでも外に出る輩など、酒飲みか博徒か、あるいは犯罪者、人を誑かす妖怪人魔の類だという。人かそうでないか判断できなかったならば、その場で処刑されるも致し方なしといった具合だ。夜戸出が禁じられているのは、それ相応の理由がある。

(まぁ、でも、日本くらいなんだっけ。夜安全に出歩けるのなんて)

 三蔵の世界でも、注意喚起つきで推奨さていない国などいくらでもあった。視野を広げ、自分がいたところと重なる部分を探そうと思えば、いくらでも探し出せた。服装も人も道具のひとつすら、国語便覧や歴史の教科書で見た昔の中国っぽくもあり、日本っぽくもある。それでも、分かることがある。三蔵は己の拠所のために、自分が知っている知識と似たところを無意識のうちに探して整合性を求めようとしてしまうが、きっと似ているだけで決して同じになることはないのだろう。頭では分かっていても、重なるところばかり探そうとしてしまい、目につく風景をくしゃりと丸めたいような気持ちになった。

 長安に住む大勢の人々の日常の中で否応にも過ごすことになって、紫釉や泰然という狭い関わりの中で、旅という普通の生活から外れた日々を過ごすことによって守られてきた三蔵とこの世界を隔てる壁は、簡単に崩されてしまった。

 時間の流れが変わることなどないのに、どうにか緩やかに堰き止めていた流れが破られてしまったような、そんな怖さがあった。数えるのをやめてしまえば、ここで過ごす月日は増えたことになんてならない、わけがないのに。

(……ああ、昨日より今日の方が)

 木々の葉が色づいている。そういう変化から、どれくらい日が経ったか読み取れるようになっていた。そういう変化からしかどれくらい日が経ったか読み取れない場所にずっといるからだ。少しずつ染まっていく季節のように、消えることのない焦燥がじわりと燻るのを自覚した。

「早く紫釉さんよくならないかな……」

 旅の間の汚れを落とし、よく眠り、きちんとした食事をして、身なりも整え終えた。三蔵自身の休息は十分とれた。時間を無闇に与えられると余計なことを考えてしまう。早く旅立ちたいと思う頃合いであった。




******




 そんな折、洪福寺に、玉瑛と夏瀾が梁隆(りょうりゅう)を伴って訪れた。

 すべて夢となって消えたあと、玉瑛自身に非がなくとも、玉瑛を恐れて彼女から離れていく者は多くあった。自分にはないと信じていた、あるいは、努力して律していた人間の薄暗いところを掴まれて引きずり出されるというのは、己が死ぬよりも恐ろしいことがある。その中で、玉瑛と向き合い、離れることのなかった数人の中に梁隆はいた。

「お久しぶりでございます、三蔵様」

 堅苦しい挨拶もそこそこに、ここにきた理由を梁隆が切り出した。

「玉瑛様が、どうしても三蔵様と業竜の競り市を見たいと仰いまして」

「うん?」

 一度では何を言っているか頭に入ってこなかった。

 梁隆の顔を見てから、玉瑛を見れば、にっこりと微笑まれた。太宗の笑みと雰囲気がよく似ている。

「三蔵様は競り市をご存知ですか?」

 玉瑛が身を乗り出して三蔵に問う。吹けば飛ぶような線の細さだけが彼女の病弱さを表すのみで、顔色はよく、業竜から解放されたときに感じた儚さはもうどこにもなかった。

「行ったことはないですけど、知ってます。豊洲の初競りとか」

 テレビのニュースで見たことがある。

「そうですか! とよす? とは都の名前でしょうか?」

「そんなところです」

 都道府県の説明をすべきか一瞬迷って、三蔵は、ちらと夏瀾の方を見た。が、夏瀾はそっぽを向いていて目が合わなかった。嫌がっているというよりも、どこか元気がないようだった。

「どのような競りをするところなのでしょう?」

「主にマグロです」

「まぐろ?」

「海で獲れる赤身の大きな魚で……」

 海と言われて玉瑛の目がまん丸に見開かれた。好奇心のまま、さらに話を聞こうとして、はっとして口を噤む。この世界では、海というものは、三蔵が想像するよりも、心理的にも物理的にも遠く離れ、想像の及ばないものである。だが、自分よりも幼く、こんなにも遠い場所に親もなく一人ここにいる目の前のひとを思って、玉瑛は己の好奇心を抑えた。

「そのような競りがあるのですね」

「見に行ったことはないので詳しくは知らないんですけど」

「それは……、三蔵様をお誘いしておいて、お恥ずかしいのですけれど、わたくしも実は競りというものを初めて見に行くのです。品がないと言われたのもありますが、あまり長く外にいられる体ではなかったから」

 玉瑛がはにかんだ。

「けれど、最初で最後の機会が巡ってきました。一生に一度あるかないかの業竜の競り市です。お母様もお父様も許して下さいました」

 両手を胸の前で夢見るように組んで、玉瑛は三蔵にぐぐっと迫った。

「ここ長安にも市場があります。そこに魏徴(ぎちょう)様が持ち帰られた業竜の首を卸すと、兄様がお決めになられて、三日後その競りが開催されるのですよ」

 長安に災いをもたらした業竜の生首の競りなど、国を挙げての祭り同然である。

「うん??」

 きらきらと輝く瞳で言われて、やっと言葉の半分ほどが頭に浸透してきた気がした。

「貴族の間で独占することも出来たのですが、今回は長安全土が被害を被りました。禍根を残さぬよう、民に卸せと河竜王が兄様に進言したらしいのです」

 糧かつ娯楽にしてしまえば、竜への溜飲も下がるだろうと。

「そ、そうなんですね」

 いいのか? と三蔵は首を捻った。河竜の王が言っているのだからいいのか、と納得しようとするも、言葉にできない引っ掛かりが妨げとなって三蔵を煩悶させた。

 竜の抜け殻である夏瀾が、そんな三蔵を横目にどうでもよさそうに口を開いた。

「竜の頭は捨てるところがない。どの部位も貴重で有用なので、最良の判断でしょう」

「自分たちの体を、食材みたいに言うんだね」

 やっと出てきた言葉がそれだった。責めたいわけではないのに、責めるような口調になってしまい、三蔵は顔を覆いたくなった。だが、夏瀾は特に気にせず、よくわからないことを言われたという顔をした。

「違うのか? 姿形が違うものを、私たちはいつもそう扱って生きているじゃないか」

 太宗が死んだら宝玉となって夏瀾のものになるように、竜にとって体とはそういうものであると言えた。河竜王の死後の体も、好きに使っていい約束になっている。人間の寿命の方が短いが故に、達成されたことは未だないというだけだ。むしろ、こと食材に関して言えば、人間の方が欲深いだろう。

「お前も他人ごとではないからな」

「え?」

「玄奘三蔵というものは、人理の外にある者たちにとって在り方を狂わせるほどの(すい)(ぜん)の的だ。渦中の我らが眷属は、自我の弱さも相まって堪えきれなかった」

 気を付けようが気を付けまいが、本人の意思とは関係なく狙われ続け、知らぬうちに周りを巻き込んでいく。

「これから先、努々油断しないことだ」

 夏瀾に言われ、三蔵は顔色を白くした。

「それで、三日後、玉瑛様と出掛けるのか? 出掛けないのか? 泰然殿はお前の意向を全面的に尊重するとのことだ」

 外出することに不安を感じさせるようなことを言ったあと、よくもまぁ聞いてくれると思った。

「……行っていいなら行きたい」

 消極的なYESしか返せない。当然ながら夏瀾は気にしていない。

「だそうです、玉瑛様。よかったですね」

「……夏瀾、貴方そういうところよ」

 しれっと返す夏瀾に、玉瑛は頭が痛そうに呻いた。




 三日後の朝に迎えを寄越す約束をして、玉瑛たちは洪福寺を後にした。

 別れ際、体調の優れない紫釉にと滋養強壮に効く薬を渡され、ありがたく受け取ったが、それが庶民では一生お目にかかれるかどうかというほど高価な品であったことに気付いた泰然と紫釉が別の意味で倒れ掛けたことは、三蔵の与り知らぬことである。




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