第四十話 河竜王
「娘であるなら、なおさらなりません!」
梁隆が青ざめたまま声を荒げても、夏瀾はどこ吹く風といったふうだ。
「なぜです。正気でない者にとっても性別など些末なことでしょう」
どちらであっても同じ目に合うなら、どちらでもいいだろう。
「三蔵様を危険な目に合わせても問題ないと仰っているなら、私どもも黙ってはいられません」
紫釉が強い意志で顔を上げた。
「一番早く問題を解決できる方法でもですか? あれがここまでして欲しているものは『玄奘三蔵』です。それをやれば、簡単に誘き寄せられ、近くに行ける」
夏瀾が返せば、続くように泰然が声を上げた。
「三蔵様は、物ではありません!!」
「竜にとっては大差がない。玄奘三蔵で釣るのが最も効率的です」
「命も、彼女の尊厳すら奪われるかもしれないのですよ!?」
梁隆は、批難するように夏瀾を見た。玄奘三蔵と分かった途端に、戸惑いなく矢は射られたのだ。生かして捕らえようと思っていないことなど明らかだった。正気がない者に交渉の手は初めからない。あの時、玉瑛の前で感じたおぞましさは絶対に玄奘三蔵を一時でもあの者達に渡してはならないと告げている。
「確かに、命だけは取り返しがつかないですね」
ふむと夏瀾は考える姿勢を見せ、一寸間を置くと頷いた。
「命だけは守ることが出来るよう尽力しましょう。けれど、それ以外は、生きる世を違う玄奘三蔵であるならば、何があっても構わないではないですか?」
夏瀾の言葉に、紫釉たちが絶句した。
「いや、全然、構いますけど!?」
なに言ってんの!? 言われ放題であった本人である三蔵が心の底からドン引きして一番夏瀾から離れたところにいる泰然の後ろにすばやく隠れた。泰然も、いつもより体を大きく見せるように努めて庇おうとしてくれる。
「捕まるのも、尊厳奪われるのも嫌ですけど!?」
三蔵は、震え上がりながらはっきりと言った。
「そうか、本人が嫌なら無理だな」
夏瀾は、あっさりと応えた。
「はぁ!?」
「なんだ」
「竜って人の心ない感じ?」
「見て分からないか? 私はもう人の子だ。完璧な人心が育っている」
「完璧な思い込みであることは分かります」
三蔵は泰然の後ろに隠れるのをやめて、のろのろと前へ出た。
「私がどういう目に合っても構わないって言ったじゃないですか。相当、最低だと思いますけど」
相手の安全を考慮に入れないというのは、存在を無視していることと違わない。本人を目の前にしてそれを言える神経がそもそもどうかしている。
「先ほどまで、お前は嫌ともいいとも言っていなかったではないか」
「普通それでOK出すと思わなくない!?」
「お前なら、軽はずみに是と言う可能性は低くはなかった」
「なっ」
「私にどんなに否定され愚かだと言われても、お前は相手を退けずにここまできた。それで私はやっと分かったのだ。玄奘三蔵というものは、天から押し付けられた『施し』なのだと」
何を言っているんだコイツはと三蔵は思った。
「どうしたって施しが施しであることが変わらぬなら、受け取らされた方がどう扱おうと構わんということだ」
けれど、同時に言い得て妙だとも思った。
(彼らにとって、私は、天からの施し)
自分が持っていた名前と立場を盗られ、玄奘三蔵という名と立場を与えられてここにいる彼女は、返す言葉をなくした。
「抛たれた者が見えないと言うのなら、あなたは餓鬼と同じです」
天からどれだけ与えられても、満足することはないだろう。
紫釉の背が、三蔵の視界を塞いだ。静かな怒りを宿した目が夏瀾を睨み付ける。
「神仏のご意志は三蔵様とともにありますれば、竜の抜け殻であるあなたが好きにできる道理はありません」
どんな理屈を捏ねようと、善なる性質の上に成り立つ犠牲を手段として扱う相手を慮る道理はひとつとしてない。
「言ってくれますね」
一触即発の雰囲気だった。通常なら止めに入るはずの泰然すら、紫釉に加勢するように睨み合っている。
夏瀾は何があっても譲らない。人と通る道理が違うからだ。自分が大事にしたいもの以外は驚くほど粗雑に扱う。道理が通らぬ子どもとも似ているその有り様は、確かに千年生きる竜から、人の子どもと似た心を持ち得ていると言えなくもなかった。言うことを大人しく聞くとも思えないが、さすがに諫めるべきかと太宗が口を開き掛けたその時、窓からひらひらと一頭の水縹の蝶が迷い込んできた。平時であったなら美しいと思うだけのそれは、鳥の一羽すら飛ばぬ今、違和感を覚えるはずの現実感のない存在だった。しかし、夢路の幽冥たるこの場所で現実から離れているということは、夢に馴染んでいるということに他ならない。違和感は違和感として機能せず、蝶は、水面に揺蕩う波紋のようにゆらめきながら太宗の目の前を通り過ぎていった。
(え、すごい綺麗なちょうちょ)
夏瀾と紫釉たちが睨み合い、梁隆が逆に仲裁に入ろうか否か戸惑う中、三蔵はひとり、入り込んできた蝶に気を取られた。胡蝶の夢さながら、栩々然として舞うその蝶が、休む場所を探すように三蔵の方へと向かってくる。思わず、人差し指を差し出した。
三蔵の指に蝶が触れる。
その時、水の匂いが強く三蔵を包み込んだ。この世界へと来るときに落ちた河の中の感覚を強制的に思い出させ、とっさに人差し指を引っ込めようとして、できなかった。
三蔵の人差し指は、しっとりとした肌触りに包み込まれ、突然のことに、自分の人差し指が、他人の手に掴まれているのだと気付けなかった。考える間もなく流れ込んでくる溺れる浮遊感が三蔵の息を止めさせた。深い水底を思わせる目が眼前にある。引きずり込まれそうになる意識に喘ぎかけたとき、しゃらりと九環の腕輪の涼やかなる音が三蔵の呼吸を軽くした。
「会えて嬉しいよ、玄奘三蔵」
先ほどまで呑み込まれる激流のごとく気配だったものが、風が凪ぐ河のせせらぎのお穏やかさへと移り変わる。紫釉や泰然と旅をしていく中で何度も立ち寄った水際の穏やかさを思い出して、三蔵は止めていた息を大きく吐き出した。強張らせていた肩の力が無意識に抜ける。
(びっくり、した)
目の前には、羽衣を纏う豊かな緑の黒髪の天女が佇んでいた。その天女から伸びる蛇の白い腹のごとくひんやりとした滑らかな指が、三蔵の人差し指を掴んだまま離さないでいる。
「妾は河竜王なるもの。観世音菩薩様から報せを受け、飛んで帰ってきたのだよ」
人とは掛け離れた縦長の瞳孔が、水底の瞳に浮かんで三蔵を捉えて微笑んだ。するりと人差し指を撫でたと思えば、そのまま絡ませるように手を握られる。蛇に睨まれた蛙のごとく三蔵は固まった。天女にしか見えないほどに美しい目の前の相手が、河竜王であることを疑う余地はなかった。鱗の一枚すら表に見せず、完全な人の形を保つことがどんなに異様であることか三蔵に分かりはしない。それでも、人の気配を感じさせない完璧な人の形の方こそが、異形であると理解できてしまう。
冷や汗が首筋を伝って落ちた。
「よく来たのう、歓待しなければ」
敵意を持たれていないはずなのに竦み上がってしまう。からからに乾いた口内をどうにか湿らそうとこくりと喉を動かすも、息を呑み込んだだけになった。じりと後退ろうとして阻まれる。雲を掬うような加減で引き寄せられたにも関わらず、三蔵は気付けば天女たる外見の河竜王の腕の中にいた。俵のごとく三蔵を軽々と抱えた河竜王は、まるで己の夢のようにふわふわと建物を通り抜け、夢を泳ぐ魚のように空を渡る。たなびく羽衣は、まるで尾鰭だ。
連れ去られる三蔵を前に、紫釉や泰然は、三蔵と同じように、いや、三蔵よりも河竜王の気配に圧されて動けずにいた。けれど、抱えられ連れて行かれる三蔵がとっさに手を伸ばした先は、紫釉と泰然だった。ここにいる誰よりも河竜王から三蔵を助ける力などない二人に、彼女は手を伸ばした。
目だけが合った。
紫釉と泰然はただ呆然と連れ去られる三蔵を見上げた。
助けたい、と思う。
名を呼ぶことすら出来ずに、指の一本すら動かせずに、そう思う。
河竜王と三蔵の姿はすぐに見えなくなった。そうして、彼らがどっと冷や汗を流し、崩れるように膝を付くたった数秒の間、あっけないほど長安は夢から覚めた。




