第四話 違和感。
「すみません、なんだか、よく分からなくて……」
「無理もない。大変な目にあわれたのだからのう。体は冷えておられんか。どこか痛いところは?」
しわがれて骨ばった大きな手が、頼りなく丸まった背中を擦る。手が当てられたところから、優しさが身に染みていくようだった。
「痛いところはないと、思います。たぶん」
顔を覆っていた手をゆっくりとどかして、視線を上げる。
「……少し、頭がくらくらします」
指先は冷たかったが寒くはなかった。怠惰感が体に重かった。
「七日も伏しておられたのだから、無理もない」
「え」
何か理解できないことを言われたような気がした。
「え、え? なの、か……?」
完全に顔をあげて、法明の白い眉で覆われた目の辺りを見つめた。
「七日も、あの、寝てたんですか。私」
「ああ、そうじゃ」
泰然と頷かれて、さっきとは違った意味で頭がくらくらする。
そんなに眠っていたんじゃ、家族は心配しているだろう。連絡はいってるのだろうか。学校もその間、休んでいたことになる。宿題の期限は? 班ごとに組んで提出する課題もあったはずだ。それなのにそれを全部、休んでしまって友達にどういう顔して会えばいいだろう。
混乱していた。
正気であったなら、そんなことどうでもいいだろうというようなことばかりが頭の中をぐるぐる回って言いようもない焦りが募る。考えも何もかも落ち着かない。
くらくらする。頭の芯がくらくらする。
「一週間も、嘘でしょ……」
「しかし、それくらいは必要であられた」
ありえないと零す声を法明は意図せず遮って、深々と頷いて言った。
「あなたは、世界を越えられたのだ。溺れられたことも頭に入れて、こちらに心身が馴染むまで、七日間は妥当でありましょうな」
言われた言葉が理解できなかったのは、きっと混乱していたからではなかったはずだ。
何と言ったのか。世界?
「か、鞄を」
何を言えばいいか分からなかった。喋るために吸う息が震える。
「鞄を落として、拾おうとしただけ、で」
急に目の前にいる法明が遠くなった気がした。小さくなった心細さが大きさを取り戻していく。
「それで校門をくぐったら……」
河で溺れていた。
滑稽だ。先ほどから口に出る言葉の何もかもが滑稽だ。理路整然と前後が繋がらないことを説明している。それでも、それしか自分の身に起きていない。起きてから混乱するばかりで要領の得ない自分に労りを尽くしてくれる優しい住職すら、世界を越えたなどという意味の分からないことを平然と口にする。
同じだ。お互い意味が分からないことを言っている。
「校門をくぐったその先で、あなたは河で溺れた」
それなのに、法明はどこまでも穏やかな声で頷き返す。
「……はい」
意味の分からないことを言っているのに、受け入れる。
「見つけたとき、あなたは小豆色の衣服を着た状態で身一つじゃった。手荷物は何も持っておりませなんだ」
「そ、うですか」
溺れる前に、鞄を拾えなかった記憶はあった。
名前も思い出せない。荷物もない。意味の分からないことを言われても、ありえないと強く否定するための自分の軸が揺らめいてうまく言葉が出てこない。最初からありえないことを言っているのは自分も同じだ。法明の言っていることがあり得ないなら、自分の身に起こったことも口にしていることもこれ以上ないくらいあり得ない。
「小豆色……」
六限目の最後の授業が体育で、着替えるのが面倒でジャージで帰ろうとしていた。覚えている。
今は浴衣のようなものに身を包んでいる。
「着ていた服、ありますか? 見せて下さい」
ジャージには苗字が刺繍されていたはずだ。それを見れば何かしら思い出す取っかかりになるかもしれない。
頼めば、法明は二つ返事で頷いて「紫釉」と誰かを呼んだ。
しばらくして、法明よりも軽装ではあるもののお坊さんだと分かる出で立ちの男性が丁寧な所作で襖を開けて出てきた。
「お呼びになりましたか、法明様」
「彼が着ていた衣服をここに」
「はい」
簡潔なやり取りをして紫釉は、静かに襖を閉め出て行った。
「…………」
思わず法明を見た。
「いかがなされた」
「あ、いえ」
今のやり取りで彼女が分かったことは、自分を着替えさせてくれたのが法明や先ほどのお坊さんではなく、そして着替えさせてくれた人は彼らと何も話していないだろうということだった。
「お持ちしました」
襖の向こうから声が掛けられる。
「入れ」
紫釉が襖を開き、傍へと寄ると、どうぞ、と綺麗に畳まれたジャージを手渡してきた。
「ありがとうございます」
受け取って上着を広げた。やはり書いてある。白い刺繍が施されていた。
文字を何度も視線で上からなぞり、手で触れる。
書いてあるその文字を、何度も。
何度も。
何度も。
何度も。
読もうとした。
さぁと血の気が引いていく。
この形の漢字を知っている。これが『漢字』だということも分かっている。
ずっと今まで読めていた。
「どうされたのかの?」
法明が問いかける。
「これ、この字」
「ふむ、これはこれは……見事は刺繍じゃ。このように精密な手仕事、滅多にお目にかかることは出来ない」
心底感心してジャージに施されている刺繍に見入っている。
「そうじゃなくって」
息が引き攣りそうになる。
「この文字、読めますか」
問う。
法明はわずかに驚いたあと一拍間を置き、紫釉に「読めるか」と尋ねた。紫釉は「いいえ」とはっきりと首を横に振る。
紫釉の答えを得たあと、法明は視線を戻した。
「私どもは読めませなんだ」
垂れ下がっている白い眉のせいで見えはしないが、しっかりと視線を合わせて法明は答えた。
「それはあなたの世界の文字ですからのう」
その言葉の意味するところを理解しそうになった瞬間、言いようもない拒否感が彼女の喉元まで迫り上がった。
「読めないんです」
理解したくなかった。
「私も、読めないんです」
肯定したくなかった。
覚えている。読めていたことを、知っている。分かっている。
それなのに、読めない。読めなくなっている。
もしかしてという閃きすらない。
法明は優しく穏やかに、ただ頷いた。
「あなたが世界を越えられたからだ」
理解を、するしかなかった。
その意味を。
『ここ』にいるから読めないのだと。
心臓が早鐘を打っている。
『ここ』とは何処だ。
『私』は誰だ。
答えられるものが自分の中に何もない。
この意味の分からない状況を否定して反論してしまいたいのに、それができる一切を彼女は奪われてしまった。
奪われる? 誰に?
頭がおかしい。
頭がおかしくなりそうだ。
「大丈夫か? 玄奘三蔵よ」
これ以上ない混乱の中、この場にいなかったはずの見知らぬ誰かの声がするりと入ってきた。
呼ばれた、のだと思った。
それが名前かどうかも分からなかったのに、呼ばれたと思って彼女は自然と顔を上げた。
「座標がずれたのによく生き延びた」
鮮やかな真紅の髪と緑の両眼。どこまでも清浄で澄み切った空気を身に纏い微笑むそれは、一目見ただけで人ではないことを本能に突き付けてくるような、そんな存在だった。
突然、目の前に現われたというのに、その存在はどこまでも正常だった。
いや、正常すぎた。
法明や紫釉が平伏している様を見ても、何とも思わない。
この御方にそうするのは当然だからだ。
この世界に生まれ落ちたなら、至極当然の摂理だからだ。
ただ。
「意味、分かんないんですけど」
その存在に『玄奘三蔵』と呼ばれた彼女を除いて。