第三十九話 夢路の幽冥
「それで、だ。どうしてこうなっているかということだが……」
太宗が話し始めようとしたところで、夏瀾が思わずといった風に忌々しそうな声を差し挟んだ。
「我が孫……現河竜王が出払っていたのをいいことに、我らが眷属がやらかした」
言いたくなさそうに声を絞り出す様は、まさしく子どものようだった。
「狙いは太宗であったようだが、病で弱っていた太宗の妹である玉瑛から籠絡しようとして魂に入り込んだはいいものの、逆に玉瑛に押さえつけられ、身動きを封じられた」
「妹は生まれつき体が弱く、床に伏せることが多かったが、心持ちは私よりも強かろうな」
傍らで夏瀾が頷く。
「だが、今回はその強さが仇となった。悪いものが入り込んだと悟った玉瑛は、その魂に一人抗っていたのだ」
臍を噛んだ夏瀾は、まるで責任を転嫁するように強く三蔵を睨め付けた。
「そんな最悪な時期にお前が来た」
「!」
唐突に矛先を向けられて、三蔵はびくりと肩を跳ねさせる。
「金山寺に玄奘三蔵が迎え入れられたとの報せで、状況は一変した。先ほど私は、あれが太宗を狙っていると言ったが、本当に喉から手が出るほど欲しかったものは長安が迎え入れるはずだった玄奘三蔵だったわけだ」
河竜王が不在とはいえ、夏瀾と太宗はいる。竜がついているわけでもない妹に押さえ込まれるような眷属ごときが真っ向から立ち向かっては適わないのは目に見えており、だから回りくどいことをやってのけていた。
「欲しいものはもうすぐそこだ。悠長にしていられなくなったやつは業竜と化し、玉瑛は抗い切れなくなった。我らが気付いたときには、もう何もかもが手遅れだった」
油断していた。玉瑛は、病で弱っていたところに業竜と化した眷属を押さえるのに気力を使い果たし、息を引き取った。
「それにとって誤算だったのは、玉瑛が死してなお、玉瑛の体から離れることができなくなったことだ」
自らの命と引き換えに玉瑛は、悪しき竜を自分の体に封じ込めて逝った。
「玉瑛は、我らを逃がす時間を稼いでくれたのだ」
夏瀾の表情がすっぽりと消えてなくなった。
「人間の目から見たら、玉瑛が床に長く伏せていただけにしか見えなかったろう」
私がもっと早く気付くべきだったのだ、と拳を握る夏瀾からは、後悔や悲しみよりも静かな怒りが立ち込めている。
「太宗まで殺されるわけにはいかなかった。城から出るよう説き伏せ、化生寺に押し込んだ」
「……私も、曲がりなりにも竜に魂を預けた皇帝だからな。玉瑛に尋常ではないことが起きたということは疑わなかった」
宰相の魏徴に妹の死を知らせた後、悲しむ暇もなく、夏瀾に説得され城から連れ出された。
太宗の青い目が、三蔵に向けられる。
「私が即位した時、玄奘三蔵が長安に招かれるという告げは菩薩から頂戴していた。旅装もそのときすでに預けられてあった」
「えっ」
当然だが、三蔵には知らない時間がこちらでは流れている。交わることのなかった異世界は、三蔵がこの地に来ても来なくとも営まれ続け、十三年間、玄奘三蔵という存在は、すでに待たれていた。もしそれが彼女でなかったとしても、ずっと待ち望まれていた。
「化生寺で過ごす間、私は信じるしかなかった」
刻一刻と長安が地獄と化していくのを傍らで見ながら、求めるしかなかった。
「そなたが助けてくれることを、信じて待つしかなかった」
たった一式の、けれど、神仏が玄奘三蔵のためだけに誂えられた旅装が、長安の皇帝たる自分に預けられたのだという事実に縋って望むことしか出来ない。十三年もの間、信じ、それでも、玄奘三蔵が現われた先は長安ではなかった。報せを聞いたとき、見放されたのだと思った。妹が死に、守るべき都を置いて一人化生寺に身を隠して、長安が地獄と化す。御仏の遣いである玄奘三蔵が化生寺に姿を現したのは、そんな時だった。
「そなたと会うことが叶い、都に戻ってこようと思えた。私がいなくとも、都には信を置く家臣達がいる。最悪の事態にはなってはいないだろうと思っていた」
だが、実際は、何とも有難い歓迎が待っていた。
「梁隆」
「はい」
「魏徴は何故首を斬られた?」
問われて、梁隆は言葉に詰まった。あのとき玉瑛は何と言っていたか。
「……『夢の中で、わたしを斬ったのだ』と」
梁隆の言葉に、三蔵がはっとして顔を向けた。
「竜の生首」
「なに?」
「この辺りがおかしくなる前、竜の生首が空から降ってきたんです」
そこから全ておかしくなった。
話を聞いた夏瀾が、考えるように黙り込んだ。
「……ああ、そうか」
長らく沈黙していたが、ぽつと納得するように呟いた。
「何かおかしいとは思っていたんだ。いくら玉瑛の体を使っているとはいえ、下等な眷属だ。ここまでのことが出来るまいと」
「何かわかったのか?」
「はい。推測の域を出ませんが、この長安を見る限り見当違いな予想ではないでしょう」
太宗に問われて、しれっと小姓の振る舞いに戻った夏瀾が頷いた。
「私ども……河竜王とその眷属は夢と現実を行き来できます。玉瑛の体から離れられなくともあの業竜は夢を通って玄奘三蔵を手に入れようとしたのでしょう。魏徴の血筋は元々幽冥界を通う習いがある。我らの夢に引き寄せられたのでしょう。その夢の中で玄奘三蔵を襲おうとしていた竜を斬った」
「夢って……でも、あれは本物の生首でした」
夢などではなかった。
「現が夢へと通じたのだ。そこから首を斬られ力が暴走し、お前たち……いや、長安を含む我らの縄張りが夢路の幽冥に引き摺り込まれた」
本物でありながら本物ではない。
「首を斬られて、そやつは夢であっても玉瑛の体から出られなくなったのでしょう」
魏徴に首を斬られるのは、完全なる誤算だったろう。
「あれは自暴自棄になって、玉瑛となってしまった己自身をも贄にして、長安を己の領域に塗り替えたのです」
合点がいった。ここはもうずっとやつの力が影響する範囲だったのだ。
「太宗様が一時私に与えられた竜の姿が強制的に解かれたのも、玉瑛の領域に入ってしまったからでしょう。あやつの暴走した力が玉瑛を起点に蜷局を巻いているのです」
竜の抜け殻である夏瀾は、太宗を介さなければ元の姿に戻ることはできず、知識量に態度と考え方以外は人間の子どもとさして変わらない。
「どうすれば現から夢を引き剥がせる?」
「この地を治める河竜王が戻ってくるのが一番手っ取り早くて簡単ですが、首を斬られた眷属ごときであれば、玉瑛に触れること叶えば私が引きずり出せます」
全員の視線が一斉に夏瀾へと集まった。その中から一つ辿って夏瀾が視線を返す。
「玄奘三蔵。ひとまず、外へ出て捕まってきてくれないか」
「なっ」
声が上がったのは、三蔵側からだけではなかった。梁隆が、紫釉や泰然よりも早く立ち上がり、三蔵を庇うように夏瀾との間に立った。
「なりません」
魏徴と同じように首を斬られようとも退かない意思がそこにはあった。
「正気でないあの者どもは一切の手段を選びません。この方に何をするか分ったものではない」
梁隆の声は震えていた。冷や汗が滴り落ち、それでも、己が矜持をよすがに足に力を込めて退かずにあった。抗えぬあの声を思い出す度に震えが走る。自分の中にある薄暗いところを掴まれて引きずり出され、意識が自分の物ではなくなるあの感覚が恐ろしい。
「救済の主であることを差し引いても、幼い彼を囮にすることはなりません」
「彼?」
夏瀾が眉根を寄せた。梁隆を見たあと後ろにいる三蔵へと視線を移す。目が合った。
三蔵本人も困惑している。だが、この空気でやむなく口を挟まないことを選んでいるようだ。
「…………」
さらに後ろで、はらはらとしている紫釉と泰然を見やる。真っ先に否定するかと思ったが、むしろ、僧侶に不似合いな隠し立てをするような雰囲気がある。
「………………」
人間の殻を得て、太宗の気配も辿れなくなったし、我ながら完全な人間の子どもになったと思っていたが、久方ぶりに人間わからんなと思う夏瀾だった。思うも、特に慮る要素もないので、夏瀾はすっぱりと言い放った。
「それは娘ですよ」
「!?」
梁隆が目を見張って三蔵を振り返る。
夏瀾の傍らで、太宗も目を見張って、三蔵へと視線を向けた。
紫釉と泰然が、冷や汗を掻いて固唾を呑んでいる。
「あー、はい。男子ではないですね」
三蔵が気負いなく答える様には、慣れを感じた。性別を勘違いされて訂正するとき、回りくどい言い方をするのは彼女の癖だった。彼女自身、あまり自分の性別にわだかまりを抱かなくていい環境で育ったため今の今まで重く受け止めたことがなかったが、間違えた方は酷く焦って言わなくていいことまでよく言うので、なるべく穏便に済ませようという彼女なりの相手への配慮だった。
「か、隠していた……」
暴く切欠のようなものである梁隆が青ざめた。
「ないですね」
何も隠していない三蔵はあっさりと否定した。
共に旅をしなければいけない紫釉と泰然は分かっていたはずだ、と三蔵は認識していた。紫釉の三蔵への配慮を振り返ってみても、旅立つ前に三蔵自身にあんなにも丁寧に説明の時間を取ってくれた恵岸たちを振り返ってみても、彼らに説明していないはずがないと思った。思っていたのは三蔵だけだったが。
片手で両目を隠すようにこめかみを押さえ俯く紫釉の肩を、泰然が労うようにぽんぽんと軽く叩いた。
「んーと、私の性別なんて今そんな重要なことではなくないですか?」
「…………」
そう言い切れる三蔵に、太宗は改めて目を見開いた。しみじみと三蔵の頭から爪先まで見入ってしまう。少女と言われれば、確かに気付けない方がおかしかったかもしれない。僧侶姿であることが思い込みの原因でもあったろう。今さら化生寺で泰然が廊下にいた理由が腑に落ち、己が三蔵の部屋へと初めて踏み入ったときのことを思い出して、あの不信感も然もありなんと思うのだった。あのとき自分は女人の着替え現場に踏み込んでいたのか、と。
「お前……夏瀾、いつから」
こそりと太宗が夏瀾に聞く。
「あの者を庇ったときに」
いつから、ではなかった。ついさっき、であった。脱力しそうになるのを皇帝の気品で堪えて、太宗は珍妙な空気になってしまった流れを戻そうともっともらしく口を開いた。
「玄奘三蔵であるそなたが玄奘三蔵たれば、確かに性別など些末なことだな」
三蔵は、わずかに目を見開いて、思わず太宗を見た。
「どうした」
「……私の友達とおんなじようなこと言うんだなと思って」
「そうか」
ずっと強張ったままだった三蔵の表情が、どこか懐かしむ哀切を含んでほころんだ。
「ごめんなさい、ありがとうございます」
本人が意識しなくとも周りが性別を意識しないことなどないはずなのに、どうやってそこまで自分の身のことに鈍感に過ごせたのかと思ったが、なるほどと思って、太宗は微笑み返した。




