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西遊異譚  作者: こいどり らく
第二章
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三十八話 竜の抜け殻

 事の重さを理解した三蔵たちは身を隠すことを先決とし、梁隆(りょうりゅう)の案内に従った。着いた先は、長安にある梁隆の宅地であったが、居るはずの妻子も使用人の一人すら見当たらず、静けさが広がっていた。

「正直に申しますともうここに安全な場所足り得るところはないのです」

 身を隠す場所として、出入り口の至るところまで把握し、どの道を通ればすぐに逃げることが出来るかの判断を間違うことのない己の家がある場所を選んだに過ぎなかった。ここまで来る間にも、不自然なほど都の住人に会うこともなく辿り着いた。けれど、梁隆は、それが不自然であるとは思わなかった。三蔵たちは自分たち以外の人間の気配がないことに不自然さを感じていたが、それが不穏であるとまでは思えなかった。現実感が極端なまでに抜け落ちている。

 それでも束の間とはいえ、屋内に身を隠し、腰を落ち着けることができたことは幾分か三蔵たちの気持ちを和らげた。

「貴方には本当に怖い思いをさせました。申し訳ありません」

 頭を下げる梁隆に対して、紫釉が口を開こうとしたところを三蔵に袖を引かれて押し留められ、紫釉は内心で驚きながらも身を引いた。

「今謝られても、困ります」

 三蔵自身が思っていた以上に強い口調で放ってしまったその言葉に、梁隆は押し黙ってさらに頭を下げた。あんなことがあって梁隆すら自分自身を信頼し難いと思う。三蔵の言葉に項垂れたように見える梁隆を、それでも三蔵は顧みなかった。わけが分からず、何が起こるかの予想もできない中で、表面だけでも許し受け入れるポーズを取り繕う余裕などありはしなかった。三蔵は、梁隆から視線を外し、太宗と夏瀾へと目を向けた。

「どうしてこうなっているのか、分かることを教えて下さい。なんで私たちがこんな目に合わなきゃいけないんですか」

 観世音菩薩に言われたとおり、ちゃんと天竺国を目指している。それなのに、どうしてこんなことになるのか。

「なぜ?」

 三蔵が声をあげれば、夏瀾が失笑する。

「観世音菩薩に、お前は何と言われてここにいる。物見遊山でもしてこいと言われたか」

「違うけど!」

「夏瀾」

 太宗に名を呼ばれ、夏瀾はふんっと鼻を鳴らして口を閉じた。

(な、なんだ、こいつ~! ほんとムカつく~!)

 三蔵は内心でムカムカしながら睨み付けるも、夏瀾は意にも介さない。そんな二人を、紫釉も泰然も取りなしていいかも分からず、おろおろと後ろで見守っていた。

「まず、そうだな……」

 太宗の青い目が全体を撫でる。三蔵に視線を戻し、化生寺でのやりとりを思い出した。

「互いに名でも名乗り合うか」

 どちらもが相手から知られているていで話が進みすぎている。

「では、私から」

 梁隆が前へと進み出た。

「唐王幕下宰相魏徴(ぎちょう)が部下、梁隆と申します」

 挨拶とともに拱手し、次に泰然が合掌して応えた。

「金山寺法明師匠が門弟、泰然と申します。金山寺を出て今まで三蔵様の供として旅をして参りました」

「同じく、金山寺法明師匠が門弟、紫釉と申します。泰然とは兄弟弟子となります。三蔵様の旅路の供として途中まで共にありましたが、河が赤く染まり、一帯が地獄と化した時分、一頭しかない馬を泰然に託し、三蔵様とともに化生寺まで避難させたところで、散り散りとなっていました」

 それが山中で再び巡り会った。

 紫釉と泰然が名乗り、三蔵がおずおずと口を開いた。

「玄奘三蔵、です」

 自分のことを玄奘三蔵だと称するのは、まだ抵抗があった。不服そうな口調で彼女は続ける。

「泰然さんと一緒に化生寺にいたんですけど、そこの夏瀾くんが化生寺で変な香を使ったおかげで一人で外に放り出されて、紫釉さんに見つけて貰ってどうにかなりました」

 三蔵は、夏瀾をきっと睨み付けた。

「私に、紫釉さんを迎えに行かせてくれてどうもありがとう、夏瀾くん」

 三蔵渾身の嫌味のつもりであった。その嫌味は拾えたようで、夏瀾が無言で三蔵と睨み合う形を取った。竜の姿になったときの夏瀾が一瞬頭を過ったが、引いたら負けだと思い、三蔵もメンチを切り続けた。

「その件に関しては私にも非がある。夏瀾は私が気を付けていなければならなかった」

 太宗の言葉に、夏瀾はさっと睨み合いをやめ、口を開いた。

「太宗様、私は気を付けて貰わねばならぬほど子どもではありません」

「いい加減、もうその人間気取りの振る舞いもやめたらどうだ」

「気取ってはおりません。私はもう竜の抜け殻ですから、人間と同じです」

「…………」

 言い返せる言葉はあったが、不毛なやりとりが続くことがわかっていたので、太宗は開こうとした口を閉じた。

「その、竜の抜け殻って何ですか?」

 一寸空いた間に、三蔵が疑問を放る。

「ああ、それも説明せねばなるまい」

 太宗は少し考えてから口を開いた。

「夏瀾は、人の殻を被ってはいるが、人ではない。河竜王(こうりゅうおう)と呼ばれたる者だ」

「……!」

 三蔵達は目を見張った。

「えっ、じゃあ、皇帝に献上したっていう香って」

「いや、それは夏瀾が寄越したものではない」

 太宗の言葉を受けて、今までは生真面目な小姓といった雰囲気を崩すことのなかった夏瀾が、腰両側にそれぞれ手をついて背を少し後ろに反らしたまま片足を組んだ。

「あれは先代が初代皇帝に送った香だ」

 それが代々皇帝に献上されたものとして受け継がれている。使い勝手悪くなるよう、人間がめちゃくちゃな手法で作り替えたから同じ河竜王であってももうあの使い方は元には戻せない。

「河竜王は、受け継がれゆくものでなぁ。私は初代から河竜王を受け継ぎ、太宗が皇帝になるまでその地位にいたが、竜の抜け殻となったが故にその場所は孫へ投げた」

 三蔵と変わらぬ年齢に見える少年姿の夏瀾は、そう言って目を細めた。太宗が即位したのは十三年前のことだ。三蔵は紫釉たちに教わったことを思い出して頷いた。

「…………」

 夏欄がそれ以上の説明をする気がないのを察して、太宗が続けた。

「長安の王権は血筋ではなく、天命により交代が成されるということになっている」

 天命によって皇帝となった只人は、魂を竜に預け、代わりに竜王の加護を得る。人の魂を得た竜は人の身を得て、人が皇帝を降りるまで共にあり続け、竜に魂を預けた皇帝は、青き目を持ち、長安の繁栄を約束されることとなるが、永劫、この地から離れること叶わず、代替わりすると同時に溶けた魂が宝玉となって一生を閉じる。

「と、初代皇帝の記録には残されている」

 誓魂(せいこん)の儀。人の身を得て竜ではなくなる河竜王を、竜の抜け殻と呼ぶ。

「ど、どこまでが本当なんですか?」

 あまりにもファンタジーで、さらには紫釉たちに話してもらったことのない話ばかりで、三蔵は思わず聞いてしまった。

「初代と私にとっては全て本当で、それ以外の歴代皇帝にとってはお伽噺といえような」

 不老を与えられるわけでも、不死を与えられるわけでもなく、ただ長安の繁栄のためだけにあるような呪いにも似た祝福が記された物語は、長安の皇帝を何よりも皇帝たらしめるものであったが、初代以降の皇帝が誓魂の儀を為したという記録はなく、始まりの寓話として宮廷で語り継がれていたものであった。

 天命を何とするかによって見方は変わる。譲位、禅譲、簒奪、呼び方など何でもいい。それは人の域を出ない人が帝位に就く流れであり、天命があるから皇帝になるのではなく、皇帝となった故に天命となる。人の世の倣いとは、そういうものだった。皇帝となれば顔を見られることもほとんどなく、目の色などいくらでも隠しようもある。寓話だと思われていた故に、隠さなくともよかった。

「ただ、初代の宝玉といわれる物が、香とともに代々受け継がれてはいた」

 つ、と刀身が翡翠で出来た宝刀を太宗が机に置いた。梁隆の狂気を斬った短刀だ。

「この刀に埋め込まれているのがそれだ」

 触れようなどという発想すら湧かないほどに圧される美しさがあった。その短刀をちらと横目で見て、夏瀾が口を挟んだ。

「初代皇帝の魂から成ったもので間違いない。本来なら初代河竜王が持っているはずのものだが、何故か人間が受け継いでいる、我らの中でも意味の分からぬ代物だ。初代に聞いても何も答えぬしな」

 ちなみに初代河竜王は、まだ生きている。竜の寿命は人間には気が遠くなるほどに長い。

「夏瀾が、凡庸な家の出の私の元に現われるまでは、私とて全てお伽噺だと思っていた」

 太宗のどこまでも青い目が、夏瀾を見た。その目の色は決して生まれつきではなかった。

「十三年前、河竜王に魂を預けることで私は皇帝に召し上げられ、河竜王は夏瀾という竜の抜け殻となった」

 太宗の魂を得た河竜王の外見は、まるで人の子のように十三年の時を経て今の姿へと変じていった。中身は竜王の能力と知恵を持ったままであるから、育つのに人の手は掛かりはしない。そうして夏瀾という人間の名前を得た。

「今まで誓魂の儀をしなかったのに、どうして太宗さんのときはしたの?」

「気に入ったからだが?」

 問われて夏瀾は、何を聞かれているのか分からないといった風に首を傾げて答えた。

「その辺りは夏瀾にいくら聞いても同じ答えしか返ってこんぞ」

 太宗が苦笑しながら取りなした。

 神や仏がいようと、人間が、自分たちが世の中心だと思って生活を営むのと同じように、竜たちも世界を自分中心に生きている。竜王からの加護は、人間にとっては人の理を超越する特別なものだが、竜王にとっては気に入ったから思うままに贔屓にしているだけに過ぎない。皇帝にするために加護を与えているわけではなかった。歴代皇帝などという地位など知らないし、竜王の加護を得た人間が皇帝と見做される人の倣いも知ったことではなかった。それでも、自分に加護を与えられるほどの人間は、皇帝になるなど当然だくらいには思っている。救世の主とてなれる器である。なぜなら、竜王たる自分が気に入ったのだから、と。だから十三年前、降って湧いた気紛れな河竜王によって加護を与えられた太宗は、人の世で皇帝になるしかなかった。

「河竜王であった私に人の殻に縛られる不自由を負ってまで得たいと思われる魂を持つ人間が太宗だ。お前のように、適当に引き当てられたような者とは違う」

 事実であるが故に三蔵は何も返す言葉がなかったが、夏瀾は当てつけのために言っただけである。

「…………」

 河竜王の贔屓も、太宗からしてみれば『適当に引き当てられた』ようなものであったが、ゆるく微笑んで流した。


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