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西遊異譚  作者: こいどり らく
第二章
34/43

第三十四話 助くを望む(2)



「はい、紫釉です。三蔵様」

 三蔵は、恐る恐る手を伸ばし、紫釉の胸元の袈裟を握った。心臓に近いそこは、握り締めた指から紫釉の心臓の音が伝わってくる。

 戸惑いつつも身を屈めた紫釉の顔を、三蔵はごく近くからじっと覗き込んだ。

 生きている。

 ほろり、三蔵の頬にまた涙がこぼれて落ちていく。

 三蔵は、恐る恐る手を伸ばし、紫釉の胸元の袈裟を握った。心臓に近いそこは、握り締めた指から紫釉の心臓の音が伝わってくる。

 戸惑いつつも身を屈めた紫釉の顔を、三蔵はごく近くからじっと覗き込んだ。

 生きている。

 ほろり、三蔵の頬にまた涙がこぼれて落ちていく。

「三蔵様です、よね?」

 紫釉の思わずといった確認に、三蔵がこくりと頷いた。

「怪我はないですか? どこか痛いところは?」

「ないです。紫釉さんは」

「どこも。無事です」

「どうしてここに?」

「それはこちらの台詞です。なぜここに? その姿は? 履き物はどうしましたか。泰然はどこに?」

「泰然さんは化生寺にいるはず、です」

「……化生寺に?」

 紫釉は、三蔵の言っていることが理解出来ずに眉根を寄せた。泰然だけが化生寺にいるなどということはあるはずがないことだ。

「ならば、なおさらなぜ三蔵様はこのようなところに。その格好は……」

 どうしたのかと重ねて問おうとしたところで、三蔵が、肩に触れる紫釉の手の袖口に寄り掛かるように顔を寄せた。

「よかった」

 心からの安堵の声が漏らされる。

「無事だった」

 紫釉の袖口は、使っていなくとも染みついた塗香の匂いがする。染みついているそれは本人には分からなくとも、他人には分かった。ぼろぼろでよれよれなのに、いい香りがするので三蔵は思わず笑った。

「紫釉さんやっぱりいい匂いする」

「は、」

 寄せられた三蔵の頭を振り払うわけにもいかず、紫釉は自身の動揺を全身全霊を掛けて押し込めた。彼女の肩に触れたままの指先が三蔵の体温より熱くなる。

「……な、ぜ、三蔵様は、ここに一人で」

 つっかえそうになるのをどうにか宥めて紫釉は先ほどの問いを再度重ねた。

 聞かれて三蔵は、落ち着いたように寄せていた頭を離し、握り締めていたままだった紫釉の袈裟からも手を離して、自分の涙を作務衣の袖でくしくしと拭いながら答えた。紫釉は紫釉で、不自然にならないように細心の注意を払って彼女の肩から手を離し、体の横でぐっと握り締めた。

「それが分からないんです。寺の堂内で寝ていたら、気付いたらここにいて」

「寺の堂内で寝ていたら、気付いたらここに?」

 さすがの紫釉も復唱するしか出来なかった。

 安全だと思われる寺で何か起こるという想像が紫釉には出来ず、三蔵は三蔵で、自分が意図的に誰かに危険に晒されたと考えられるほどの危機意識が足りていなかった。

 よく分からないことがよく分からない内によく分からないまま起こった。

「寺の中でまさかとは思いますが、妖怪の仕業でしょうか」

 紫釉に言われても、まだ妖怪に遭ったことのない三蔵にはピンとこない。

「わからないですけど、お寺の堂内で眠ることになったのは、変な風が部屋に入り込んだからで」

「変な風」

 ますます怪しいと思ったが、何個か聞くことを聞いて、三蔵に聞いても原因が分かることがないだろうと合点した紫釉は、泰然も三蔵も無事であると知れたことをまずは良しとした。三蔵がここにいることはよくないが、自分が見つけられたのはよかった。

 とにもかくにもここから移動しなければ。

「三蔵様、足を」

「え?」

「裸足ではお辛いでしょう。私の草鞋(わらじ)で申し訳ございませんが使ってください」

 紫釉が自身の草鞋を解き、三蔵へと履かせようとするので、三蔵は慌てて膝を抱え込んだ。

「それだと紫釉さんが裸足になっちゃうじゃないですか」

「あなたより慣れています」

「そ、それは、そう、かもしれないです、けど……!」

 紫釉は意図してずるい言い方を選んだ。ここで押し問答している時間はない。

「足を」

「せめて自分で履きます」

「履き方が分かるのであれば」

 三蔵は旅の中、草鞋を使っていなかった。履き方すら分からないだろう。伊達に着付けの仕方を三蔵から教え乞われて天を仰いだ紫釉ではない。それくらいわからいでかといったところだった。本来なら異性の素足に触れるのも憚られるが、今はそういうことを考えている時ではないと紫釉は腹を括っていた。

「お願いします……」

 観念したようにおずおずと足を差し出す三蔵も、人に履かせて貰うというのにどこか抵抗があるのか気まずそうだった。紫釉は括った腹が解けそうになるのを、片奥歯を噛みしめて堪えた。

(なぜそこの羞恥は違わないんだ)

 基準が全くわからないと思いながら、紫釉は作業的に手早く終わらせようと三蔵のかかとを掴もうとした。

「あ、砂払います」

 片足をあげて、ぱたぱたと自分で砂を払い終えると、お願いしますと紫釉から見れば小さな足を三蔵はやはり気まずそうに差し出す。

「……はい」

 思わず声が一段低くなったが、紫釉のそういう態度に慣れてしまっている三蔵からは特に反応がない。三蔵を怖がらせていないことに安心していいのか、こういうことがよく起こっているということに思い悩んだ方がいいのか、紫釉にはもはや判断が付かなかった。

 砂の払われた足裏に草鞋を当て、地面に足をつかせ、調整しようと身を屈めたところで親の声よりも聞き慣れたと言っても過言ではない声が、ぽんと投げられた。

「紫釉、何やってんの」

 友の無事を喜びたいところだった。こういう状況でなければ。

 複雑な表情の泰然と、興味深そうにこちらを見る頭巾を被った僧侶が、そこにはいた。

 理解が追い付かない状況に、とりあえず紫釉は、泰然の顔を見たことで湧いた安堵と多少の理不尽な怒りがない交ぜになった形容しがたい感情を宥めながら、「三蔵様を裸足のまま歩かせるわけにはいかないから、履き方の分からない三蔵様に草鞋を履かせて差し上げようとしていただけだが」と身の潔白だけはきっちりと証明した。




******




「紫釉も三蔵様も、無事でよかったぁ」

「あ、ああ、お前も無事でよかった」

 状況を飲み込みきれない紫釉とマイペースな泰然がお互いの無事を確かめ合う傍らで、三蔵は、泰然が持ってきてくれた靴を履き、防寒用の羽織を羽織った。

 三蔵のみならず、泰然と太宗がこんなところにいる。状況の意味の分からなさは変わっていなかったが、泰然と紫釉がいることが三蔵には心強く、なんとかなるという心持ちに変わっていた。

「泰然殿、彼が玄奘三蔵のもう一人の従者か」

 おもむろに問う太宗に、泰然は「はっ、はい!」とびくりとして答えた。

 紫釉は、太宗が誰なのかも分かっていなかったが、身なりが僧侶であること、頭巾を被って顔を隠そうとしていること、泰然が畏まっていることなどを鑑みて、素性を隠すために僧侶に扮している高貴な身の上なのだろうと判じた。

「金山寺の紫釉と申します」

 視線を伏せ、丁寧な礼を返す紫釉に、太宗は腕を組んで頷き返した。

 そのやり取りを見て、三蔵は、あれ? 紫釉さんって、太宗さんのことを皇帝って知っているのかな? と目を瞬かせた。

「なぜこういう事態となっているか説明したい」

「お願いいたします」

 三蔵と同じくらい状況が分かっていないはずの紫釉に太宗はそう言い、紫釉は紫釉で分を弁えた受け答えをするので、三蔵だけが泰然の隣でどうすればいいのか分からずにそわそわしていた。

「私は長安の皇帝、太宗だ」

 太宗がそれはもうさらりと名乗る。

「!?」

 目を見張り、さらに頭を下げようとする紫釉に、太宗は「構うな」と手で制した。

 それを見ながら三蔵は、泰然の袂をちょいちょいと引いた。

「……泰然さん、ずっと疑問だったんですけど」

「なんですか」

「皇帝っていうものは、こんなほいほい外に出たり、名乗ったりしていいものなんですか」

「……ちょっと僕には分かりかねます」

 そんなわけがない。太宗がおかしいのだと泰然は思ったが、言葉を濁した。小声で喋ろうが筒抜けになる距離で本人の話をするほど図太い神経はさすがに持っていなかった。

「…………」

 皇帝に構うなと言われ、身の置き所がなくなった紫釉は、眉根を寄せて二人の会話を耳にしていた。三蔵はいいとして、泰然までも皇帝を前にしてのんびりと構えているのを見て頭が痛くなりそうだった。自分がおかしいのだろうか。否、今が異例の事態なのだ。そう言い聞かせて、紫釉は、紫釉が出来る最大限の譲歩としての『構わない』姿勢を取った。

 太宗は、紫釉が騒ぐことなくただ聞く姿勢を取ったのを見て、口元に笑みを浮かべた。

「ゆえあって化生寺に世話になっていた。轟音轟き、運河より地獄が湧き出づ、寺は門を閉ざしたあと、導きがあった」

 そこに三蔵たちが訪れた。

「憔悴した心身を休めたのちに彼らと話をと思ったのだが、どうにも上手くいかなかった」

 太宗の言葉を受けて、紫釉はちらりと泰然を見た。泰然は、本当にごめんと言わんばかりに紫釉に対して申し訳なさそうに手を合わせていたが、当の三蔵は納得がいかないとむっすりとしていた。聞いている限り、太宗の言葉に三蔵や泰然を責める意図は含まれてはいなかったが、その言葉を受けて泰然が謝り、三蔵が不機嫌そうになるということは、すでに責められるような何かがあった後なのだろう。だから上手くいかなかった原因が自分たちにあったと言われているように感じている。

 想像に難くないと、紫釉は思った。

 むっすりと黙り込む三蔵の態度を、紫釉は何度か見たことがある。自分が正しく、相手が間違っているとまでは思っていないが、相手が正しく、自分が間違っていると思ってもいない。折れる理由はなく、かといって相手を否定する理由もないゆえに、口を噤む選択を彼女は取る。傍から見ると相手の言い分が気に食わなくて黙っているように見えるところが幼さだが、正否なく、折り合いが付かないことであるだけだと相手を否定する前に理解することを、紫釉は思慮深さだと感じていた。

「原因は直に分かる」

 言外に三蔵たちのせいではないと言いつつ、太宗が口元の笑みを深めた。

「どうしたものかと思慮している内に、夢路の香が使われてしまった」

「夢路の香?」

 三蔵が首を傾げた。

「遙か昔から我らとともにこの地を治める河龍王が寄越した代物だ。眠るときに使う」

 それが三蔵に使われてしまった。

「夢と現を繋ぎ、香を使用した者を強く思う相手の近くに誘ってくれる眠りの香だ」

「……あ」

 香の匂いに心当たりがあったので三蔵は口元を押さえた。紫釉は、別の理由で思わず口元を片手で押さえて俯いた。三蔵と紫釉を見つける間に説明を受けていた泰然は、太宗の説明にただ頷いていた。


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