第三十三話 助くを望む。
紫釉はまだ夜も明けていない真夜中に目覚めた。
昼夜休まず歩いていたが、限界が来て気絶するようにわずかな時間眠りに就いていたのだ。土草の臭いと吐き戻して粘り気のある口内の饐えた臭いが鼻に付いた。束の間の眠りで補った気力でゆっくりと身を起こすと、止めていた歩みを再開する。
(泰然は、三蔵様を連れて無事に化生寺に着いただろうか)
河近くの街道を逸れた道のりは険しく、馬もない足では想像以上に消耗が激しかった。普通なら夜に移動しようという判断を下さないが、どうにも気が急いていた。腥い臭いが、息を吸う度に肺を満たしていく。河から這い出づる餓鬼は腹を空かせる幼子のように啜り泣いては、満たせぬ渇きを嘆いて貪る。掴まれば食われるだろう。この身を捨て与えれば嘆く声も聞こえなくなろうが、紫釉には出来なかった。
恐ろしかった。
着物の裾を引く、ほとんど骨の形と等しい幼子のごとくか細い餓鬼の手が酷く恐ろしかった。
人ではないと分かっていても、弱きを振り払う度に身を苛む人心がずしりと重く、彼があると信じていた己の良心を食らい潰していく。苛まれる者に与えるを惜しまぬが、与えれば与えただけ捨てられるならば人心信ずる者ほど立ち竦む。穴の開いた桶に水を汲めとせがみ続けられれば、汲むに使う桶も壊れよう。餓鬼が食らうはよもや手に触れられる物だけではなかった。空虚に満たされゆく己を抱え、紫釉は三蔵たちが辿ったであろう道を縋るように進んだ。
山の中に分け入れば、臭気が薄まったように感じた。
ようやっと呼吸が楽になる。
携行していたわずかな水で口元を潤し、紫釉は歩いた。歩く度に錫杖がしゃりんと鳴り響き、その清浄さに勇気づけられるようにまた一歩踏み出す。
(長安はもうすぐそこだったというのに、何たる有様だ)
紫釉や泰然が付いているからといって回避できるものがあるわけではなかったが、皇帝の膝元である長安に行く道のりは、まだ御仏の加護の内にあると慢心していた。初めのうちは御仏に選ばれた玄奘三蔵と旅をしているという気負いがあった。命を賭してでも守らねばならないという思いは、共に旅をしている内に、彼女がいるからこそ自分たちは何事もなく長安へと辿り着けるのではないかという油断へといつの間にか変わっていた。
玄奘三蔵がただ共にあるというだけでそう思えた。
(彼女は御仏ではないのに)
加護を授ける者でも、祈りに応える者でも、まして、自分たちを守るために在るわけでもない。それなのに、そういう存在であるように心の奥底で信じてしまっていた。
初めからそうだった。
(彼女はただ……)
紫釉は、旅の途中、見張りを任されていた夜に何度か三蔵と語らいの時間を与えられたことがある。
『あの、紫釉さん、お喋りをしませんか』
今考えると、僧侶といえど親しくもない異性二人と共に旅をしていかなければならなかった三蔵が、少しでも安心できるよう苦心していたのだろう。加護を持つ三蔵が、わざわざ夜に起きてまで語らいの時間を持つ理由が紫釉にはそれくらいしか思い浮かばなかった。
他愛のない話ばかりした。
お腹が減っていないか、今食べたいものはあるか、好きな食べ物は何か、明日の天気は? これから寒くなるのか、雪は降るか、寒いのは好きか、暑いのは好きか、夏という季節の話、海の話、面白い動画の話、頭から離れない歌の話、料理はするか、寺での過ごし方、家族はいるか、どういう友人と過ごすか、彼女が今の高校をなぜ選んだか、紫釉が僧侶になぜなったか、僧侶とはありふれた職業なのか、高校生とは何か、お互いの世界ではごくありふれた話は、けれど、紫釉と三蔵それぞれにとって意味の分からないことも多く、よく二人で唸っていた。三蔵のありふれた出来事は、紫釉にとっては理解が難しく、紫釉にとってのありふれた出来事は、三蔵には理解が難しかった。たまに途中で起きた泰然も混じって三人で語らったりもした。
『海、行ったことないんですか?』
『話には聞いたことがあります』
『話だけ?』
『はい。真実は定かではありませんが、行き着く先の見えない運河の果てに、どこまでも塩の水に満たされた死の世界があり、それが海だと』
『死の世界!?』
三蔵にとって海といえば、ビーチに水着に、海鮮、刺身、釣りなど活気に溢れたイメージしか湧かない。
『話をしてくれた方は寒かったと言っていました』
『冬の海……』
『半生を掛けた果てに辿り着いたそうです』
『半生って人生の半分?』
『そうですね。塩の水が広がる場所を確かめに行った者は数多くいると聞きます。そこから生きて返ってきたという話はあまり聞きません』
『日本のスケールじゃなさすぎて分かんない』
そんな、自分たちのありふれた話をぽつぽつと重ねてゆく内に、紫釉の中にあった御仏から選ばれたる玄奘三蔵という形が、徐々に柔らかく姿を変えていった。違う世界から来たという特別が、紫釉の中で混ざって溶けていく。
(彼女に見放されたらこの世界は本当に救いがなくなってしまうのだろうか)
疑いという否定的な感情からではなく、ただ彼女が本当にそういう存在であらねばならないのだろうかという疑問だった。彼女が選べる選択肢はあまりにも少なかった。抗えるものなどないに等しかった。留まりたくないのなら、進むしかなかった。あの時、彼女こそ、この世界に見放されたら帰ることのできる場所がどこにもなかった。今もそれは変わらない。金山寺は彼女の帰る場所になってはいないし、長安へゆく旅は特別などこかに留まることもない。振り返ったとき、辞めたいと思ったとき、逃げたいと思ったとき、彼女が戻ろうと思い描ける場所は、ここにはどこにもなかった。
今まではあったというのに。
(御仏に助けを求めることすら出来ない)
彼女にそれを与えたのは御仏だからだ。
それでも彼女は、金山寺を出てから抗えないだけだったとしても、逃げ出さず、目の前にいる紫釉たちの話に耳を傾け、恐る恐る歩み寄り、共に歩いた。憎むことをよしとせず、優しくあろうとする努力を辞めなかった。
力になりたい、と思う。
(役に立てるような力がなくとも)
助けたいと思う。
紫釉はそう望んだ。
その望みが、歩みを止めさせることがなかった。一人取り残されても、自分が助かりたいという思いよりも強くその望みが先にあった。誰かの力になりたいという思いは、本人こそがその気持ちに支えられることがある。
しゃん、と錫杖の音が鳴った。
冷たい風が肌を冷やし、目を覚まさせる。いつもよりも湿り気を帯びた土草の臭いに、わずか顔を顰めた。雨が降るやもしれない。
進むのが難しくなる前に、出来るだけ進まなければ。
生い茂る草を掻き分け、重い足をまた一歩踏み出した時、紫釉の動きが止まった。
(人がいる?)
小さく小さく自分の身を守るように蹲る人影あった。よくみれば裸足で、こんな山中にいるには相応しくないほどの軽装だ。
一瞬の警戒が過るよりも先に、その人影がぐすりと鼻を啜って勢いよく顔をあげる方が早かった。涙を拭い前を向くその横顔に、紫釉は幻を見ているのかと思った。
「三蔵様?」
なぜ一人でこんなところに。その姿は? なぜ裸足で? 泰然はどこに?
どっと心臓が早鐘を打った。
無事に着いたか心配してはいたが、上手くいっていればもうとっくに化生寺に着いているはずだ。こんなところにいるはずがない。それなのに、三蔵が一人こんなところに蹲っている。道中で何かあったか。三蔵が泣き、泰然の姿がない。馬もない。最悪の想像に、さぁっと血の気を引いていく己を紫釉は自覚した
三蔵はぽかりと口を開け、紫釉の不安に染まる顔を見て、拭ったはずの涙をまたひとつほろりとこぼした。
「紫釉さん……?」
心細さに揺れる声に名を呼ばれ、紫釉は気付けば三蔵の傍に跪き、震える薄い肩に触れていた。彼女の体温が、紫釉の冷えた指に移った。




