第三十一話 既視。
三蔵は、夜に冷えた土に触れ、風を食んで目を開いた。
「さむ……」
呟けば寒さに震え上がる三蔵に呼応するかのように、葉音がさわさわと鳴った。ついで、青臭さが鼻につく。背に感じる土草の感触と立ちのぼる香りは、金山寺を出てからもう長らく馴染んだ野宿の臭いだった。慣れ親しんだ感覚は三蔵の動揺を誘うことはなく、毎日やっていたように地面に寝て硬くなった体をほぐそうと身を起こさせた。
(紫釉さんも泰然さんも、これから寒くなるってそういえば言ってたなぁ)
指先の冷たさを感じながら地面に手をつけば、眠るときに敷く布がないことに気付く。敷き忘れるということがなかったので少し驚いて周囲を見やれば、紫釉も泰然も馬もない。
暗い夜の山の中、一人ぽつんと地べたに寝そべっていた。
「紫釉さん? 泰然さん?」
とっさに呼ぶ。眠っている三蔵を、彼らが一人にすることはほとんどなかった。姿が三蔵から見えなかったとしても呼べば答えてくれる範囲に常にいてくれた。
しかし、耳を澄ませど答える声は聞こえない。梢が揺れる音が聞こえるばかりだ。立ち上がろうとして、裸足の指がひんやりと湿った土の感触を掴んだ。
「わっ!?」
そこでやっとぼんやりとしていた頭が冴えた。
「え、なんで」
立ち上がり掛けた中途半端な格好のまま呆然とする。
(どこ、ここ)
目が慣れて、うっすらと月明かりが浮き上がらせた周りがやっと見えた。
馴染みはあるが、どこかは分からない。旅の中ずっとこの景色を見ていたが、三蔵には山の中ならどこも同じように見えるのだから場所など分かろうはずもない。
そもそも化生寺にいたはずだ。
立ち上る草木の香りが、足裏に感じる土の感触が、四方から囁く葉擦れのざわめきが、夢ではないと告げていた。
布団で眠っていたはずだ。
靴もなく、着ているものも作務衣だけで、眠りに就いたときのままだった。
寺がなくなっている。泰然は? 夏瀾は? 太宗は?
心臓が大きく波打った。
何か特別なことをしていたわけでもないのに、ただ一人で見知らぬ場所にいる。
この世界で目が覚めた時を思い出して、思わず自分の記憶を手繰り寄せた。
(私は)
玄奘三蔵だ。
記憶の中で呼ばれる自分の名は、その名前だけしか認識できなかった。
(えっと朝起きて、コンビニのチロルチョコ買いそびれて、月一回の美化委員の清掃活動があって、一緒に掃除するはずだったクラスメイトがサボって最悪だったし、体育の先生はムカつくし、友達はいいやつで、校内なのに自転車に乗ってた生徒会長が変人で、それから、それから……)
高校に入学したばかりの自分や、大根の味噌汁が好きな弟は二つ年下であること、紫釉と泰然と同い年であることが発覚したギャルの姉、家を空けることが多い両親のお土産のセンスが悪いこと。
忘れていない。
変わっていない。
(校門をくぐろうとして溺れて、目が覚めて不安だったときに法明さんに励まされて)
真面目過ぎるが優しい紫釉、いい加減そうで全くそんなことがない泰然に、筋骨隆々の恵岸、後光の射す観世音菩薩。それから、化生寺で会った人たちや夏瀾と太宗の問題などをひとつひとつ思い出していく。
そうして、化生寺に変な風が入り込み、念のため本堂で寝て起きたら、ここにいる。
「…………」
やはり前後が繋がらない。意味が分からない。
「紫釉さん、泰然さん……!」
いないだろうと分かっていてもう一度強く呼ぶも、細波のように寄せては返す葉擦れの音が応えるだけだった。人の気配がひとつとしてない木々のざわめきに溺れそうだと思った。
土を踏む足指の冷たさに、唇を噛んだ。
(おかあさん、おとうさん)
元々名前で呼ぶことが少なかった彼女の中の親しい人たちは、どうしようもないとき、名前がすり抜けていく彼女の郷愁のよすがとなった。通学の途中に会う犬の散歩をしていた世間話おばちゃんなどもふと頭を掠めるようになっていたが、今思い出す顔ではなさすぎると三蔵は一人鼻を啜った。
(犬の名前だけ知ってたのに、呼べないや)
姉も弟も友達のことも呼べない。
記憶の中の名前が理解できるのは、この世界で過ごした分だけだ。
家族の姿を思い出し、友人の顔を思い出し、関わってきた風景を思い出す。
思い出せる。
(そもそも名前が思い出せないとか知らないとか覚えてないとか、そういうんじゃなくて)
不確かで確かな境界線の上に彼女はいた。
今が増えても過去は変わらない。
けれど、関係のない世界の覚えていく知識が増えていくごとに、彼女は自分の世界が減っていく気がして口元を押さえた。
(お母さん、お父さん)
その人だけの呼び名ではないのに、その人の姿が思い出されるというのは存外、強い結びつきだった。名前を呼べなくても大切なものは大切なままであることを理解させてくれる。だからこそ辛くもあった。
(蹲っていても仕方がないんだ)
もっと動けなくなるだけで、時間ばかりが知らぬ間に積み重なっていく。
竜の首が降ってきて、河が赤くなって、紫釉を置き去りにして、泰然と化生寺に逃げた。おかしな風が吹いて、逃げるように本堂で眠り起きたら今度は山の中にいる。
何度振り返っても、脈絡がなさ過ぎる。
「頭おかしいんだよ、マジで」
裸足であることが思いのほか堪えた。草や石の感触が足裏に痛く、一歩足を踏み出すのに勇気がいった。怖い、恐ろしい、何も分からない。
(変なもの踏んだらやだなぁ)
この意味の分からない状況で、彼女は、気力をどうにか奮い立たせるのに、ほんの一時だけ小さく小さく蹲ることを自分に許した。




