第三十話 加護。
化生寺の僧侶たちに事と次第を話せば、彼らは息を呑み、すぐさま人を集め部屋を見に行った。結句、燭台の灯火で部屋を改めても、泰然たちの言う尋常でない気配はもう部屋には渦巻いていなかった。
ではその気配はどこへ行ったのか。総出で寺の敷地内をくまなく探すも跡形はない。
「果たして、私どもには感じられず三蔵様方にだけ感じられることなのか、本当に消え去ったのか判断致しかねますれば、今宵は観音様が御座します本堂で過ごされるのがよろしいかと存じます」
こちらへ、と促され、三蔵と泰然は本堂へと足を踏み入れた。
ほっと一息吐く泰然と違い、三蔵は特に何か安心が得られるものを感じられるわけでもなく、線香の匂いが染みついた部屋を物珍しげにぐるりと見回した。
と、夏瀾と目が合った。
ぎくりと身を堅くした三蔵と違い、夏瀾は何食わぬ顔をして僧侶たちに混じって働いていた。太宗らしき人物はさすがにいないようだった。
「朝夕の食事は決まった時間に皆で集まって食べることとなっています」
食事を終えたら片付けをし、本堂へと布団が運び込まれる手筈となった。
三蔵と押し問答したあとでも夏瀾は、三蔵の世話係を辞したわけではないらしく、布団をすまし顔で堂内へと運んできた。
泰然は、運び込まれる二組の布団と夏瀾にぎょっとした。
「ええと、僕もここで……?」
「当然そう申し出られると思いましたが」
おずおずと問う泰然を気に掛けることもなく、夏欄は答えた。不確定な事態である。三蔵を守護する者であるなら離れたいとは思わないだろう。泰然が否やを言うはずがないと口を挟む隙もなく、布団は運び込まれた。
三蔵の性別を知ったとて三蔵が玄奘三蔵である以上、性別以前の問題すぎて、泰然的にはこのまま堂内で眠るのでも全く気にはならない。三蔵も三蔵で、金山寺を出てから今まで寝食を共にしていた全幅の信頼感からか、渋る素振りも見せない。
だが、さすがにと泰然は思う。
(さすがに僕ももう三蔵様を少年だとは思えないし)
ここまで来るのにああまで近くにあれば分かろうというものだ。だからといって、どうというわけでもないのだが。泰然には、紫釉のように三蔵を意識することは難しい。この寺院に着いてから必然的に対処してはいるが、三蔵自身すらあまり頓着していないが故にうっかりと距離感を間違えそうになる。
その判断を自覚的にするところがちょうど今なのだろう。
野外と室内とでは、過ごす意味合いが確かに違う。
(僕とここで一晩過ごすことで、三蔵様が娘だと分かったときにどう見られてしまうかを考えなければ)
極論、これは泰然の気のなさや、二人の信頼関係の問題ではない。
(ああ、そうか)
だから御仏は彼女の性別を曖昧なままにしておいたのか。
泰然は一人合点した。
開けっぱなしの戸を見つめる。眠るときは戸を閉め切らなければならない。そうしなければ守りの意味がなくなる。
ならば、泰然は一晩見張りも兼ねて廊下で過ごそう。
「三蔵様。三蔵様は先に眠っていてください」
泰然は立ち上がり、戸口へと向かう。
「え、どこ行くんですか」
「厠です」
「あ、そっか。えっと、気をつけて行ってきてください」
たかだか厠に行くだけでも神妙な面持ちで三蔵がそう言うので、泰然は思わず口元を綻ばせた。
「念のため戸を閉めて行きます。お約束お忘れなきよう」
そう言う泰然に、三蔵が目を瞬かせた。
「えっと、『入ってもいいか』と聞かれても許可しないこと、でしたっけ」
「その通りです。あとは?」
「どんなに見知った声に開けてくれと頼まれても、自分から戸を開けないこと」
「そうです」
「悪いものは自力でこの戸を開けることが叶わないから、自分から招き入れないようにするんですよね」
泰然が大きく頷く。
「僕もこの寺の者も、ここへ入るときはゆっくり三度戸を叩いたあと、あなたが駄目と言う声が聞こえなければ十数えてから自分で戸を開け、入ります」
この方法は夏瀾が提案したことだった。
「はい」
「あなたに開けてくださいと頼むことはありません。入れてくれと頼むことも」
逆に言えば、そう聞いてきた相手が外にいるときは絶対に自分から開けてはならない。
「十数え終わるまで許可を与えたり、自分から開けたりしても駄目ですからね」
ホラー映画だ、と三蔵は思った。
「めちゃくちゃホラーっぽすぎて怖いです」
「眠ってしまえば観世音菩薩様の加護の内ですよ」
笑う泰然に、三蔵は固くなっていた身を和らげた。
「三蔵様は厠は大丈夫ですか?」
「さっき行ったばっかりだし、大丈夫です」
そう言って布団に潜り込む三蔵に泰然は微笑んで、廊下へと出た。
「おやすみなさい」
戸が閉められる。
三蔵自身、夕方まで寝ていた身だ。泰然が戻ってくるまで待っていようと思ったが、閉めきられた堂内は真っ暗で、燭台一つでは転ばぬように歩くことしか出来ない。わざわざ布団から出てやれることもないので、とりあえず枕に頭を付けた。
三蔵が知る布団と比べると煎餅のような布団ではあるが、布団はあるだけで有難い。家に居たときはベッドだったが、山中、地面に寝転がって眠る日々であった身には深々と染みた。
(なんか枕からいい匂いする)
気のせいだろうか。昨日はそんな香りはしなかった。
ふんふんと香りの在処を探っていると、うとうとと意識が遠のき始めた。
毎夜訪れる眠りの加護とはどこか違う感覚に、けれど、違和感を覚える前に意識が途切れた。
ふ、と次に気付いたときは、とん、とん、とん、と戸が三度叩かれる音が聞こえた。
「三蔵様、起きてらっしゃいますか?」
泰然の声だった。
「泰然です。十数えますね」
問い掛けに答えていいのか悪いのか分からず、三蔵は枕に頭を乗せたまま口を噤んだ。開ける許可を出してはいけないだけだから、会話をしても問題はないのかもしれないが、分からない場合は黙っていた方がいいだろう。駄目だと言わなければ、入って来られるのだから。
「いーち」
泰然の穏やかな声が堂内に響く。
「にーい、さーん」
またぞろまどろみが三蔵を包み込み、その抗いがたさに今度は胸がざわついた。
「よーん、ごーお、ろーく」
眠りは、観世音菩薩に与えられた三蔵の加護だ。
三蔵に害を与えるものではなく、三蔵の意思を阻害する物でもない。
「しーち、はーち」
けれど、三蔵自身が意識しなくともその加護は悪いものから彼女を遠ざけ、外界からの邪気を遮断する。
「きゅーう」
異様な眠さだった。
「じゅう」
香の匂いがまどろみに強く漂った。
自分の意思では抗えぬほどの眠さに、三蔵は沈んだ。
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夢が現となるのか、現が夢となるのか。
混ざる境が世となりて、眠るが先で現に目覚め、起きた先で夢を見る。眠りが加護となるならば眠る夢の中は守られようが、眠った先が現であったなら、そこに加護があるといえようか。
千里を見通す御仏の目は閉じたまま、手探りの加護はいとも容易くこぼれて落ちる。
厠から戻ってきた泰然は、そのまま本堂の外で真言でも唱えて一夜明かそうと思っていたが、思いの外、秋の夜の寒さが身に堪えた。
(布団だけでも取ってこようかな)
そうしたら三蔵に黙ったまま本堂の外で寝ることは出来なくなるが、どうしても隠したいことでもない。ばれたらばれたで、話し合えばいいのだ。
(さすがに厠に行って帰ってきたくらいの時間で寝入ってもいないだろうし)
泰然は、迷わず戸を三度叩いた。
とん、とん、とん。
叩いたっきりでは不安にさせるだろうからと、言葉を添える。
「三蔵様、起きてらっしゃいますか? 泰然です。十数えますね」
中から三蔵の反応は特にない。
自分から開けてはいけない。開ける許可も与えてはいけない。というだけで、質問に答えてはいけないという決まりはなかったが、三蔵のことだ、戸惑い警戒しているのだろうと思った。不慣れなことに慎重なところがある人だ。
「いーち」
このまま夜が冷え込むようなら湯たんぽを借りてくるのもいいかもしれない。
「にーい、さーん、よーん」
あれからもう風は吹いていない。穏やかすぎるほど穏やかなくらいだった。
「ごーお、ろーく」
あまり大きな声をだしていないはずだが、声がゆったりと響いているような気がして意識して声を潜めた。
「しーち、はーち」
十を数えるのってけっこう長いなと立ったまま所在なさを覚えつつも数え続ける。
「きゅーう」
紫釉は、大丈夫だろうか。
「じゅう」
数え終わり、一拍置いて、三蔵の否と言う声が返ってこないことを確認すると泰然は戸に手を掛けた。
「失礼します」
戸を横に引いて開ける。嗅いだことのない香りがふわりとわずかに鼻についた。
三蔵からの反応はなく、外の月明かりに照らされる堂内はしんと静まり返っている。
泰然が入ってきても三蔵の反応がないのは、彼女の性格的に不自然だった。
(寝てる?)
まさかと思ったが、三蔵は観世音菩薩から加護を受けている。すんなり寝入っていても不思議ではないかもしれない。
「三蔵様?」
忍び足で、そぉっと三蔵の布団を覗き込む。
泰然は目を見開いた。
「え」
布団は蛻の殻だ。
玄奘三蔵がどこにもいない。




