第三話 盗られる。
頭が重かった。
どこまでもやるせなく、強く抵抗したくても力が湧いてこない。
踏ん張ろうとするための、絶対的に必要な支えがなくなってしまったかのような、酷い心許無さを感じた。
何を、失くしてしまったのか。
叫び出したくなるほどの喪失感を覚えて、彼女の意識は浮上した。
薄汚れた天井が見える。
(ここは……?)
記憶を探ろうとしてフラッシュバックした水の記憶に、がばりと身を起こした。無意識に何度も息を吸い込んでは吐き出して、呼吸ができることを確認する。
何度も何度も何度も。
次第に呼吸の感覚が短くなり、うまく息が吸えなくなった。
「お目覚めになられたか」
息が詰まる感覚で回らない思考のまま、しわがれた声の方へと顔を向ける。
「落ち着いて、ゆっくりと。大丈夫じゃ、焦らなくてもよい」
白い眉を仙人のように垂れさせた剃髪の老人がそこにいた。住職の格好をしている。短い呼吸の合間に、ゆったりと温かな手が背中をさする。
「大丈夫、大丈夫じゃ」
穏やかな声が染みていく。
「……ありがとう、ございます」
溺れた衝撃から立ち直るのに時間が必要だった。なぜ溺れていたのか、疑問が湧くにはまだ正常な思考が足りない。ここがどこで、この老人が誰なのか、自然に湧くはずの疑問も酷く希薄で、彼女の中で形を成さなかった。
渡されるがまま白湯に口を付ければ、喉元をあたたかさが濡らしていく。
「わしは金山寺の法明と申す」
穏やかな声がじんわりと脳に染みわたる。何故だか、とても安心できる声だと思った。
「あなたはこの寺の近くの河で溺れておられた」
言われて、法明と名乗った老人を見ながら無意識に頷いた。
助けてくれたのかと問おうとして言葉が喉につっかえたが、法明は彼女を見ながら大丈夫と言うかのようにしっかりと頷き返した。
白ひげに覆われた口元が労わりを持って微笑を浮かべる。
「あなたの名前は?」
「私は……」
問われて口を開くも、彼女は答えることができない自分に気付いて目を見開いた。
とっさに答えるべき名前が見つけられない。
そう、見つけられない。
『ある』のはわかる。名前を持っていた。生まれてからずっと、その名前で呼ばれてきた。物心ついたときから、彼女は彼女の名前で呼ばれていた。母も父も兄弟にも、友達にも、授業で先生に呼ばれるときも、その名前を呼ばれていた。
そこまで思考を巡らせて、自分の記憶の欠落に愕然とした。
自分の名前のみならず、彼らの名前も思い出せない。普段呼んでいた名前たちが思い出せない。誰だかわかるのに『なんて呼んでいたか』『なんて呼ばれていたか』それだけがわからない。
放課後、美化委員の仕事を手伝ってくれようとしていた友達。どこで出会ったか、その子がどういう性格で、どんなにいいこか知っている。覚えている。理解している。なのに、名前だけがわからない。委員会をさぼったムカつくクラスメイト。さぼったクラスメイトが悪いのに、その責任を残された生徒に押し付けた理不尽な体育教師。帰り際、自転車の規則違反を堂々として横を通り過ぎていった校内一奇人変人として名高い生徒会長は三年の特進科だ。
知っているのに、名前が思い出せない。
こんなにも鮮明に姿形、性格、声までも思い出せるのに、名前だけがわからない。呼んでいたのに。呼ばれているのに。知っていることを覚えているのに。
覚えていないんじゃない。覚えているのに、わからない。
ない。ないのだ。どこを探しても見つけられない。
記憶は知っていると言っている。呼んでいた。呼ばれていたと言っている。
ぐるりと自分というものの軸がぶれるのを感じた。呼ばれるべき名前に靄が掛かってしまっただけで言いも知れない心許なさが胸を塞いでいく。
「もし?」
穏やかなしわがれ声とともに温かな手が心配そうに肩を叩いた。
とっさに縋るように顔をあげるも、白い眉に覆われた目は見えない。ただ向けられる眼差しの優しさは確かだった。言葉を紡ごうとして迫り上がる思いが、ぐっと喉に詰まった。
『わからない』と言いたくなかった。
わからない、わけじゃない。誰だか知っている。知っている。
どうしようもなく焦れた思いが胸を焼かんばかりに吠えている。
なぜ、どうして、答えられない。あったはずの、名前が思い出せない。
持っていたはずの名前が、ない。
どうして。
これでは、まるで。
――盗られたみたいだ。
さっと胸を塞いでいた思いが引いていった。蜘蛛の巣を張り巡らしていたような混乱が、たったの一握りでぐしゃりと潰れた。
理解した。
盗られた。そうだ、盗られたのだ。
『私』は、名前を。
「……盗られました」
するりと滑るように言葉が出てきた。確信があった。間違っていない。この言葉なら口にしても納得できる。なくしていないはずなのに、持っていたのに見つけられないのなら、それは。
「私の名前は、盗られました」
「ほう、名前を」
「はい。だから、答えられません」
まるで馬鹿正直に、何の疑いもなく確信して、彼女はそう答えた。
けれど。
「誰にかな?」
問われて、ぽかりと阿呆面を晒し呆けた。
「だれ、に?」
「そうじゃ。誰が、あなたの名前を盗ってしまわれたのかな?」
至極、穏やかに、そして真摯に、法明は重ねて聞いた。
尋ねてきた相手の顔を食い入るように見つめて、それから。
「あっ……」
じわじわと自分が言ったことの滑稽さに気付いて、彼女は顔から火が出そうになった。
名前を、盗られる?
誰に、どうやって。そもそも、盗る盗らないというものか。
盗まれる、というのは、盗む他人がいないと成り立たないのに。どうやって人の名前を盗める他人がいるというのだ。
「す、すみません! 私、頭おかしいっていうか、混乱、していて……?」
片手で額を押さえると前髪がくしゃりと乱れた。
そう言うも、どこか納得のいかない気持ちが燻って消えない。自分の名前が答えられず、わからないのは確かで、けれど、知らないわけじゃないのだと思い出が、記憶が、心が、脳を揺さぶり続けている。あることを覚えているのに。
あの人たちを知っているのに。自分とどういう関係だったかも分かっているのに。家族、友達、クラスメイト、先生、先輩、生徒会長。
けれど、ない。名前がない。見つけられない。
どうして。
堂々巡りの問答に、やはり頭が混乱しているのだと思うことにした。
軽い記憶喪失なのかもしれない。そうだ、その方がしっくりくる。きっと、そう、一時的なもので。
「すみません、私、自分の名前が、わ、わから……」
途中でぐっと言葉を曲げた。
「……思い、出せなくて!」
「なるほど、そういうこともあるやもしれん」
必死の思いで口にした言葉は、あっさりと受け入れられた。
ほっほっと穏やかに笑う相手に肩透かしを食らわせられた気分になりながらも、同時にとてもほっとしている自分に気がついた。
「まだ目が覚めたばかりで調子も悪かろう。思い出せなくとも不安になることはない。大丈夫じゃよ」
ゆったりと声と声の間にあたたかな空気が含まれている。じんわりと鼓膜から胸に染み入るその穏やかな気遣いに、わけもなく、ぽつりと涙がこぼれた。
ほろほろと次から次へと零れていく心細さをどうすることも出来なくて、ただ顔を覆って俯いた。