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西遊異譚  作者: こいどり らく
第二章
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第二十九話 風。


 寺の門は閉ざされていた。

 いつもなら夜にだけ閉め朝は開けるのだが、玄奘三蔵とその供を招き入れた後は一度も開かれいない。誰もいない門の前に立ち、太宗(たいそう)は、鳥の(さえず)りすら聞こえない向こうをじっと見つめた。朝も昼も夜も風すら吹き込むことなく、仰いだ先の天の流れる雲を見てようやく時を止めているわけではない外を感じる。

 化生寺の中だけが異様なほどに穏やかだった。

 玄奘三蔵たちがこの寺に辿り着いたときに門が開いていたのは偶然ではない。あのとき天をもつんざく轟音が大地を揺るがし、運河が赤い液体へと変貌するのを見た寺の者たちは転がるように寺へと逃げ込み、早々に門を閉じていた。

 けれど、その夜、寺にいる誰もが同じ夢を見た。

 一夜明けたら門を開け、と。

 まだ日の昇りきらない明け方、目覚めたら咲くはずのない季節に蓮が一輪煌々と咲いていた。比喩ではない。太陽の明かりがまだ射していない薄暗がりの中、その蓮はほのかに光を放っていた。

 御仏の導きだと誰もが信じた。

 奇跡の蓮と早朝の寺院の清らかな空気に押されるように、昇る日とともに門を開ければ、そこに広がっていたのは門を開けたことを一瞬で後悔するような地獄絵図であった。近く運河からごぼりと這い出る餓鬼が、川岸へ上がろうと手を伸ばし、また後ろから湧き出る餓鬼がさせまいと足を掴んで引きずり込む。次から次へとそうやって他を押し退け己が体を我先にと押し出して岸へと這い上がりゆく。

 ぐうう。

 不可思議な音が岸に這い出た餓鬼のそこかしこから聞こえてきた。

 ぐうう。ぐうう。ぐうう。ぐうう。

 束の間、餓鬼の鳴き声かと思えた。不気味なほど場とちぐはぐで間の抜けた合唱は、それが腹の音であると気付く頃には、餓鬼が互いを貪り食らおうとする光景が遠く川辺に(ひし)めき合っていた。異様に出た腹を食いちぎり、骨と皮しかない手足を裂いて咀嚼するも、針のように細い喉は何も飲み込むこと叶わずごぼりと吐き出されていく。

 その光景を見た、門から出た数人の坊主が口元を押さえ、我慢しきれずに(うずくま)って嘔吐(えず)いた。気を静めようと大きく息を吸い込めば、その重苦しさにまた嘔吐く。

 吸う息の全てが死んだ魚の臭いと入れ替わっているようだった。

 耐えきれなかった者たちは寺の中へと駆け込み、外に出て残ることができたのは夏瀾(からん)丈雲和尚(じょううんおしょう)とその一番弟子くらいのものだった。その弟子でさえ御仏の導きがなかったなら残れていたかも怪しい。顔色を真っ青にさせ、己が信じる御仏に縋り祈ることで和尚の傍らに立つことが叶った。

 じりじりと太陽が少しずつ昇ってゆく。

 地に地獄が広がろうと日は昇るのかと何だかおかしな光景だった。ふと、御仏が降り立とうとしたなら、地獄に光も射そうかと思えたとき、蓮の花の香りが薄くそよいだ。

 息が軽くなった。同時に、力強い馬の(いなな)きが聞こえた。

 昇る日の光を受けて、彼らは訪れた。

 玄奘三蔵。

 本来なら、太宗の元へと遣わされることを約束されていた御仏の救済者。一番欲しい時にもたらされたなかった救いが、蜘蛛の糸のような頼りなさで目の前に垂らされる。

 今さら。

 胸中に落ちた呟きは失望に似ていた。

 幼く見える彼の者は、見た目通りのおぼつかなさで崩れ落ちる従者をそれでも背に庇い、たどりたどりと自分の目の前にあるものから目を逸らさず顔を上げた。三蔵の名が耳に届いたとき、役目を終えたように蓮の花がはらはらと人知れず散り去った。

 そうやって玄奘三蔵たちを招き入れてから閉ざされたままの門を、太宗は改めて見上げた。

「……今さら、か」

 太宗たちにとっては手遅れなほどに遅いそれは、御仏が知るところではないのだと分かっていたはずだった。人の望みのままに彼の者たちが動いたことなど一度とてなかったではないか。


『だから、助けてくれるものなんだろうなって』


 あれを無垢と言うのだろうと玄奘三蔵の眼差しを思い出して太宗は思った。

 何も知らないのだとも理解できた。自分が救われる側だと思っている。御仏に手を差し伸べて貰える側にいると。自分こそがそうする側にいると思われていることを、求められていることを理解していない。

 太宗は、夏瀾の三蔵に対する苛立ちは、歩き出せたばかりの子供に何故うまく歩けないのかと(なじ)るようなものだと思っていたが、理解できるが故に止めはしなかった。玄奘が本当の幼子というわけでもない。わざわざ言うようなことではなかった。

(玄奘三蔵は、人なのだ)

 神仏でも英雄でも帝王でもない、只人だった。

 薄氷を踏むように儚げな救済を、世では神仏の導きというらしい。

 太宗は、踵を返すと門から離れた。




******




 湯飲みを下げるとともにそのまま部屋を辞すという泰然に、三蔵は「私も片付けに行きます」と慌てて立ち上がった。日も暮れかけており、そろそろ燭台がないと足元が覚束ない時間帯になってきた。今の時間を逃せば、明日の朝までおいそれと出歩くことができなくなるだろう。

「そういえば、(かわや)は大丈夫ですか?」

「あ、はい。トイレはまだ大丈夫です。でも場所はもう一度教えてください」

 化生寺は敷地が広く、建物の中はどこも同じような造りに見えて一人で辿り着ける気がしない。

 わかりましたと泰然が微笑んで障子戸を引いた。

 瞬間、生温かな風が部屋へ吹き込んだ。

「!」

 三蔵も泰然も、初秋に似つかわしくない湿り気を帯びた風に思わず口を閉じて顔を顰めた。

 風は風だ。

 吸い込んでも何も問題はないはずだが、浴びた瞬間に息を止めてしまうほどの不快さが纏わり付いた。尋常ではない。そう思えた。

 一昼夜馬を走らせ続けていたときに感じた、あの恐ろしさを思い出して泰然は総毛立った。とっさに三蔵の手首を掴み、ほとんど力任せに生温い風が吹き溜まる部屋から逃がすように彼女を引き寄せた。

 手にしていた盆は落ちて、湯飲みや茶器が廊下へ散らばる。床にぶつかる鈍い音が三蔵の肩を竦ませたが、かろうじて湯飲みも茶器も割れはしなかった。胸に寄せた頬に、泰然の心臓のどくどくと波打つ音が聞こえた。

 風は、外から吹いてくるものだ。

 それなのに廊下には不快な生温さはなかった。部屋にのみ吹き溜まっている。

 障子戸の隙間から覗く燭台の灯らぬ部屋の中は、先ほどとは比べものにならぬほど薄暗く見えた。三蔵を放して後ろへと下がらせ、戸を閉めようとして、しかし、生き物の吐息のような不愉快な生温さを振り払えず、開け放たれままの障子戸にすら触れるのは憚られた。閉じ込めぬ方がよい気がした。

 泰然は懐から数珠を取り出し釈迦如来の真言を小さく呟くと、部屋には触れずその場を離れることを選んだ。

「行きましょう」

 泰然に手を取られ、彼の緊張に釣られるように三蔵は息を呑んだ。

「ここはまだ御仏の目が通る場所であるはずです」

 泰然の固い声に、三蔵はただ頷いた。

 漠然とした不安に押されるように後ろを振り向けば、湯飲みと茶器と一枚の盆が廊下に転がるばかりで何もなく、薄く開け放たれた障子戸から何かが覗くこともない。

 それなのに、風が吹き込んできただけで大袈裟だととっさに笑うことすら出来なかった。三蔵は自分の世界にいたときには感じたことのない不可思議な不気味さに立ち竦みそうになった。

『三蔵様は、ずれているわけではないんですよ』

 泰然の言葉を思い出して、縋るように前を行く背を見上げる。

 天竺国に行き、釈迦如来を助け出す。それが世界を救うことに繋がる。玄奘三蔵にしかそれが為せない。上滑りする言葉を幾度となく飲み込んだ。現実感がともなわない空虚さが三蔵の内に溜まっていく。

(どうして)

 信じることが出来るのだろう。

 恐ろしさに冷や汗を掻き、それでも守るために抗おうとする泰然と同じように、恐ろしさに怯むままただ導かれているだけの相手を。

 旅をしているだけでも途方もないと思える。

 紫釉や泰然に子供のように手を引かれ、観世音菩薩の加護に寄り掛かって眠ることしかしていない。この世界に来てから、自分から何かを為そうとしたことはあったろうか。

 助け、動こうとしたことは?

 旅に出ている今がそうだと言えば、そうなのだろう。

(だから、それでいいって泰然さんは言ったんだ)

 すとんと胸の内に彼の言葉が落ちた。

 泰然の震える手指はしっとりと冷たかった。同じほど三蔵の手指も冷たかった。

 この温度を知らぬままの日々が続けばよかったと強く手を握れば、泰然が励ますように応えてくれる。

 照らす橙色の日射しが尽きようとしていた。

 もう完全に日が暮れる。




文学フリマ東京39 に出店予定です。

この続きを本にするために尽力しますのでWEB更新は間が空くかもしれません。まぁ、通常運転ってことですね(更新日を見ながら)よろしくお願いします!

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