第二十八話 在り方(2)
「僕たちはあなたのように特別な何かを何一つ持ち合わせてはいませんが、それでも、これからもあなたのお力になれるように尽力すると約束します。お頼りください」
三蔵は、泰然にそう言われて目を見開いた。
泰然は自分の何を見てそう言うのだろうと彼女は思う。彼女が、泰然の持つ三蔵を映す鏡を覗き込んでも、泰然に見えている玄奘三蔵が、三蔵には見えなかった。いくら覗き込んでも、夕方に起きて太宗や夏瀾に文句を言って、ご飯を食べただけの十五歳の自分しか映らない。
「私はただ落とされただけです。この世界に」
「確かに、三蔵様は本来であればこのような場所におられる方ではありません」
言ったことを肯定されているのに、捉えられている意味が違っている気がして三蔵はとっさに口を噤んだ。自分が玄奘三蔵だと思って、ここに来たわけではない。特別な要素など何一つ持ち合わせておらず、明日も昨日が続くのだと思って学校から帰ろうとしていただけだった。
竜の生首が落ちてくるような、こんな世界に来る予定なんてなかった。
誰かを置き去りにして蹲りたくなるような思いを抱かせる、こんな世界に来たいわけではなかった。
泰然に受け止められた意味を否定しようとしても、浮かぶ言葉が相手を詰るようなものばかりで、三蔵は膝に置いた拳をぎゅっと握り込み、開き掛けた口を閉じた。
泰然を見ることが出来なかった。
自分が特別ではないことを証明しようとすると、彼らの世界を詰ることになる。
彼らは、彼らの知らない世界にしがみつく三蔵をずっと見下さない。
彼女が帰りたいと思う世界のことなど何も分からないだろうに、それは在って然るべきだと言い、守るとまで言う。三蔵が彼らに感じてきた、前の世界にいたときとの扱いの違いの正体が分かった気がした。わざわざ受け入れる意思を持って接してくれているからだ。自分の在り方が彼らにとって当然ではないのに、そうしようとしてくれているからだ。
異世界に呼ばれた三蔵は、選ばれたというわけではない。来ようと思って来たわけでもない。こことは違う環境で生活していただけの彼女は、彼らが思い描く玄奘三蔵という在り方の最低限に、たまたま引っ掛かった。
場所が違えばルールが違う。三蔵は、泰然の言う『理』のことをそう置き換えて話を聞いていた。三蔵の世界に倣っていうならば、国外のルールと似たようなものだろう。違うからこそ尊重し合わなければならいことがあり、知らないでは済まされないことも中にはある。三蔵自身に海外旅行の経験はなかったが、両親からよく文化や生活の違いの話を聞いた。動画やSNSを通じて入ってくる情報も多い。そういったものを蔑ろにされた人が怒る気持ちを三蔵は考えることができた。だから、自分がずれていると思えたばつの悪さの理由や、夏瀾が何故あそこまで怒ったかの理由を、うっすらとだがもう理解していた。何が悪いことなのか分かっていないが故に、三蔵が夏瀾のルールを蔑ろにしたのだろうと。そうであったのなら悪かったなと思えるくらいには、この世界に理解がない自覚が三蔵にはあった。三蔵が生まれ暮らしてきた世界とは異なるここは、彼女のルールを誰も知らない。彼女の世界では当然のことも、ここでは彼女しか知らず、彼女しか守らず、彼女だけが当然だと思う。
だから、玄奘三蔵たり得るのだと言うならば、この世界で生活が変わり、環境が変わっていけば、泰然や観世音菩薩に見えていた三蔵の理というものはなくなっていくものだろうと彼女には思えた。
現に三蔵は、太宗たちと話をして変えていかなければと思った。
皇帝に不敬を働いた自覚がないように、泰然の目に映る『三蔵が通す道理』というものに三蔵自身の自覚はない。通そうと思って通している道理ではないのだ。軋轢が減るなら変えようと簡単に思える、そういう世界で生きて来られたというだけの話だった。
この世界に馴染めば、楽になることも多いだろう。あるものに逆らい、頑なに自分の道理を押し通そうとする方が労力がいる。
太宗と夏瀾に腹を立て歯向かって、彼女は思った。
何も知らない相手に理解して貰おうとすることは海に水を足そうとすることに似ている。自分一人ならば、こちらが合わせておけばいい。
それで彼女の世界がなくなるわけではない。
(そう思ったのに)
泰然は、否と言う。
玄奘三蔵は玄奘三蔵だから、そのまま在ればいいのだと。
「私は……」
あの河の畔で、ただ歩いて歩いて、泰然や紫釉たちと旅をして西方天竺国を目指すだけで、ただそれだけで彼らが救われることがあるというのなら、それでもいいのかもしれないと三蔵は思った。それは、彼らと彼らが暮らすこの世界がそのままあれればいいと、あのとき少しでも思ったからだ。どうしてこんな世界にと不条理に息を潜める中で、それでも、彼らがいるならばとそう思えたからだ。
出来ることなれば、自分も彼らも平和な世界で生きていければいい。
三蔵が自分の世界に帰ろうと西方天竺国を目指すことで、その願いも共に叶えられるというならば、不条理も多少は飲み込めようと思えた。
俯けていた顔をゆっくりと上げて、三蔵は、泰然を見た。
泰然が三蔵へと注ぐ眼差しは、法名の眼差しとよく似ていた。
人を慈しむ眼差しだ。
溺れ沈んで、引き上げられ、見知らぬ世界で目覚めてからずっと、この眼差しに導かれて確かにここまで来られた。
「泰然さん」
「はい、なんでしょう」
「ありがとうございます」
「!」
目を見開く泰然に、三蔵は笑った。
「私、頑張りますね」
この理不尽をぶつける相手は彼らではないということだけは、三蔵にも分かることだった。ずっと分かっていたことだった。
赤い髪に翠の目。
(恨むなら、神様……なんだよね)
彼の御仏の姿を思い出して、三蔵は行き場のない心を飲み下して目を伏せた。




