第二十七話 在り方。
太宗と夏瀾がいなくなった部屋で、泰然がどっと床に倒れ伏した。
「し、死んだ」
斬首された幻を見た。
「泰然さん、大丈夫ですか!?」
「だいじょばないけど、大丈夫です」
もう三蔵の前で取り繕うことすら放棄して、泰然は倒れたまま大きく溜息を吐いた。
観世音菩薩の慈悲によって死罪にはならないだろうが、無罪放免になることはないだろう。泰然が神仏に仕える身であったとしても、太宗が治めるは人の世で、泰然はそこに生きる者だからだ。皇帝に不敬を働いて何かしらの刑罰からは逃れられない。わかっていたことだ。
「はあ~、お見苦しいところをお見せしました」
しおしおと起き上がり、泰然は着物を整える。
おどけるように振る舞ってはいるが、手は明確に震えており、顔色も悪かった。
「あの、ごめんなさい」
三蔵がおずおすと謝った。
「何がですか」
泰然は嫌味で問い返しているわけではなかった。けれど、三蔵自身も自分が何に対して謝っているのか整理が付いておらず、次いで出てくる言葉が詰まってしまった。
泰然からは三蔵が怯んだように見え、意識して声を優しく保った。
「三蔵様は、何か悪いことをしたと思っているんですか?」
皇帝に不敬を働く重さを、三蔵はわかっていないはずだ。先程のやり取りが不敬であり、刑罰の対象になるとも分かっていないだろう。
考えていた通り、三蔵は首を横に振った。
「じゃあ、謝る必要はないんじゃないかなぁ」
泰然は笑った。
「冷めてしまっていると思うけど、お斎を頂きましょう」
「でも、なんか、食べる気が……」
「一口食べれば、自分がすごくお腹が減っていたんだなって分かりますよ」
ほらほらと泰然に促され、三蔵は匙を手に取った。
ぬるくなった粥を口に運び、旅の最中で疲れ果てたときに食べる干し飯をふやかしたご飯を食べた瞬間の美味しさを感じて、ああ、本当にお腹減っていたんだなぁと三蔵は思った。干し飯をふやかした飯は別にそこまで美味しいものではないが、それが身に染みるほどには旅は楽なものではなかった。もちろん、今食べている雑穀粥は、干したものから作った粥ではないことは分かっている。だからこそ、さらに美味しく感じられた。
添えられた葉物の漬物の塩気が粥の甘さを引き立て、口に運ぶ手が止まらなかった。
「おかわりありますからねぇ」
泰然が微笑ましそうに言えば、三蔵は口の中の粥を飲み込む時間、逡巡した。
「…食べて、いいんですかね」
化生寺に辿り着くまで、心ゆくまで食べるということは難しく、常に餓えを感じすぎない程度の食事だった。初めのうちは耐える感覚が強かったが、もう習慣として三蔵に染みついており、おかわりに思わず怯んでしまった。
「こういうときに食べずしていつ食べるのかって話ですよ」
おずおずと空になった器を差し出す三蔵に、泰然はおかわりをよそう。
一度部屋を出るとお茶と湯飲みを持ってきて、食べ終える三蔵を待った。
「一息つきましたか?」
「……はい。ごちそうさまでした」
「じゃあ、下げますね」
「ま、待って下さい」
立ち上がり掛けた泰然を、三蔵は引き止めた。
「あの、ごめんなさい」
もう一度謝られ、泰然は口を開こうとしてやめた。受け取って欲しいのだ。そう思って、三蔵の傍に座り直した。
「皇帝のこともそうなんですけど、こうやってご飯とか持ってきて貰うのもそうだし、こんな遅くまで起きることもできなくて」
腹が満ちて気持ちが落ち着く頃には、障子戸から透ける日射しは橙色に染まり、落ちる影は長くなっていた。寝て起きて食べただけで一日が終わろうとしている。
「早く起きたからといって、できることはなかったですし、休むことが出来るときに休むのが断然いいと思うなあ」
泰然に穏やかに答えられ、はっとして三蔵は気まずそうに俯けていた顔を上げた。
名前の通り泰然とした様子だから見過ごしてしまいそうになったが、注視すればよく寝付けなかっただろう目の下がうっすらと黒ずんでいるが分かった。
自分は怪我一つせず安全な場所にいながら何も出来ない。
焦燥を抱え、分けも分からないまま待つしかない状況は泰然とて同じだ。むしろ、泰然の方が紫釉との付き合いが長いのだから、三蔵より気が休まらないだろう。
寺院を出て紫釉を探しに行かせてくれと誰が聞いても無茶だとわかることを為そうとするくらいには、気が気でなかった。そんな泰然を、三蔵が引き止めたのだ。
三蔵が引き攣るように息をした。
「何も出来ないから、せめて一緒にいれたらと思ってたんです」
金山寺を出てから、彼らがずっとそうしてきたように、三蔵もそうあれたらと思っていた。くしゃりと泣きそうな顔でそう答えられ、泰然は瞬きを繰り返した。
「私が不安だっただけっていうのもあるんですけど、少しでも気が紛れるかなって」
旅の中、四六時中、一緒に居てストレスを感じなかったと言えば嘘になる。けれど、一人ではないから考えないでいられた不安も多くあった。だから、そうあれたらと思った。
「そう、だったんですね」
予想もしていなかった答えに、ぴんと張った糸のように保っていた泰然の弱さがどこか緩んだ。胸の内に広がる温かさが眦へと伝わり、じんわりと滲み、泰然は思わず片手で目元を覆う。
例え、お互いに約束をして取った行動だとしても、友を置き去りにし、泰然は確かに三蔵の手を引いたのだ。自分から言い出したことだったが、紫釉に名を呼ばれなければ、きっと泰然は動けなかった。
紫釉が選ばせてくれたから、逃げられた。
『泰然様は平気でいらっしゃる』
会って間もない夏瀾くらいの目からなら隠せた。
まだ一日も経っていないというのに幾度も煩憂を抱え押し殺し、玄奘三蔵の旅に供するという使命感が、滲む涙のように湧き上がる不安を拭ってくれる。
それなのに、三蔵はいとも簡単に自分と同じ不安を掬い上げて泰然に差し出し、孤独な苦しみではないことを示してくれる。
それは、仰ぎ見られる者が他者に与える施しではなかった。
人が人の隣で寄り添いたいと思う優しさだ。
目元を押さえて俯く泰然に、三蔵は声を掛けようとしてやめた。
「でも、結局、起きられなかったし、こんな時間だし、変な人は来るし。マジで私、何もできてないですよね」
代わりに、どうでもいいことをぼやくことにした。
「ていうか、なにも分からないまま着替え中に乱入してきたおじさんに騒がなかっただけ、奇跡だと思うんですけど」
普通、あの時点で部屋から逃げ出されても文句は言えまい。
ただの三蔵からしたら、そういう認識だ。思わず口を尖らせた。
「っぐ、ごほ」
三蔵の呟きに、泰然が咳き込んで突っ伏した。
「だ、大丈夫ですか!?」
「ん、ぐ、駄目かも、ちょっと待っ」
突っ伏したまま肩を震わせている泰然は、苦しんでいるのか笑っているのか怯えているのか分からなかった。追求してあげない方がいいのだろうと直感的に判断した三蔵は、泰然が落ち着くまで背を撫でてやり、落ち着いたところで自分の湯飲みを差し出した。
「あ、ありがとうございます」
よぼよぼになりながら、泰然は、お茶で喉を潤す。
「お見苦しいところを、度々、すみません」
「たぶん、私が何かずれたこと言ってるんですよね」
何が悪いか分かっていないが、何かよくないことを言ったのだということだけは分かる。
「三蔵様は、ずれているわけではないんですよ」
悩ましげに腕を組んでいる三蔵に泰然が笑い掛ける。
「三蔵様は、三蔵様の世界の理で育っただけのことです」
「それは、そうですけど、郷に入っては郷に従えとも言うし」
望まずとも自分のいた場所とは違うところに来たのだ。三蔵が倣わなければ。
「三蔵様」
泰然の三蔵を呼ぶ声は、思いのほか有無を言わせない強さがあった。
「三蔵様を一人で旅をさせないよう御仏は御心を砕きました」
たとえ自分の知っている習慣や風習と異なっていたとしても、そこでのやり方やしきたりに従うことを、三蔵が強制されるものではない。否応にも多数の中で一人になり、それでもその他大勢を尊重して倣わなければならないというのなら、大勢である泰然たちこそが三蔵に倣うべきだろう。
相手を思ってどうやっても理不尽に抗えなくなる優しいひとに添わずして、どうして共に居られようか。
「三蔵様と、三蔵様の理を守るために僕たちは在ります」
だから、御仏は御自らが共にゆけないならば、代わりに導けるよう願い、祈りを託した。先ほど、皇帝の前で、三蔵の世の理と自分が生きる世の狭間に立って、やっと泰然は己のすべきことが分かった気がした。
玄奘三蔵とはこの世界を救う者であって、改革を担う者ではない。
この世界の身分を理解し、皇帝と対話をして、治政の在り方に介入する者でもなければ、その在り方に組み込まれる者でもない。
それは、ここで生きていく者が成すことで、ここで命を繋いでいく者が負うことだ。
三蔵はただありのままに己の道理を通す。その三蔵が通す道理に、泰然は守られない。
けれど、それでいいのだ。それが世界の救いとなる。
彼女が玄奘三蔵だからではなく、玄奘三蔵が彼女だから、それが為される。
泰然や紫釉は、観世音菩薩と恵岸行者に会い、もはや今世で生まれ変わったも同然だった。世界に居ながら世界が変わった。泰然たちの世界でも御仏の姿を拝むことができることなど、皇族か、よほど修行を積んだ者か、天寿を全うした者くらいだ。
故に、三蔵の理を受け入れ、ともに旅をすることが適ったのだと泰然には思えた。




