第二十五話 当惑する。
ひとつ、三蔵が知らぬ常識として、皇帝と名乗る者は皇帝以外にいないという言葉がある。何を当然のことをと笑える者は、嘘を言う人間に出会ったことがないのだろう。
この世界で皇帝とは雲の上の存在であり、そう在れと生まれ育つ。
御仏が当然のように在るこの世界でなお、彼の存在と並び立とうというそんな相手を、自分と同じ存在であると捉えることのできる民草などいまい。
それでも、御仏は御仏であるが故に在るだけでそうと分かるが、皇帝はどんなに崇められようと神のような存在だと思われようと、人を超えず、人の域を出ることはない。
御仏と人間とはそういうものである。
故に、民に紛れた皇帝を皇帝と証明できうるものは彼を知る者以外になかった。
多くは、皇帝の顔など知らずに過ごす。けれど、仮に皇帝と名乗り人を欺くにしても、圧倒的に存在が違う者を人は信じず、偽って得られるものがないだけならまだしも死罪になるならば騙る者も出ないというもの。
『皇帝と名乗る者は皇帝以外にいない』という言葉は、わざわざ自らを皇帝などと称するような人間は、本人か気狂い以外にいないという意味の言葉だ。
三歳児でも知っている。
知っていることだったが、例外があるとすれば生まれたばかりの赤子くらいであろうか。
「…………」
そんな世界で皇帝だと名乗った青い目の男が、三蔵を見る。
三蔵は『え、マジで本人なの?』というめいっぱいの疑問符を隠しもせず、目を眇めて男の顔をまじまじと見つめていたが、最終的に顔も知らないのにこの男をどう受け止めればいいか分からないと言うかのように、視線を逸らしてしまった。
わからない、どうすればいいと言葉にしなくても伝わってくる。
皇帝と名乗り出てそんな反応をされた経験などついぞなかった男は、目の前にいる玄奘三蔵の異端さを突き付けられて途方に暮れた。
名乗れば全ての説明が片付くと思っていたのだ。そうでなかったときの対応を男は知らない。
どうしたものだろう。
三蔵と男の気持ちが同じくした瞬間だった。
******
一方その頃、泰然は時間を持て余していた。
外に出ることも叶わず、気を紛らわせるために寺の手伝いをしようにも、玄奘三蔵の客人として申し出をやんわりと断られ、では、ここまで泰然たちを乗せて走り抜いてくれた馬の世話でもと思って時間の許す限り丁寧に世話をしていたが、できることにも限界がある。世話が終わる頃には馬の毛艶が今までになく艶々になり、泰然はさらに馬に懐かれていた。午前中はそうやって過ごした。
昼が過ぎ、さすがに三蔵を起こした方がいいかと泰然が思い立った頃、昼食を片付けにやってきた夏瀾が先に痺れを切らして切り出した。
「玄奘三蔵様は、ずいぶんとのんびりした方でいらっしゃるのですね」
あからさまと言えばあからさまな嫌味だった。
だが、泰然は、玄奘三蔵に対してそういう感情を持つ夏瀾に少なからず驚いていた。
「何の心構えもなく、三蔵様には無理をさせました。心身共に限界だったのでしょう」
三蔵がどういう生活を送ってきていたか、三蔵が旅の中で話してくれた断片的な話しか泰然は知らないが、随分と便利で自然とは縁遠く、馬や徒歩で遠方へと旅をするような暮らしは存在していなかったようだ。
「泰然様は平気でいらっしゃる」
「三蔵様と僕を比べても仕方のないことです」
生きていた基盤が違う。泰然にそう言われて、夏瀾は口を噤んだ。
「失礼致しました」
夏瀾は、頭を下げる。
「泰然様も心配でしょうから、私が三蔵様の様子を見て参ります」
泰然が答える前に、夏瀾はさっさと部屋を出て障子戸を閉めていった。
止める隙も与えずに閉められた障子戸を、泰然はぽかんと眺めた。
「……あのこ、なんであんなに三蔵様のこと嫌ってるの?」
化生寺に出迎えられてすぐ三蔵は部屋で休んでしまい、関わることなどほとんどなかったはずだ。逼迫した事態で、混乱と焦燥から見苦しい姿を見せた泰然を嫌うならまだ分かる。三蔵はそんな泰然を、自身すら不安だったのにも関わらず諫めてくれたというのに。
(と、止めに行った方がいいのかな?)
玄奘三蔵相手にまさか手酷いことをするまいとは思う。
悩んだ末、泰然は待つことを選んだ。
時間にするとそこまで待ってはいないと思うのだが、落ち着かなくなってやはり三蔵の部屋へ行こうかと立ち上がり掛けたとき、夏瀾の声が廊下から聞こえた。
「泰然様、いらっしゃいますか? 三蔵様がお目覚めになっていました」
「あ、ほんと? よかったあ」
慌てて障子戸を開け廊下へと出ると、夏瀾がそれはもう『不服』という文字を張り付けたかのような顔をしていた。
「玄奘三蔵様ともあろう方は、さすが肝が据わっておいででしたよ」
口振りからして、一悶着あったと捉えた方がいいだろうか。
「これから三蔵様の『昼食』の用意を致します」
昼食をやや強調して言っているが、昼食というには遅い時間なのは間違いがない。
「泰然様も三蔵様のご様子が気になるでしょうから、共にお運びになりますか?」
「はい、ぜひ」
本当にどうして夏瀾はここまで三蔵を目の敵にしているのだろう。あの三蔵が、この短時間でここまで夏瀾を怒らせるようなことをするはずがないと泰然は思う。たまに常識が外れているところはあるが、御仏から招かれたる者と知っていれば強く当たる理由にはならないはずだ。
玄奘三蔵が御仏から招かれたる者であるというのは周知の事実であり、その名を聞けば、御仏のお遣いだと誰もが認識する。そういう存在だ。
なのに夏瀾は、三蔵を玄奘三蔵だと知った上で毛嫌いする。
泰然には夏瀾の考えていることがさっぱり分からなかった。




