第二十三話 よく寝た。
明け方の化生寺に辿り着いて部屋を与えられてから粥で腹を満たし、清潔な寝間着に着替えて横になったら、次の日の昼が過ぎていた。
「…………」
三蔵は、起き上がった布団の上で自分の顔を両手で覆い、思わず、嘘だぁと呻いた。
「嘘ではありません」
粥を食べたきり、昼を過ぎても部屋から出てこない三蔵を心配して、泰然が何度か様子を見に来ていたようだが、すっかり寝入っているということだったので、そっとしておこうということになったのだ。
「さすがに日が落ちる前には起こすのがよろしいかと思いまして」
世話役を仰せつかったという夏瀾という名の少年は、淡々とそう説明した。説明されながら、三蔵は罪悪感で顔を上げられなかった。この差し迫っている状況でここまで寝入ることが出来るものか。そう思うも、眠れたことで体も頭も楽になっていた。恐ろしく縮こまっていた気持ちも、どこか落ち着いている。
「さすが玄奘三蔵様とあろう御方は肝が据わっておいでですね」
肝が据わっているというより、観世音菩薩が恩恵として与えたものをそのまま享受しているだけだ。三蔵が喉元まで出掛かった言葉を飲み込めば、変わりのように、ぐうと盛大に腹が鳴った。上げようとした顔が上げられなくなった。
「すみません」
「ずっと眠っておいでで、何も食べていらっしゃらないのですから致し方ないことかと」
「……すみません」
「昼を用意させます。お着替えになってお待ちください」
「あ、あの! 外の様子は」
「おどろおどろしく、特に変わりございません」
ぴしゃりと障子戸が閉められた。
夏瀾の物言いは丁寧で紫釉に似ているが、紫釉よりも取り付く島がないように思えた。険のある目で見られたときのことを思い出し、嫌われているのだろうかと内心で及び腰になる。心当たりはあるようでないが、強いて言えば、泰然が出て行くと言ったとき、泣いてしまったのが原因ではないだろうかと思っていた。何かあったときにすぐ泣く相手を快く思わない者は多い。そこに、翌日昼まで寝入るという醜態が加算された。
三蔵は、思わず膝を抱えて額を押し付けた。
どうしろというのだ。
泣き言一つ漏らさず野宿旅に耐えていただけでも褒めて欲しいところだった。どう考えても八方塞がりなのだ。何も特別に秀でていない三蔵には荷が重すぎる。旅をするだけならまだ耐えられた。本当に旅をするだけだったなら。
(だって、帰ることができるって分かってるし)
西方天竺国まで辿り着けさえすれば、元いた世界に帰ることができる。時間が掛かってもそれが成されるのだと、観世音菩薩は言った。
(間違ってないよね。信じていいんだよね)
その前提がなければ、三蔵はここまで耐え忍ぶことなど出来ていない。
「なんで私がこんなこと……」
大きく溜息を吐いてから、丸めていた背中をぐっと伸ばして立ち上がった。言っても仕方がない。言っても仕方がないのだと自分に言い聞かせ、着替えるために寝間着の帯を解く。
そもそも今の状態で、この旅は続けられるのだろうか。出来ることはほとんど思いつかないが、確認したいことはたくさんあった。
(ここまで眠らず歩いて二日か……)
泰然が言っていたことを思い出し、戻ってきているはずがないと分かっていても、部屋を出たらもうここにいるかもしれないと期待してしまう。そうだったらいいのに、と思ってしまう。無事であって欲しいと願うから、夢のようなことを思う。
気落ちしながら、用意されている着替えを広げる。荷物を置いて逃げてきた三蔵と泰然に、替えの衣服すら用意してくれるとは手厚いことだ。
襦袢を羽織り、着物の前を合わせていく。
今はもう一人で難なく着替えられるようになったが、旅を始めた頃、ほとんど着替えることがなかったゆえに、一度しか教わらなかった着替えの手順がわからず、困り果てたことがあった。思えば、観世音菩薩は、三蔵に教えるというより、ただ幼子に着替えをさせただけであり、相手が自分で着られるようにという配慮はなかった。覚えられるわけがない。襦袢に着物に、腰紐に、帯に、袈裟に、と何かと手順の多い衣服だ。無理である。あのとき、背に腹は代えられないと、途中で紫釉を呼んで、とても困らせてしまったことをよく覚えている。しかして、紫釉に教えてもらったことにより、それから三蔵は一人で着替えることができるようになった。
少し気まずい思いをさせてしまったのは悪かったと思うが。
「よし」
腰紐を結び終わったところで、外から足音と人の気配がした。まだ着替え終わっていないのに夏瀾が戻ってきたのかと思い、三蔵は慌てた。のろまだと思われて、また厳しい目で見られてしまうかもしれない。せめて帯だけでも巻き終えようとして、焦って手を滑らせ、ロール状に巻かれていた帯がころころと障子戸の方まで転がっていった。そうして、転がって広がる帯が襖まで辿り着いた時である。
「入るぞ」
知らぬ男の声は、障子戸を引く音とほぼ同時だった。
「え」
「おっと」
入ろうとして、足元に帯が敷かれていることに気付くと、室内だというのに頭巾を被っている男は踏まないように片足を上げた。
「なんだ、まだ着替え終わっていなかったか」
頭巾でこちらから男の目元は見えないが、あちらからはこちらがきちんと見えているらしい。唐突すぎて反応が出来ない三蔵に頓着せず、男は部屋を一瞥し、着付け役もいないのなら仕方がないか、とよく分からないことを言って納得している。
「泰然と言ったか。あの従者を呼んでやろうか」
三蔵は、すぐには男の言葉の中身を飲み込めなかった。ここでなぜ泰然を呼ぶことになるか分からなかったのもあるが、三蔵にとって泰然は、従者というより保護者に近かった。付き従ってもらう相手でも、呼びつけるような相手でもない。
「一人で着替えるのは手間だろう。手伝わせるといい」
決して手伝って欲しいわけではないが、自分が手伝うという選択を一切持ち合わせていないようである頭巾男は純然たる善意で言っているようだった。
「いや、いいです。いりません。一人で着替えられます」
「そうか?」
勧めるわりに、男はあっさりと頷いてそれ以上は何も言わなかった。そして、そのまま、持っていた風呂敷包みを床に置いて、その横に足を崩して座った。
居座るつもりである、ここに。なぜだ。
「あの」
「うん?」
「一応、着替えている途中なので」
言うも、あとは直綴と袈裟を着ればいいだけで、いてもらっても構わないといえば構わないのだが。
「ああ。私が来たからといって、手を止めなくて構わんぞ。最後まで着替えていてよい。気にするな」
いや、気にしなきゃいけないのはそっちの方なんですけどと出掛かった言葉を三蔵は堪えた。




