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西遊異譚  作者: こいどり らく
第二章
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第二十一話 不安。

「ここは御仏が目の届く場所。ご安心召されよ」

 三蔵とともに化生寺に通された泰然は少し休むと、化生寺の僧たちが止めるのも構わず紫釉を迎えに行くと寺を出て行こうとした。 

 止めなければいけなかった。

 けれど、三蔵も、泰然と同じ焦りを抱えていた。

 紫釉を、置いてきてしまった。

 言葉にすると恐ろしく、迎えに行って欲しいと思う気持ちと、紫釉も泰然も二人ともいなくなってしまうかもしれないという不安と、この状況で泰然を一人で行かせてはならないという事実と、さまざまな思いが混ざって、三蔵は、泰然に掛けるための声が出てこなかった。すぐにでも飛び出さんばかりの泰然は、しかし、ぎりぎりで踏み止まった。

「三蔵様、行かせて下さい」

 紫釉との約束は三蔵のために必要だった。自分たちは三蔵のためにいるのだという思いが、泰然に三蔵の判断を仰がせた。

 祈るように泰然に見つめられ、三蔵は目を見開いた。

 泰然が、なぜ自分に判断を求めるのか、三蔵はとっさに理解できなかった。金山寺を出てから、彼らは三蔵に導きを求めなかった。どちらかといえば、何も分からない三蔵を導いてきたのは泰然たちの方だ。三蔵自身よりも彼らの方が、この世界のことを知っていて、これからの行動がどういう危険を伴うのか分かっている。

 そのはずだというのに、今、何故、自分に判断を下させようとするのか。

 ひやりと背筋が冷えた。

 行っていいとも、行ってはだめとも三蔵は言えず、自分の気持ちすらぐちゃくちゃになって選り分けることもできなくなった。呆然と立ったまま言葉は出てこない。それなのに、涙は、こぼれてしまった。

 泣きたいわけではなかった。

 どうすればいいか分からなかっただけで泣きたいわけではなかったのに、三蔵の忍苦は自覚なくしてとうに限界だった。

「う、うー……、わ、私も、い、行きます」

 自分だけここにいる罪悪感と、紫釉も泰然も心配だという気持ちと、泰然を一人行かせるわけにはいかない焦りで、自分が馬も操れない足手まといだということをすっかり忘れた。

「さ、三蔵様!?」

 驚いたのは泰然だった。三蔵が河で溺れたところを助けて目が覚めてから、彼女が泣いたところを見たことがあるのは一度きりだ。金山寺を出てからも辛そうに耐える様を見せることはあっても、泰然たちの前で涙を見せることはなかった。その三蔵が子どものように泣いている。

「さ、三蔵様は連れて行かれません」

「い、行きます」

「だっ、駄目です」

「二人とも心配なんです」

「そ、れは……」

 言葉に詰まる泰然の袖を、三蔵は強く引いた。

「置いて、行かないでください」

 心配と言いながら、こんなときに言う言葉がそれなのか。紫釉は本当に置き去りにされているのに、と湧く後ろめたさが、三蔵にまた涙を流させる。

「……っ」

 三蔵を連れて行くわけにはいかない。だからといい、右も左も分からない三蔵を一人ここに置いていってどうするのだ。泰然は自分の無力さから湧く苛立ちや焦りが、一気に引いて行くのを自覚した。御仏の目が通る寺院とはいえ、この状況で三蔵を置いて行くことは、紫釉を置き去りにしたことと何ら変わらない。自分が三蔵を追い詰めるほどに取り乱してどうすると、泰然はあいている手で自分の顔を覆った。

 泰然とてこんなことは初めてのことだ。

 三蔵を長安まで送り届ける。そして、天の加護を授かる。それまでは三蔵の傍にいなければ。紫釉とそう約束したではないか。

「申し訳ありません」

 泰然は気持ちを落ち着けるように大きく息を吐くと、自分の袖を掴む三蔵の手をそのままにさせて、視線を合わせるように屈んだ。

「一緒に行くと言って下さって、ありがとうございます」

 返事の代わりに鼻を啜る三蔵を見て、涙を拭いてやるための手拭いを持たない泰然は、困ったように周囲に視線をやった。洗ってもいない汚れた袖で拭いてやるわけにもいかない。困っていると、出て行こうとする泰然を止めようとしていた三蔵と同じ年頃だろう化生寺の坊主が、すっと手拭いを差し出した。

「お使い下さい」

「ありがとうございます」

 泰然が受け取るのを確認すると、少年は浅く頭を下げ、その場に留まった。また出て行こうとされたら止めなければならない。

 泰然は、三蔵の涙を手拭いでそっと抑えてやる。

「ごめんなさい、心配させてしまって」

 涙をどうにか止めようとしゃくり上げる三蔵を優しく見守り、泰然は言葉を続けた。

「僕らがいてもどうにもならないから、ここまで逃げて来たのに」

「このお寺の人たちは、助けてくれないんですか」

「寺院自体が結界のようなもので、ここにいる人たちは、なんら僕たちと変わりないんです」

 紫釉を助けに行ってくれと言っても困らせてしまう。あるいは、願いを聞き入れて行ってくれたとしても、泰然や三蔵の代わりに危ない目に合ってくれるというだけのことだ。

「でも、助けに行かないと紫釉さんが」

「助けるほどの事態ではないかもしれません」

 泰然は自分にも言い聞かせるように言葉を選んだ。何が起こっているか、これから何が起こるか分からなかったから、大事を取って安全になる場所まで三蔵を抱えて逃げてきただけで、本当に身の危険が及ぶ事態ではない可能性だって十分にある。

「こんなに騒いで馬鹿みたいだったと、あとで笑い合えます」

 三蔵は、涙を拭いて貰っているのが気恥ずかしくなってきたのか、泰然から手拭いを受け取ると自分で押さえた。ず、と垂れてきた鼻水を啜る。

「不安にさせてしまってごめんなさい」

 申し訳なさそうに泰然に言われ、三蔵は首を横に振った。

「私こそ、何も出来なくて……ごめんなさい」

 観世音菩薩たちは、玄奘三蔵は世界を救う存在だと言っていた。泰然や紫釉たちも三蔵が三蔵だからこうまで尽くす。それなのに、彼女自身は何の判断も出来ず、泣くだけだ。

「いいえ。貴方が、いてくれてよかった」

 泰然の心からの言葉は、三蔵には単なる慰めの言葉にしか聞こえなかった。けれど、三蔵は応えるように少しだけ笑った。




「もうよろしいですか」

 三蔵たちが落ち着いた頃合いで、控えていた少年が声を掛ければ、三蔵は、泰然の袖を掴んだままだったことを思い出し、そっと離した。

「外がどうなっているか分かるまで、こちらに留まって頂けますね?」

「はい。騒がせてしまってすみませんでした」

 泰然が答えると、三蔵はほっと安堵した。そんな三蔵に、化生寺の少年はちらと視線をやってすぐに外した。

「休む部屋の用意が出来ました。案内致します」

 廊下を歩いて部屋の前まで来ると、少年は頭を下げた。

「長旅、お疲れさまでございました。こちらでお休み下さい。あとで着替えと粥を運ばせます」

「では、三蔵様、ゆっくりとお休み下さいね」

 泰然がそう言って共に去ろうとするので、案内が終わり立ち去ろうとしていた少年は驚いて立ち止まった。三蔵と共に部屋に入らないのかという疑問がすべて顔に出ている少年に見上げられて、泰然はふにゃりといつも通りの柔らかな笑みを浮かべて答えた。

「僕は一介の従者です。三蔵様と同じ部屋で休むのは恐れ多くございます。ご迷惑でなければ、この寺の方々と同じ場所で休ませて頂ければと」

 泰然に言われ、少年は困ったように三蔵の方を見やった。三蔵は、少年の視線に気付くと、何故こちらを見るのか分からないと言うように、戸惑うように首を傾げた。泰然とは当然別室になると思っていたからだ。

「…………」

 三蔵を見る少年の目にわずか蔑みが宿り、三蔵は内心で密かに怯んだ。

(な、なに)

 少年はさっさと三蔵から目を離し、泰然へと向き直る。

「承知致しました。ではこちらへ。お疲れでしょうから客室をお使いください」

「ありがとうございます」

 少年へ付いていく泰然の背を見て、三蔵は僅かな心細さを抱いて口を開いた。

「泰然さん、またあとで」

「はい、またあとで」

 泰然と少年が頭を下げて去って行くのを見届けてから、三蔵は案内された部屋へと入った。誰もいない部屋を一瞥して障子戸を閉めると、三蔵はその場に崩れ落ちるようにして座り込んだ。足を崩すことも、横になることも、眠りに逃げることすら思い浮かばず、ただただ身を守るように手足を縮こませる。部屋の外から声が掛けられるまで、彼女はずっと息を詰めてそうしていた。

 途方もなく疲れていた。

 元の世界に帰りたいがために言われるまま旅に出て、気付けば峨々たる山を越え、差し迫った状況に追い詰められるまま、ここにいる。三蔵にとってよく知らぬ僧であった泰然と紫釉は、もう知らぬ二人ではなく、信頼を寄せるかけがえのない供となっていた。

 だからこそ、恐ろしかった。

『僕たちは真っ先に貴方を逃がすと決めていました』

 推し量られる命の重さがあったことが恐ろしかった。比べることなどするものではないと思っていた。玄奘三蔵という存在に彼らが身を投げ出すことはしないと、心のどこかで思っていた。それは泰然たちを侮っていたからというわけではなく、泰然たちがそこまでする理由がないと思っていたからだ。

 けれど、泰然たちは戸惑いなく身を投げ出した。三蔵はそれが堪らなく恐ろしかった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 再開ありがとうございます!!早い!!٩(ˊᗜˋ*)وヤッタヨー 泰然~~~ よく耐えたねぇTT ちゃんと冷静になれて反省できてエライTT 三蔵だってどーすりゃいいかなんて分かるわけないよ…
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