第二十話 竜の首。
判断は一瞬で為された。
「泰然!」
一番始めに我に返ったのは、紫釉だった。
叫ぶように紫釉に名を呼ばれ、三蔵の傍にいた泰然が有無を言わさず三蔵を抱きかかえ、怯え暴れる馬に力尽くで飛び乗った。
「化生寺だ! 昼夜走れば馬の足なら一日も掛からない!」
「わかった!」
かろうじて方向だけ示すことが叶うも、飛ぶ勢いで走る速度は泰然の加減によるものではなかった。すでに遠くを駆け抜け、紫釉の姿はもう見えない。
「三蔵様、どうかしっかり掴まっていてください」
泰然に抱え込まれ、三蔵は、言われた通り、しがみついた。馬の駆ける勢いが強すぎて、口を開くことも出来ず、振り落とされないようするだけで精一杯だった。
「……っ」
三蔵が、駆ける馬に乗ったのはこれが初めてだった。がくがくと頭の中身まで揺らされるような混乱の中、紫釉を置き去りにしたことだけは三蔵にも理解できた。馬は、三蔵のための一頭しかいない。
どうやって紫釉は追い付くというのだろう。
日が落ち、徐々に暗くなってきた頃、ようやく周りの景色がわかるくらい馬の走る勢いが落ちてきた。止まりそうになる馬をうまく御して、それでも泰然は馬を走らせ続ける。
必死すぎて分からなかったが、大河周辺から異様な気配と臭いが立ち込めて、息苦しさを感じるほどだった。三蔵は口を塞ぎたくなったが、速度が落ちてきたといえど走る馬の勢いは、泰然から手を離すことを許さなかった。口を開く余裕もない。
「申し訳ありません」
飛ばすように馬を走らせる泰然が、呼吸の合間に声を絞り出した。
「何が起こっているか僕たちにも分かりません」
ぽつ、ぽつ、と途切れ途切れに説明にもならない説明が落とされる。
「ただ異様な事態が起こったとき、僕たちは真っ先に貴方を逃がすと決めていました」
紫釉と泰然は、金山寺を出るときに互いに約束していた。長安に着くまでに何か不測の事態が起こったら、三蔵の近くにいる方が、三蔵を連れて迷わず馬を使って逃げるのだと。虎豹、妖魔の類に出会うことがあったら、立ち向かうなと恵岸様も仰っていた。出会わないように祈ること、出くわしてしまったら逃げること、泰然たちに出来ることはそれしかなかった。
降ってきた竜の生首が何を意味しているか、泰然たちにも分かっていない。けれど、あの場に留まっていてはならないことだけはわかった。迷う時間はない。泰然たちには、それが命取りになる。何かに出会ってしまってからでは遅いのだ。
ただ一人、三蔵の身の安全を優先する。
彼らが、三蔵とともに旅をし、三蔵を守り、三蔵に導きを与えるとは、そうすることを意味した。早合点なら、早合点でいい。あとで紫釉と合流して、取り越し苦労だったと笑い合って安心すればいいのだから。
「化生寺は、紫釉の足なら、止まらず歩いて二日です」
無茶なことを言っている。
三蔵を安心させようと笑おうとして上手くいかずに、口元を引き結ぶ泰然の心臓の音は、三蔵の心臓の音よりも大きく乱れていた。震えて泣いていないのが不思議なほどに、友を置いてきた恐ろしさをその体に押し込めているのだと聞かずとも分かった。
***
空をつんざめくような轟音は、長安にも届いていた。
数刻前、皇帝の右腕とも言われている宰相たる魏徵は、政務をさぼって城下町の川の畔で釣りに勤しんでいた。
「なんも釣れん」
水面を覗けば、泳いでいる魚たちがよく見えるのに、一向に釣り竿に引っ掛からない。まるで意味もなく魏徵の周りをぐるぐる回っている。
彼の救済者は未だ長安に現われず、迎えを寄越すにもどこにいるか分からないときた。御仏の力が及ばなかったことを知った皇帝は恐れをなして寝室にこもったまま姿を現さなくなり、政務は滞り、昨夜、魏徵は暇ではないが、暇になった。皇帝の代わりに政務を滞らせないよう積まれに積まれていた仕事を捌いていたのが昨日。魏徵の中の某かが、ぷつんと切れた。
――そうだ、釣りに行こう。
監禁されていたのかと思えるほど隠っていた政務室を夜のうちに脱兎のごとく抜け出して、日が昇り明るくなるといそいそと釣り道具を広げ、今に至る。
(ねむい)
溜まりに溜まった疲れにそよぐ心地よい秋の風が眠気を誘う。
(皇帝にも困ったものだ)
救済者を迎えたと御仏が告げたとて、長安は未だ平穏そのもので災いの兆しは見えていない。
(まだ焦る時ではないのだ、そうに違いない)
魏徵は、束の間の微睡みに身を任せた。
どれほどの時間が経ったろうか。ふ、と夢が途切れた頃合いだった。
雲ひとつない青空の下で、地を割くような雷鳴が轟き、魏徵はたまらず飛び起きた。雨が降るかと身構えたが、一向に晴れたまま、けれど、ぽつ、と顔面にひとつぶ滴り落ちる。
赤く、生臭い。
ざぁっと瞬く間に降り注いだのは、血の雨だった。
たった数秒、赤々とした雨を振り撒いて、ついで、空から、河そのものが落ちてきた。いや、正確に言えば、河そのものと思えるほどに長々と大きな竜の胴体が、空から降り、目の前の大河に落ち沈んだ。清涼なる河の水を己が血液と入れ替えるがごとく、ぶつと切れた断面を見せつけるように魏徵へと晒しながらどくどくと血を垂れ流しゆくそれは、斬られたのが尾っぽか頭か分からぬほど先が見えぬ。
けれど、魏徵は即座に『首がない』のだと判断した。
なぜならそれは、魚に待ちぼうけを食らいすぎて、すやすやと転た寝をしていた最中、魏徵が夢の中で斬った竜だった。
******
夜中馬を走らせながら、泰然は祈るように経を唱え続けた。泰然にしがみつく三蔵の震えと伝わる体温が、己の判断ひとつで危険に晒されるかもしれない。
(どうか、御仏の加護を。どうか、夜が明けたら大袈裟だったと笑われますよう)
祈りの声は、共に馬に乗る三蔵にだけ聞こえていた。
眠らずに夜が明けて、朝日がもたらすわずかな安堵を背に化生寺まで駆け抜けた。この事態に警戒してか、門前には、すでに数名の僧たちがいた。彼らは、止めた馬から崩れ落ちるようにして降りた泰然と三蔵を遠巻きに見るだけで近づこうとしない。
(説明を、しなければ)
地面から立ち上がれずに肩で息をする泰然の傍らで、三蔵がよろりと震えながら立ち上がった。誰に何を言えばいいのか分からないまま顔を上げ、視線を一巡させて化生寺の者たち一人一人を戸惑うように眺め見ていく。
〝名前を名乗りなさい〟
恵岸が言っていたことを思い出す。何かあったとき、まず名を名乗れと言われたときは冗談かと思ったが、今、その冗談に縋る以外の機転が三蔵には浮かばなかった。
「私は……」
つっかえそうになる声を、己を奮い立たせて保たせる。
「私は、玄奘三蔵です」
証明できるものが何もないのに、名乗ってどうなるというのか。込み上げる不安とまだ依然としてある玄奘三蔵だと名乗る忌避感を、必死になって震える息と共に飲み込んで名乗る自分は、まるで間が抜けている。
何も持たない両の手を合わせ、泰然たちが旅の中で何度も相手へと向けていた礼の仕方を頭の中でなぞらえて形にする。
「どうか、私たちを助けてください」
深く一礼する三蔵の幼い背を見上げて、泰然が、地面に膝をついたまま、それが自然なことであるように三蔵へと首を垂れた。その様が御仏を拝するがごとく仰望を持って為されているのだと、背を向けていた三蔵が知ることはなかった。けれど、泰然がその背を仰ぎ見て伏する様を見ていた化生寺の僧たちは、三蔵が、玄奘三蔵であるのだと理解した。
「よくぞここまで、ご無事でいらっしゃいました」
三蔵が顔を上げると、彼らが頭を下げる。
観世音菩薩たちに救済を乞われたときのことを思い出し、三蔵はわずかに身を硬くした。
一気に書き溜めるため、更新は一旦ここで区切ります。
10月後半あたりから文学フリマに向けて再開します。




