第二話
その御方は、白と青の空間が無限に広がる世界に御座していた。
どこまでも正常で清浄な空間は、蓮の花の香りに満たされ、吸う息も吐く息も甘く清らかだ。雲ひとつない高く澄んだ青空がゆるやかに地を這い、蓮が浮かぶ池に映し出され優しく滲んで溶けていく。
そこは、瑞々しい清廉さに満ちていた。
「成功したが、失敗した」
そんな場に落とされた穏やかな御声の囁きは、簡潔すぎて相反していた。
傍らに控えていた弟子が、思わず不思議そうに眉をひそめる。
「というと?」
「座標がずれた」
何でもないことのように返された言葉は、聞く者によってはありえないほどの異常さを帯びていた。
「……場所は」
「揚子江だ」
鮮やかな赤い髪を後ろでひとつに束ね、天女たる美しさの顔が、青と白とが広がる空間を透視するかのように見据えた。
「法明が溺れる三蔵を引き当てた」
髪と同じ色の長い睫毛が揺れる。その奥に隠された深遠なる緑の眼が軽く細められた。
「法明には褒美を取らせよ。彼のものを迎えに行く」
「御意に」
御方は、座っていた椅子から流れるような動きで立ちあがり、袖を靡かせて歩き出す。顰めつらしく従う弟子は、いかにも武人然とした大きな体で、利き手には鉄の棒を携えて後に続いた。
御方の白魚のように美しい指が、そっと進み行く方向へと翳される。
白と青の空間がゆらめいた。
ぽちゃりと、蓮の花の浮かぶ池に水滴がひとつ。
「世界は、確かに歪んでいる」
桜の花びらのごとく頼りなげな唇に、印象とは裏腹なひどく凄みを帯びた笑みが浮かび上がった。
「外界からの手入れが必要だ」
囁きひとつを残して、天上を絵に描いたようなその空間には、もうすでに誰も何も存在していなかった。
◆◆◆
心地の良い風が通る金山寺の一角。
夕日が完全に沈む一刻前、法明は何かに呼ばれたような気がして組んでいた坐禅をやめた。つと袈裟の裾を払い、方角を探るように、垂れた白い眉に覆われた老練さを伺わせる眼を眇めた。
「……これは」
予感がした。あるいは神仏の導きかもしれない。
行かなくてはならない。
どこへ?
疑問を疑問と思わぬうちにすぐさま弟子たちの中から二人ほど連れ出して、残りには留守を言いつけ、感ずるがまま近くにある河川へと降りて行った。
「法明様、いったいどうなされたのですか?」
法明は老体とは思えぬ健脚で一言も喋らず、ざっざと進んでいってしまう。何も言わずに連れて来られた弟子たちは、困惑しながらも後へと続く。
普段は穏和な師匠の、かつてないほどの異様さに、きっと不肖の身では分からぬ事態が起こっているに違いないと弟子たちはごくりと唾を飲み込んで、肝を据え直した。法明が行く先に何かがあるのだと。
進める足を止めない法明の耳に、ちりりと違和感が掠めた。水の中に没したときのように、鼓膜を塞がれるような違和感だ。河へと近づくたびに強くなっていく。
思わず片耳を押さえながら法明は歩みを急いだ。
予感がする。違和感が強くなるにつれ、それは確信へと変わっていった。
何かが起きている。
目的の場所へと辿り着いて辺りを見回すも、日が落ちかけている夕暮れ、視界はあまりよくない。けれど、法明は辿り着くと目に飛び込んできた光景に躊躇なく袈裟を脱ぎ捨て身軽となり、己の身を河へと投じた。
「法明様! 危のうございます!」
弟子が止める声は間に合わない。ざぶざぶと急な河の流れの中だというのに、法明は何かの力に引き寄せられるかのごとく水を掻き分け進んで行った。一人、弟子が後に続こうとするも、流れに遮られ思うようにいかなかった。
「法明様! 法明様!」
河の縁で師の名を必死に叫ぶ声を耳にしながらも、法明は、今、己が為そうとしていることを止めようとは思わなかった。
これは、使命だ。神仏に仕える身である己の使命なのだ。
それはもう予感ではなかった。予感という生易しいものではなかった。老体の心身が生むには熾烈な意志だった。まるで外枠から無理に授けられたと言われた方がよほど納得できるほどの意志だ。
流れの早い河の水飛沫に視界が覆われる。法明のしわがれた手が力強い動作で目的の者を掴んで引き寄せた。暴れる力もないのだろう、ぐったりとしているその者を、法明は己の肩へと腕を回させ、また再び河の縁へと泳ぎ出した。
日はすでに落ちていた。
河の半ばから迷うことなく、弟子たちが声を張り上げ叫ぶ河畔まで辿り着く。法明自身わけのわからぬまま突き動かされて助けたその者を河畔に寝かせた。
「もし、もし、ご無事か!」
意識はすでにないと分かりながら耳元で呼びかける。青白い顔が暗がりに浮かび上がった。もしや手遅れではあるまいなとひやりと肝が冷えたそのとき、せり上がる喉元を反らせて青白い顔が水を吐き出して咳き込んだ。
「うっ! げほっ、」
ごぼりと苦しげに吐く体を支え起こしてやり、背をさする。思っていた以上に細く頼りない背中にわずか内心で驚くも、激しく咳き込む相手にすぐに驚きも霧散する。
「大丈夫、もう大丈夫だ。安心せい」
薄闇に包まれた視界に、ふわりと灯された明かりで、法明が助けた人命の姿がはっきりと浮かび上がる。
その姿を目にした弟子たちが、驚きで息を呑んだ。
短髪の黒髪に、小豆色の着物を着た少年だった。
裾や袖の余りの少なさからいって、裕福な出ではないだろう。ただ、この地では見かけないような様相の奇妙な着物ではあった。
まだ意識が覚醒しきらない虚ろな少年の目が、茫洋と法明たちを眺め見ている。
「苦しかったろう。もう大丈夫だ」
法明は安心させるように少年を穏やかに労わった。少年は、焦点の合わない目を、労わりを尽してくれる声の方へぼんやりと向ける。
「もう、大丈夫だ」
繰り返される穏やかな声に導かれるようにして、少年は再び意識を落とした。
「ほ、法明様」
「……大事ない。意識を失っただけのようだ」
口元に手をかざし、呼吸の安定を確かめると法明は安心して息を吐いた。
それと同時に寒さに身を震わせ、腕をさすった。
「さて、風邪を引かぬうちに引き上げようかの」
「は、はい!」
「わしはちと疲れた。この少年の介抱を頼む」
「承知しました!」
弟子に自らが助けた少年を預けて、法明はぐっと腰を伸ばした。
振り返った先の河の流れは暗闇でもわかるほど急である。
(ほんに、何から何までおかしなことよ)
いくら法明が心身ともに健常で、鍛えられた老体の持ち主だからといって、普通に考えて法明よりも若く溌剌とした弟子ですら泳ぎ入れない流れの急な河の中で、人一人を抱えて泳ぎ帰るなど出来ることではない。
「導かれた、か」
神仏というのは容赦がない。こんな老いぼれを扱き使おうとは。
ほっほっと穏やかに笑いながら、法明はえっちらおっちらと少年を抱えて歩く弟子たちの後に続いて、自慢の健脚で余裕綽々と帰路へと付いた。