第十九話 香り。
「よかったぁ」
これからは気をつけますね、と泰然が肩の力を抜いた。
「そこまで気にしなくてもよかったのに」
「そういう問題じゃないんです」
泰然が、紫釉と同じようなことを言うので、三蔵は笑ってしまった。
「あ、お体は冷えてませんか? 寒いようでしたら布をお取りしますよ」
「大丈夫です」
手の中で少し温くなった湯の入った椀を持ち直して、残りを飲む。
腕を持ち上げたときに、ふわと鼻を掠める汗の臭いに、三蔵は思わず眉を顰めた。
「……体が洗えても、服が洗えないのはやですね」
着替えは最低限で、ほとんどは着の身着のままだ。臭いを気にするように、袖に鼻を付けて顔を顰める三蔵に、泰然がふふと笑う。
「気になるようでしたら、これを差し上げましょうか?」
泰然が袂に手を入れ、片手に収まる大きさの容器を取り出すと、三蔵の前に差し出した。
「御手を」
三蔵の手の平に、とんとんと一、二度容器を押し付けると、ふわりとほんのわずかな香りを放つ粉末がこぼれ出た。
「塗香といいます。心身を清め、邪気から守ってくれる塗り粉です」
手本を見せるように、泰然も自分の手に塗香を落とすと、練り香水を塗り込めるように、手首に広げ、残りを耳の後ろに擦り込んだ。余りは服にぱたぱたと擦り付ける。ほわりとほのかに香る香りに、三蔵は、あ、という顔をした。
「この匂いだったんだ」
「ん?」
「紫釉さんや泰然さん、いい匂いすることが多かったので」
「そうですか? あまり香りが持続するものではないので、たまたま使ったあとにそばに寄ることが多かったんじゃないですか」
そうなのかな、と思いながら、三蔵は手に出して貰った塗香を、先ほどの泰然と同じように塗り込み、残りを衣服へと擦り付けた。少しはマシになるだろうか。ふんふんともう嗅ぎ慣れた香りになってしまった香りを嗅ぎながら、三蔵が口を開く。
「馬から降りようとすると、紫釉さんって手を貸してくれるじゃないですか」
「そうですねぇ」
「いつもいい匂いだなって思ってて」
「……ふ、そ、そうなんですね」
泰然が肩を震わせて横を向く。
「え、なんで笑うんですか」
「や、ちょっと」
塗香の香りに持続性がないのは本当だ。手を差し出すときにいつも香っていたというなら、三蔵に手を貸すとき、紫釉はわざわざ塗香で手を清めていたということだろう。
「紫釉ってあんな堅物のくせにかわいいとこあるよねぇと思って」
「そうですか?」
「そうなんですよ」
泰然は笑いながら頷いた。
「何の話をしている」
禊ぎを終えた紫釉が、自分の名前が聞こえたのか、顰め面で立っていた。
「もう終わったの」
「悪いか」
「相変わらず烏の行水だねぇ」
「ゆっくりしても体が冷えるだけだ」
それもそうか、と泰然が座る場所を空ければ、紫釉も焚き火に当たる。
「紫釉って堅物のくせにかわいいとこあるよねって話してた」
「何を言ってるんだ、お前は」
紫釉は、顰め面をさらに顰めた。
「かわいいとこがあるかは分かんないですけど、優しいとこがあるのは分かります」
「はっ?」
紫釉はぎょっとして三蔵を見た。
「そうですねぇ、紫釉は優しいですよねぇ」
「泰然」
「褒めてるんじゃん」
「泰然」
怒るように泰然の名を呼ぶ紫釉を見ながら、三蔵が悪戯気に笑う。
「照れなくてもいいのに」
「三蔵様」
もはや名前を呼ぶことしかできないのだろう。弱った顔をする紫釉の耳は、ほんのり赤い。
(大人をからかい過ぎてしまった)
居たたまれなくなって三蔵は、傍に置いていた湯の入った椀に再び口を付けた。
紫釉や泰然は普段は落ち着いていて頼りになるが、他愛ない話をしていると、もしかしたら三蔵が思っているよりも大人ではないのかもしれないと思えることが何度かあった。
「そういえば、紫釉さんや泰然さんは、いくつなんですか?」
「今年で十八になりました」
さらりと答えられ、飲んでいた湯がおかしなところに詰まり、三蔵は大変に咳き込んだ。
「ど、どうしましたかっ?」
「大丈夫ですか?」
大人ではある。成人年齢だ。
「……姉と同じ年齢だったからびっくりしちゃって」
「そうだったんですか」
自分の姉と同い年という事実に衝撃を隠せず、三蔵はまじまじと紫釉と泰然を見つめた。
(だ、男子高校生じゃん)
姉が通う高校の文化祭を見学しに行ったときを思い出し、そのときにいた男子高校生たちを思い出し、こんなにもその言葉が似合わない十八があろうかと思った。
絶対嘘じゃん、という言葉を三蔵はかろうじて飲み込んだ。二十は確実に超えていると思っていた。若くないわけではない。ただ、十八にしては老成しすぎではないだろうか。
(こういうところにいたら、そうなるのかな)
思わぬところで、三蔵がまざまざと違いを感じていることなど、紫釉たちが知る由もなかった。
「さて、十分に休憩しましたし、そろそろ進みましょうか。もしかしたら近くに、泊まれる小屋があるかもしれません」
雑談が落ち着いた頃合いで、三蔵たちは立ち上がった。
紫釉たちの言う近くとは、半日以上歩いたとしても『近く』となるので、三蔵は期待せずに馬の傍に寄った。どうせ今日はずっと馬上だろうと、乗る前に労るように首筋を撫でる。
(雲でも、眺めるかぁ)
上向いた空に、しかし、今日も雲はなかった。
どこまでも澄み渡る青い空が広がっている。
いーい天気だなぁ、と虚しく青い空を見上げていると、ぽつ、と一点の黒点が視界に映った。徐々に大きくなっていくそれに、三蔵は目を凝らした。
遙か上空から何かを振り撒いて落ちてくるそれは、生首だった。
竜の、生首だ。
晴天の最中、まるで落雷のように凄まじい轟音とともに、竜の生首がひとつ目の前の大河に降り落ちた。先ほどまで禊ぎが出来るほど綺麗だった河からは地獄が蛆のごとく湧き出し、長安へと繋がる河は瞬く間に赤く濁った。
どろりとした生臭さが辺りを覆う。
死に絶えた魚の、白い腹の群れが猩々緋によく映えた。
目の前で起きた掛かる変事に、三蔵は、頬に垂れた竜の血を拭うことも忘れて、呆然と目を見開いて立ちつくした。




