第十八話 そんなこともある。
泰然が河から上がると、最後でいいと言う紫釉を抜かして、三蔵が禊ぎへと向かった。
「あのさぁ、紫釉」
三蔵の禊ぎが見えず、かつ、何かあったらすぐに駆けつけることの出来る範囲で待機していると、泰然が何とも恨みがましい声で紫釉を呼ぶ。
「なんだ」
「なんだじゃないでしょお! なんで言ってくれなかったんだよ!」
「なんのことだ」
紫釉が頑なに嘯く。
「な」
ここまで来てそんな態度取るか? と泰然は言葉を失ったが、共に旅をする泰然が三蔵の性別を分かっておらず、無神経な対応を度々取っていたにも関わらず黙っていたということは、わざわざ言わないという面倒な選択を取っていたことになる。
「三蔵様が少年じゃないと何か不都合なことでもあるの?」
「ない」
ないのだと思う、と紫釉はわずかに口ごもる。
少なくとも紫釉には思い当たる理由がない。
「が、三蔵様もあの御方たちも、私どもにお教えになることはなかった」
それは、黙っていろということではないのだろうか、と紫釉はいつも通りの生真面目な顔で泰然を見たが、その目には困惑していることがありありと分かる感情が宿されていた。
(なんだ、紫釉も困ってたんだ)
泰然は、気が抜けるように小さく溜息を吐いた。
「確かに、何も言われなかったねぇ」
泰然たちに御仏の考えることなど分かりようもない。三蔵自身が自分の性別を隠しているようには見えなかったが、金山寺を出てから隔てるものがない最中、ずっと共にいた泰然が気付けなかったのも確かだ。気付かせないくらいには、そう振る舞っていたとも捉えられる。
「ていうか、紫釉はいつ気付けたの」
聞かれた紫釉は、ものすごい渋い顔をしている。
「え、なにその顔。着替えでも覗いちゃったの?」
そんなわけがあるかと紫釉が強めに否定したあと、軽く咳払いをして、言いづらそうに口を開いた。
「……溺れて運んでいるときに不可抗力で、だ」
紫釉が悪いわけではないが、性格も相まって軽く流せず、気まずいのだろう。
「そっか。紫釉がおぶってくれてたもんね」
「ああ」
「え、それからずっと隠してたってこと?」
意外だ。紫釉はこういう隠し事が大の苦手だと思っていた。
「どういう思惑があるか分からないが、黙っておきたいのならそうせねばと」
「そっかぁ」
紫釉自身も三蔵が少女だと気付いているということを悟らせず、かつ、泰然にバレないようにしながら自然体に振る舞う三蔵への配慮に心砕く。泰然が思っていたよりも、紫釉に負担の掛かる旅になっていたかもしれない。
「ごめんね、気付けなくて。大変だったでしょ」
先ほどの、言って貰えなかった怒りを忘れて、泰然は労りを込めて謝った。
「いや、私こそ話せばよかった。お前になら話してもよかったのに」
「言っていいか分かんない状況だったなら仕方ないんじゃない?」
「……すまない」
「だいじょうぶだよ。もう知ったしね」
泰然は穏やかに笑った。
「それにしても、これから大変だねぇ」
「三蔵様は、あれで隠せている気でいるしな」
「いや、隠せてるよ。僕、気付かなかったんだから」
詰めは甘いし、紫釉の手助けがなければ早々にぼろが出ていたと思うが、ここまで共にいて気付かせなかったのは単純にすごいことだ。あんなにも自然体で過ごしているように見えたのに。
(あれ? いや、でも、三蔵様って本当に隠そうとしてたかな)
泰然は最初から少年だと思い込んでいたからこそ、もしかしたらということも考えもしなかった。考えもしなかったから、気付くこともなかったというところが大きい。自分の性別に違和感を覚えることがない多くは、自分の性別をわざわざ言わない。間違えられていると分かれば訂正もするだろうが、そうでないなら、そんな意識もないだろう。
では、三蔵は?
泰然たちは、三蔵に少年かどうかと聞いたことはないし、断定するようなことも言った覚えもない。
(もし三蔵様が隠そうとしていたわけでもなく、自分の性別にただ頓着していないだけでああなのなら、僕たちってものすごい失礼で間抜けじゃない?)
しかし、御仏すら間違いを訂正しなかったのだ。そんなことあるわけがない。
泰然は思い直した。
神仏が三蔵と同じように、性別に頓着していなかっただけとは夢にも思わず。
三蔵が禊ぎを終えたら、次は紫釉の番だ。
必然的に泰然と三蔵が見張り番として待つことになる。
「焚き火を暖めておいたので、風邪を引かないようよく当たってください」
まだ暑いとは言っても、秋である。河の水は体を冷やす。濡れた髪を拭きながら、言われたとおり焚き火に当たる三蔵に、沸かした湯を渡す。
「ありがとうございます」
やはり寒さを感じていたのだろう。ほっと一息つくように三蔵は湯に口を付ける。
「さっぱりしましたか?」
「はい」
「それはよかった」
ゆっくりとお湯を飲む三蔵を待って、泰然は三蔵に向き合った。
「三蔵様、ちょっといいですか」
「はい」
「あの、」
珍しく歯切れ悪そうに泰然が口を開く。
「三蔵様、改めて失礼を謝らせてください」
「へ」
三蔵は分けが分からず間抜けな声を出した。
「僕が禊ぎへ行こうとしたときの話なんですけど」
「はい」
「いきなり服を脱ごうとして、ごめんなさい」
三蔵は、泰然の謝罪を目を白黒させて聞いた。
「たぶん金山寺を出てから今までも、そういう風に驚かせるような行動を取っていたかもしれないって、紫釉に言われて反省したんです」
三蔵の性別を知らされていなかったとはいえ、不安にさせる行動を取っていたかもしれないと内心、落ち込んだのだ。
「家族でもないのに、びっくりしましたよね」
仮に家族であっても、同性同士であっても、そういう気安さを嫌うこともある。自分の中では普通だからと安易に考えず、三蔵様はどうだろうかと考えるべきだった。ただでさえ、生まれ落ち、育った場所が違うのだから。
しょんぼりとした泰然に謝られ、三蔵はぽかんとした。
「えっと」
言葉を探すように視線を宙に向けてから、三蔵は口を開いた。
「全然気にしていないから、大丈夫、です」
泰然も紫釉も、周りの身近にいた人たちよりもよほど、自分と相手の境がしっかりしている。謝る必要などないくらいに。
普段、日常で、こんなにも衒いなく、真っ直ぐに謝られる経験というのは、決して多くない。多くないのだが、泰然や紫釉たちと過ごすと当然のようにもたらされる。三蔵はその度に、どう受け止めればいいのかたまに分からなくなった。
軽く受け流すのも違う気がして、戸惑ってしまう。
自分の落ち度を開いて、相手へと理解してもらうという行為は、小さなことでもとても怖いことだ。考え方も何も違うかもしれない相手に過ちを開くというのは、自分が傷つくかもしれないことだからだ。自分は気にしていて心を尽くして謝っても、相手がどうとも思っていないこともある。謝る側も、罪悪感だけ吐露して相手がどう思うかはお構いなしの場合だってある。
泰然は謝ったその後も、いつも逃げずにそこにあった。
「三蔵様?」
黙り込んでしまった三蔵に、泰然が恐る恐る声を掛ける。
「ごめんなさい。気にしてくれて、ありがとうございます」
真面目すぎると言う人もいるんだろうけれどと、三蔵は、温かさに押されるように笑った。紫釉たちの歩く速度にも合わせられず、それなのに不足を嘆くだけの三蔵に、泰然も紫釉も、多くを与えようとしてくれる。
玄奘三蔵だから。
玄奘三蔵だけど。
(彼らが温かいと感じているのは、紛れもなく私だ)
そこにいると法明が言ってくれた。名前を変えられたくらいで、なくなることはないのだと。
それで、いいのかな。
ただ歩いて歩いて、泰然や紫釉たちと旅をして西方天竺国を目指すだけで、ただそれだけで彼らが救われることがあるというのなら、それでもいいのかもしれない。
思うより、ずっと時間が掛かることなのかもしれないけれど。
少しだけ、そう思えた。