第十七話 控えめ。
日が昇り、紫釉と泰然が経を唱える声で目が覚める。
日課だ。
頭はすっきりとしているが、体がバキバキなのも日課だ。
立ち上がって腕を回し、屈伸をしていると、香の香りがした。紫釉たちの方からだ。特に線香を焚いているようには見えないが、たまに彼らからは、霧雨のような降っているか降っていないか分からないくらいの香りが漂ってくるときがある。
「……」
すんと自分の衣服の袖を持ち上げて嗅いでみる。もう感覚が麻痺して、臭いかどうかすら分からなくなってきた。ふとしたときに汗の臭いが鼻につき、嫌な気分になる。紫釉も泰然も同じような状態だろうと思うのだが、それなのに紫釉も泰然も、なんかたまにいい香りがするので、この世界の人間はもしかしたら体の構造が違うのかもしれないとあらぬ疑いを抱いていた。三蔵にはわかるのだ。それがどんなにあり得ないことか。父と弟が姉から受けていた、臭いにまつわる、まぁまぁ理不尽なご指導ご鞭撻のほどを間近に見ていた三蔵にはわかる。娘に嫌われたくない父と姉に綿のように柔らかな思春期の心をズタズタにされていた弟の努力を間近で見てきた三蔵にはわかる。
三蔵はもうずっと自分の臭いにうんざりし、心地悪く思っているにも関わらず、何なんだこの坊主たち、御仏の加護か? と思わなくもないが、ただの僻みだ。
神仏の恩恵で、お風呂に入れなくても清潔さを保てるようにしてくれればよかったのにと寝起きの体をほぐしながら思った。
「おはようございます」
そんな考えはおくびにも出さず、経が唱え終わった頃合いで声を掛ける。
「おはようございます、三蔵様」
挨拶を交わすと、泰然は馬の世話を、紫釉は手早く朝餉の準備をする。数日前に貰った粟と木の実を煮炊き、椀によそって三蔵へと渡してくる。三人で朝餉を終え、後始末をしてからまた歩き出す。
「一番険しい道を越えたので、明日には長安に続く河川へと降りられるかもしれません」
歩きながら紫釉が、景色の広がる道で足を止め、眼下を指し示す。
「あれが長安に続く河です」
目に映る青々とした大地は、そしてそこに横たわる河は、途切れる先がまったく見えず、どこまでもどこまでも続いているかのようだった。
「すっごいですね」
「あの河のおかげで、ここは豊かなんです。あそこまで行ければ、民家や寺院が多くなっていくはずです」
「法明様が先々の寺院へと先に報せを出しておくと仰っていたので、うまくすれば野宿が減りますよ」
泰然が穏やかに笑う。
「河に着いたら身も清められますし、頑張りましょうねぇ」
「はーい」
軽やかに返事をした三蔵の傍らで、紫釉が難しい顔をしていたことには誰も気付かなかった。
「あの河には河竜王と呼ばれる竜が住んでいて、河の秩序を守っているんですよ」
「へぇ、そうなんですね」
伝承の類かなと思って三蔵は、さらりと相槌を打った。日本の川にもそういう話はある。千〇千尋でやっていた。
「河で漁を生業にしている者たちが一時、多かった時期があったんですけど、しかも豊漁な時期だったのか誰も彼も毎日毎日大漁に魚を捕っていくものだから、河の魚が全部いなくなってしまうと焦った河竜王が、皇帝の夢に出てきて諫めに来たなんて話しもあってね」
「あはは、面白いですねぇ」
河竜王にまつわる話は、くだらないものから不条理な災害の話まで細々と多岐に渡った。そうして泰然が面白おかしく語る河竜王の与太話を聞きながら、今日一日の旅は何の問題もなく締めくくられた。
明日は、紫釉が言ったとおり、河川へと降りられそうだった。
今日もまた、素晴らしく雲一つない晴天だった。
「良い天気でよかったですねぇ」
太陽が真上になった頃、ようやく禊ぎが出来そうな、岩肌に囲まれた川縁に辿り着いた。
「ここら辺で良い?」
「いいんじゃないか」
「今回、紫釉、ものすごいこだわったね」
いつもは開けたところでも平気なのに、今回はやけに人目に付きづらく、見張りからの視線も避けられるような場所を選び抜いていたように思う。おかげで、午前中には川辺に降りられたのに、もう昼だ。
「一応、危ないことないか確認してくるね」
よ、と岩肌へと足を掛け、辺りを見渡し、河の深さを確認する。
「あんまり奥まで行くと危ないけど、ここら辺なら大丈夫そう。川の水も冷たくなってきているから、一番暑い頃合いに来られて逆によかったかも」
水浴びも気持ちいいと思える暑さだ。
「どうしよっか。さすがに三人一緒に河に入るのは荷物が心配だし、三蔵様を一人にも出来ないし」
「時間はある。一人ずつ交代でいいだろう。そうすれば三蔵様を一人で見張りにさせることもない」
「まぁ、それもそうだねぇ」
紫釉が荷物から手拭いを取り出し、泰然が着替えを用意する。
「三蔵様、先に禊ぎなさいますか?」
問われて三蔵は、首を振る。体を洗いたいは洗いたいが、まだ外で服を脱いで水浴びをするという心の準備ができていない。泰然や紫釉の様子を見てから覚悟を決めたいところだ。
「そうですか? じゃあ、紫釉、先行く?」
「いや、私はあとでいい。三蔵様の昼の支度をしたい」
「そう? じゃあ、僕先に済ますね」
ここで順番を譲り合う意味はほとんどないと判断した泰然は、久々に体を清めることのできる嬉しさににこにこしながら自分の服に手を掛けた。
そして、紫釉に勢いよく止められた。
「泰然、ここで服を脱ぐな」
「え、なんで?」
僕が先でいいんだよね? と首を傾げる泰然に、紫釉が渋い顔をした。
「三蔵様の前で肌を晒すなと言っている」
重ねて言われ、泰然はさらに大きく首を傾げた。
「紫釉、金山寺を出てから何度かそういうこと言うけどさ、気にしすぎじゃない?」
「お前が、気にしてなさ過ぎるんだ」
「あー、私、弟もいて慣れているので、そこまで気にしなくて大丈夫ですよ」
三蔵が取りなすように割り入ると、泰然は、さらに不思議そうに目を瞬かせた。
それは、少年が言う台詞にしては、違和感を覚える言い回しだったからだ。
「そういう問題ではないです」
紫釉が頑なに首を振る。
泰然と紫釉は長い付き合いだ。生真面目な紫釉は、たまに過剰な生真面目さを発揮することがあるので、三蔵のこともそういうことなのだろうと思っていた。身分の違う相手の肌を見ないようにする配慮はあって然るべきなので泰然もそうしてきた。けれど、自分たちの肌を見せないようにするというのは、紫釉の面目を立てて配慮してきたが、相手がそういう趣味である者でもあるまいし、同性同士で四六時中共にいて、そこまで気にしていたら息が詰まってしまう。
「あ」
そこまで考えて、泰然は唐突に合点が行ったように声を上げた。
「……三蔵様っておいくつでしたっけ」
「十五です」
年齢を聞いたからといって何が分かるわけでもないが、ただ、十五というのは成熟しだしている者も中にはいるが、そうでないものも多い境目だ。
まして三蔵は、言ってはなんだが、少女らしさがとても控えめである。
心内のことでも最大限に配慮しながら泰然は思った。
紫釉の方を見る。
苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。
(えええ、なんでぇ)
言ってよおと、泰然は、その場で頭を抱えたくなるのをぐっと堪えた。