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西遊異譚  作者: こいどり らく
第二章
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第十五話 たゆまなく歩く。


 宝珠よ、泥の中で咲く美しい蓮よ。

 それがそこに在るということを知るだけで、わたしは救われる。




******




「摩訶般若波羅蜜多心経 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色無受想行識 無限耳鼻舌身意 無色声香味触法 無限界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽 乃至無老死亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩多 依般若波羅蜜多故 心無圭礙 無圭礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚故説 般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶…………」


 見上げる空が、どこまでも青かった。


 三蔵の乗る馬を引いて歩きながら、紫釉しゆ泰然たいらんがひたすらに経を唱えている。

(この世界にもお経があるんだなぁ。そうだよね、お寺あったもんね)

 金山寺を出てから、毎日毎日、飽きることなく紡がれるそれらをBGMにして歩き続けていた。選択肢はなく、もうこれ以上なく聞き慣れた。それは習慣であり、飽きる飽きないなどという問題ではなく、経を唱えるということは、毎日ご飯を食べるのと同じようなものなのだと気付けるくらいには、四六時中、彼らと共に過ごしていた。

(よく喉が潰れないよなぁ)

 山中を歩くときは、声を出しながら歩くのがいいというのは聞いたことがあるので、理に適ってはいるのだろう。

(あー、暇だなぁ)

 決して口には出さないが、馬に揺られながら三蔵は常にぼんやりぼやいていた。日がな一日、紫釉と泰然に先導されゆく馬の上に乗っている。険しすぎる道は馬を降りて歩きはするが、基本は馬上だ。馬に跨り、馬から落ちないように気を張りながら一日を過ごした。暇つぶしになるものは何ひとつとしてなく、人間と馬が、朝から夕まで天気など関係なく、ひたすら歩いて歩いて歩き通す。それしか出来ることがない。そうやって前に進む。

 そんなとき、三蔵はよく空を見上げた。空に浮かぶ雲を、何かの形に例えて遊ぶのだ。

 この上なく虚しさが襲ってくるが、そうやって気を紛らわせるものがあるだけよかった。だが、今日はすぐに空を見上げるのをやめ、帽子もうすを被り直した。見上げた青空に、雲の一欠片すらなかったかうえに、降り注ぐ日射しは秋だというのに熱かったからだ。

「……」

 喉元まで出掛かった溜息を、大きく吸い込み直して深呼吸へと変えた。

 あんなにもご大層なことを言われ、物語の主人公にでもなったかのような重圧と決意で『旅立つ』ということをしたが、日々やっていることは、日が昇り沈むまで、ただひたすらに歩くということだけだ。寝食はすべて道とも呼べない道の途中で済ませる。三蔵の旅路は、どこか屋根のあるところで休める方が稀だと恵岸から聞いてはいたが、口でそう説明されても、それがどれほどのことなのか三蔵には想像すらつかなかった。想像できなくても三蔵として旅に出るしかなかった。

 ふ、と経が途切れた。

「三蔵様」

 呼ばれて、三蔵は物思いから顔を上げた。

「ここからは馬を降りて歩いて行くのがよいでしょう」

「あ、はい。わかりました」

 説明もなく紫釉に言われても、何故とは思わなかった。

 平坦な道なら馬にも人にもそう負担は掛からないが、険しすぎる道は馬へ負担が掛かる上に、乗る方にもある程度の技術と心構えがいる。落馬したら元も子もないと思えるほどには、肝がひやりと冷える体験はもう何度かあった。三蔵自身が馬を降りるほどの道ではないのではと思っても、紫釉や泰然が三蔵の身の安全を慮るときは、素直に受け入れるのが一番いい。

 言われた通り馬から降りようとして、ふわりとごくほのかに香の匂いが鼻をくすぐった。香りの元を視線で追っていけば、もはや三蔵へ手を貸すことが考えるよりも習慣となっているのだろう紫釉の手が差し出されていた。三蔵は、すでに一人で馬から降りることができるくらいには馬に慣れていたが、紫釉の手を借りると危なげなく馬から降りられることを何度も体験していたので、紫釉の手が差し出されれば、その手を借りて馬は降りるもの、と反射で判断するようになっていた。あぶみに足を掛けて馬に乗ることが当たり前のように、紫釉の手を借りて馬を降りることは当前なのだ。

 と、と足が地面につく。

靴だけは、薄汚れた白い学生靴のままだった。金山寺で用意された履き物は、万が一のために持ってはいるが、貰ったとき試し履いて歩いてみて、数十歩で足が痛み出してだめだった。よろりとふらつく三蔵を支えた恵岸えがんが、とても申し訳ない顔をしていたのを覚えている。天がしつらえたという旅装束というものは、そんなにもいいものなのだろうか。少し、期待する。三蔵の学生靴は運動靴の形をしているが、所詮、学生靴だ。長時間歩くのにも、山道を歩くのにも、まして馬に乗るのにだって向いていない。用意された履き物より、慣れている分マシというだけだ。

「今日は日が落ちるまで、歩いて頂くことになると思います」

 よしよしと馬を労っていた泰然が、微笑んで振り向いた。

「途中で歩くのが辛くなったら、そこで休みましょう」

「はい」

 素直に返事をして、三蔵は一歩踏み出した。

 もう誰も乗っていない馬の手綱を握り直した泰然が、ゆっくりと歩き出す。

「三蔵様は、少し旅慣れてきましたか」

 問われて三蔵は、答えに困ったように曖昧に微笑んだ。

「どう、ですかね。よくわかんないです」

「そうですか。金山寺を出たばかりの頃より、肩の力が抜けているように感じたので」

 そうなのだろうか、と三蔵は首を傾げた。

 進まなければと気を張り、自分の大丈夫、まだ歩ける、という判断よりも、紫釉と泰然たちの判断に従った方が歩くのが苦しくないのだと分かるくらいにはなった。

 金山寺を出てから、過ぎる日にちが、紫釉たちに聞かないと分からないくらい過ぎていき、それでも、こんなにも歩き通しているのに、山のひとつも越えたらしいのに、まだ長安には着かないのだという。正確な日時を読むことの出来るものが何もない中で、感覚的な時間だけが漫然と過ぎていく。歩けば日が沈み、休めば夜になり、眠れば朝が明ける。そうして過ごす一日がまた増える。ここに来る前は、確か水曜日だった。今日は、何曜日になっているのだろう。明日は何曜日なのだろう。確認できるものはなく、考えても分からない。自分の知識だ、記憶しているものだと思っていた日常的に認識していたものは、確認できるものがあったからこそ保たれていたのだ。

(お姉ちゃんから、そういえば連絡きてたな)

 いつもより帰り、遅くなっちゃった日だもんなと徒然と思い出す。既読にする前に、手段がなくなってしまった。

 ただ歩き続けるだけなら、私でなくてよかったんじゃないか、と思ってすぐ、歩き続けるしか出来ないから私だったのだという思考が覆い被さる。

 ぽつ、と浮かぶ染みは、汗を拭っても消えなかった。

「摩訶般若波羅蜜多心経 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色……」

 転ばないように足元を見て歩いていると、また誦経ずきょうが始まる。二人の声に釣られて顔を上げれば、半歩前を歩いていた紫釉が気付いて目礼を返してきた。三蔵も思わず軽く会釈を返す。

 いつの間にか浅くなっていた息を大きく吐き出して、今度は、足元ではなく、前を向いて歩いた。彼らの祈りの声は、一人ではないのに、一人で歩いているかのように思い込んで黙々と歩いていた自分自身を、ときに気付かせた。



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